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国鉄301系電車

国鉄301系電車(こくてつ301けいでんしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した地下鉄乗り入れ対応の直流通勤形電車。1966年から開始された中央緩行線と帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)東西線の相互乗り入れの開始に備え、これに対応すべく設計され、クハ301-モハ301-モハ300-モハ301-モハ300-モハ301-クモハ300の7両編成が1966年に5本(35両)、1969年に3本(21両)の計8本が川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)および日本車輌製造で製造され、三鷹電車区(現・三鷹車両センター)に配置された。国鉄が初めて設計・製造した地下鉄対応の通勤形電車であるとともに、国鉄電車としては初めてアルミニウム合金車体を本格採用した車両でもある。国鉄分割民営化後は全車が東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承されたがすでに全車廃車されており、1両を残して解体されている。国鉄では台車が金属ばねで、鋼製車体が当たり前だった当時としては、アルミ車体と空気ばね台車の通勤車は異色の存在であり、製造費が高価だったため、登場間もない頃は「国鉄で最もデラックスな通勤形」と称されていたこともある。103系を踏襲し、片側に4か所の1,300mm幅両開きドアを備え、ドア間に7人、車端部に3人掛けのロングシートがそれぞれ並ぶ、当時の国鉄通勤形電車の標準に従う。ただし、本系列では車両メーカーである川崎車輛の提案により国鉄初のアルミ合金製車体が採用された。この車体のアルミ合金製構体部分は、同時期に製造された営団5000系アルミ車と共通設計であった。このため、製造担当はアルミ合金製車体の製造実績がある企業に限られることとなり、1962年製造の山陽電気鉄道2000系を皮切りにアルミニウム合金車体の電車の製造ノウハウを蓄積しつつあった川崎車輛と、やはり1963年製造の北陸鉄道6010系以降アルミ製車両の製造実績を重ねつつあった日本車輌製造の2社が選定された。製造時の段階では、鉄道車両に適した7000系アルミニウム合金が既に実用化されており、本系列の車体はアルミ製車体製造技術第一世代の完成形と言うべき設計となり、103系と比較して各車5 - 6t程度の自重軽減が実現した。アルミ車体の採用に伴い、その加工の困難さから、窓枠に別組み立てのユニット窓が採用された。雨樋の高さも車体を洗浄する際の利便性を配慮し、103系より若干高く後に登場する201系と同等となっている。これはアルミ合金製車体は耐食性が高いが、その反面鉄粉などの異種金属の付着による酸化(電食)には弱く、対応策として頻繁かつ徹底した洗車作業の実施が求められたために、1回の洗車で確実に外板の汚れを除去するための重要な変更点であった。側面方向幕はなく、構体改造の困難さから後年の改造でも取り付けられなかった。また、原型となった103系では主電動機冷却風取り入れ口を電動車の側面に片側2か所備えるが、本系列では設置されていない。前照灯が従来の前面上部中央に白熱灯1灯を設置する方式から、前方視認性や営団との協定から通勤形では初となるシールドビーム2灯を窓下に振り分けて設置する方式に変更されたことも特徴である。これによって表示器が従来の2つからに3つに増えている。内訳は、中央が種別および行先表示、左は運行番号表示、右は後の分割民営化後を含めて常にコーポレートマークを掲出していた。なお、これらの表示幕は汚れが酷く、1998年に運行番号表示をLED式に交換した。剛性値は下記のようになっており、国鉄101系電車と比較すると曲げ、ねじり共半分程度の値となっている。駆動方式は103系と同一のMT55主電動機を搭載し、歯数比6.07の中空軸平行カルダン駆動方式を採用した。主制御器については103系のCS20をベースに高加速によるスリップの防止対策が施された、CS20Bを搭載。主抵抗器は自然通風式として抵抗器の箱数を増やした。これは、強制送風式の場合ブロアファンの音が大きく、乗り入れ先の地下線内で騒音問題となりかねなかったことに配慮したものであるが、自然通風式は抵抗器が限られた床下面積を大きく占有し、しかもその周囲のエアフローに対する配慮も求められるためその艤装は難しく、状況によっては抵抗器溶断事故を引き起こすことが少なからずあった。台車は、国鉄の在来線向け量産通勤形電車としては初のダイレクトマウント式空気バネ台車となるDT34・TR204形を装着しており、103系のDT33・TR201形と比較して乗り心地が大幅に改善された。この台車は165系などに採用された大径心皿式インダイレクトマウント式空気バネ台車であるDT32形を基本として開発されたものであるが、軸箱にオイルダンパを装着せず、ベローズ式空気バネを車体直結としてボルスタアンカーを付加したため、機構面では大きく異なったものである。同時にダイレクトマウント化に伴い揺れ枕吊りが省略され、横梁部分の構造が大きく変更されたため、DT33と比較して軸距が2,100mmに縮小されたが、主電動機や歯数比が103系と共通のため、動輪径910mm・付随輪径860mmの関係は変わらない。空気バネ台車とした理由は、車体が軽量化されているために車体の揺れを軽減させるためでもある。東西線地下区間の架線は剛体架線であるため、パンタグラフはPS16形をベースに集電舟部分に小型のばねを追加して、集電舟自体を浮動構造としたPS21形を採用した。運転台のマスコンハンドルは、営団5000系と同様の跳ね上げデッドマン式とした。地下鉄での使用に際し、火災事故防止のために1953年に制定された車両構造仕様「A-A基準」に従い発火防止・不燃化・乗客の避難対策などが盛り込まれている。先頭部に非常用貫通扉を設置しているのが最も大きな特徴で、これにより103系の前面窓ガラスを上方に向かって傾斜を付け内側に窪ませる方式が採用できず、301系では貫通扉左右の窓を車体外方に向かって内側に窪ませる方式とした。客室の上段下降下段上昇ユニット窓は地下線内での怪我防止のために上段窓は全開するが、下段窓は75mmしか開かない構造とした。また地下線内での換気効率向上から、屋根上通風器は換気調節ができる角型押し込み式が採用された。本系列は当時の国鉄通勤形としては最先端な車両であったが、試作的要素が多く製造コストが非常に高かったことから、1969年で製造は打ち切られ、それ以降の増備については103系1200番台へ移行した。当初は電動車比率が高く設定され、MT比6M1Tの7両編成を構成していた。乗り入れ先の営団5000系に編成を合わせたため、M'cのクモハ300形が起こされているのが特徴である。後の10両編成への組み替えに伴い、電動車の電装解除や制御車の運転台設備撤去などの改造が行われている。登場時はアルミ金属地にクリアラッカーを塗布し、側面窓上に中央・総武緩行線のラインカラーである黄帯のホーロー式アルミテープ(JNRマークを片側2か所に配置するため、その部分は斜めに途切れる)を巻くというものであったが、第5編成の製造を担当した日本車輌の提案で側面窓下にも帯を巻いて登場したことから、川崎車輛が製造をした第1 - 4編成も順次追加された。また銀色1色であった前面も、保線作業員から「電車の接近が判りにくくて危険」との指摘があったため、前面窓下全体に黄帯が巻かれた。しかし、アルミテープには剥がれやすい欠点があったため、後に増備した第6 - 8編成は営団車と同様に樹脂製の板をビスで止める方式に変更され、先の5編成も順次それに合わせた塗装に変更している。また、アルミの表面が次第にくすんできたことや、表面保護のために塗布したラッカーにひび割れが発生したことから、1978年(昭和53年)になって、車体全体を103系1200番台と同様のライトグレーに塗装する工事が実施された。ただし、駅の放送や案内板などでは営団5000系が銀色だったこともあり、「銀色の電車」という案内が行われていた。しかし1989年に中央・総武緩行線の地上用として205系がステンレス地に黄帯で登場し、これを東西線への直通電車と間違える乗客に誤乗防止の観点から全車帯色を東西線のラインカラーであるスカイブルー(青22号)に変更された。同時に駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更されている。また1987年4月1日の国鉄分割民営化後は、JNRマークをラインカラーで塗りつぶし、代わりに白色の巨大なJRマークを両先頭車の側面窓下に貼付するという同線の103系1200番台と同様の措置がとられた他、本系列の特徴でもあった正面の電照式JNRマークはガラス裏面からプリントを剥がされた後、外側に黒文字のJRマークが貼付された。1989年には冷房搭載改造が施工された。改造費節約およびアルミ車体であることを考慮し、車体補強が不要なAU712形集約分散式冷房装置が2基搭載された。AU712形は外のキセ(カバー)部に温度制御のマイコンがあるため、夏場に不調になることが多く、対応策として2000年にK3編成のパンタグラフ部を除いた屋根全体を白色に塗り変えた。これはアメリカ航空宇宙局(NASA)が開発した耐熱塗料であり、スペースシャトルにも使用されているもので結果自体は良好だったものの塗料が非常に高価であり、AU712形搭載車が優先的に淘汰されたことから、その後は採用されていない。冷房電源については、これも台枠補強工事が必要な大型MGの搭載は避け、静止形インバータ (SIV) を各車の屋根に搭載した。しかし、黄帯で冷房化された車両は中間車2両に留まり、逆に青帯の非冷房車も存在している。5月18日、乗り入れ先の営団地下鉄東西線・行徳 - 浦安駅間を走行中にモーターカバーが破損する事故が発生し、破片は床板を貫通し天井に刺さり、乗客2名が脚に重軽傷を負った。事故原因を設計段階からのミスと認めた国鉄は、301系を一旦運用から離脱させている。輸送力増強のために7両編成6本(42両)から10両編成4本(40両)に組成変更を行った。当初は3両の増結編成を製造する予定であったが、製造終了から10年以上が経過していたことと、国鉄の財政が逼迫していたため新製は取りやめられている。組み替えは7両編成2本を3両編成に短縮の上、別の7両編成2本にそれぞれを連結して7+3の10両編成2本を組成し、その際に捻出された中間車をさらに別の7両編成2本に増結して10両貫通編成2本を組成するという複雑なもので、後者用にモハ301-4+モハ300-3が電装解除されてサハ301-101・102となった。余剰となった2両モハ301-11+モハ300-8は予備車となり、通常は休車となった。また編成の中間封じ込めとなるクハ301-1・3とクモハ300-1・3の4両は、運転機器が撤去されメーター類には蓋がされ、前面窓ガラスを含めてすべて灰色に塗りつぶされるなどの改造が行われた。なお、この編成組み替えは301系のみに施工されている。12月1日ダイヤ改正での東西線完全10両化により、7両編成で残存していた301系2本(14両)と103系5本(35両)計7本(49両)もすべて10両編成に組み替えられることとなった。301系は1本から抜き取ったMM'ユニット2両にサハ301形をもう一方の編成に増結するという方法が取られた。そのためモハ300-9を電装解除しサハ301-103に改造している。これによりモハ300-9のユニット相手であるモハ301-13は走行不能となったが、他の車両に致命的な事故があった時の緊急予備車として残された。なお、前回の組み替え時に休車扱いとなっていたモハ301-11+モハ300-8は、運用復帰している。301系と103系1200番台それぞれで余った5両同士で5+5の10両編成が組成され、初の混結編成が出現した。編成番号は分割を考慮して103系1200番台がK9、301系がK10と分けられていた。この編成は301系が空気バネ台車・通常制御器、103系1200番台が金属バネ台車・超多段制御器であることから来る乗り心地の差や性能の差があるため、営団乗務員からの評判はかなり悪かったという。この編成は両方の先頭車に連結用の幌を付けていたため、編成組み替えの自由度が確保されていた。この組み替えに合わせて1981年組み替えの編成内容が7+3は5+5に、10両貫通は付随車の連結位置を8号車から6号車に変更され、すべての編成が5両編成2本に分割できるようになった。1990年から1992年にかけてK10編成と編成から外れていたモハ301-13を除いた全車に以下に示す更新工事を施工。大井工場(現・東京総合車両センター)施工の103系1000・1200番台には座席端部のパイプの中に仕切り板が設置されたが、土崎工場(現・秋田総合車両センター)など他工場で更新施工された本系列には未設置となった。301系は1990年(平成2年)に従来115系が保持していた国鉄・JR新性能電車における単一系列の登場より初廃車発生までの最長記録23年を更新している。これは営業区間に踏切が1か所もないため踏切事故が発生しなかったこと、少量生産・特殊用途系列で他地域への転属も無かったこと等によるものであるが、これ以降は諸問題により廃車が進行していくことになった。1990年代になると、更新工事を施工したとはいえ老朽化がかなり進んでいたが、本格的な置き換え実施は遅れた。これは、新車が度々入っていた千代田線乗り入れと異なり、東西線乗り入れの場合はJR線の区間が中野駅 - 三鷹駅間9.4 km及び西船橋駅 - 津田沼駅間6.1 kmの計15.5 kmと短く、かつ西船橋駅 - 津田沼駅間は平日ダイヤのラッシュ時しか乗り入れていないため、新車投入の費用対効果が低いとされたためである。しかし、もはや本系列自体が既に時代遅れの電車であり、故障が増えてきた上に、抵抗制御車は構造上熱を大量に発生させるために地下区間での長期運用は環境・車両ともに悪影響が大きく、継続使用が困難になりつつあった。機器類が陳腐化しており、この時期には営団の主力となった05系に対して明らかに見劣りするようになっていた。301系とほぼ同時期に製造された営団5000系も一部編成で冷房改造が施工されたが、その際界磁添加励磁制御への改造も行われて回生ブレーキが使用できるようになったため、抵抗制御で存置された301系との格差はさらに顕著になっていった。1996年(平成8年)4月27日の東西線と東葉高速鉄道東葉高速線との相互直通運転開始により、JR車の東西線運用が大幅に削減された。平日は朝夕のみの運用が中心で、日中の運用は2運用のみで東西線内の快速運用は激減した。さらに土曜・休日は日中の3運用のみですべて各駅停車、うち1運用は2往復の運行となったため、余剰となった6両が予備車削減政策の一環で廃車対象になった。対象となったのは前述のモハ301-13と混結編成の301系K10編成である。実際は営業離脱後クハ301-6+モハ301-18+クモハ300-6の3両は大宮工場で他の廃車予定車とともに留置された末、1997年7月2日に廃車された。残りの3両は三鷹電車区に残留し、1998年1月5日に廃車された。この廃車によって、K10編成と10両編成を組成していた103系1200番台のK9編成は他編成の検査時の代車としてのみ使用されることになった。予備車も削減されたことや東西線直通車は5両ずつ検査を受けるということを利用し、残った5両とK9編成で臨時編成を組んで対処した。最終的にJR東日本が103系を首都圏から一掃する方針を決定したことや、営団も東西線のATCを新型に更新することが発表されたことで、残存車も2001年(平成13年)頃から置き換え計画が浮上し、2002年(平成14年)秋には正式に置き換えが発表された。このため、同年12月1日のダイヤ改正でJR車の東西線直通運用が削減されると、これに合わせて検査期限の近かったK1編成が廃車となった。さらに、後継車であるE231系800番台が竣工するのと交代に、順次定期運用を離脱してゆき、2003年(平成15年)6月10日の09K運用のうち朝の1往復の営業運転をもって定期運用を終了した。運用終了後は他線に転属することなくただちに全車廃車となった。ただし、K4編成は103系1200番台であるK9編成とともに新車故障時の予備という意味もあってしばらく保留扱いにされ、拝島に疎開留置の手配が取られた。本系列は廃車後に車体のアルミ材をリサイクルする予定となっていたが、具体的なリサイクル状況については公表されなかった。東西線直通運用からの離脱後、拝島に疎開していたK4編成は2003年(平成15年)夏まで車籍を有しており、同年8月3日にK4編成を使用して三鷹駅 - 高尾駅間で快速「さよなら301系」号としてさよなら運転イベントを行った。記念列車は列車番号9567Mで、高尾では301系の他、E231系800番台、165系、201系四季彩編成を電留線に留置した上での展示撮影会も行われた。さよなら運転については、当初は定期列車として中央緩行線 - 東西線で運行する計画もあったが、営団との調整がまとまらなかったため、旅客営業運転では最初で最後の中央線快速での運行となった。塗装の特別な変更などはなされず、定期営業運転終了時の青帯にさよならマーク(シール)を貼付して運行された。また、当日には「地下鉄東西線直通電車さよなら記念オレンジカード」(台紙付・3枚セット3,000円)が沿線15駅(中野駅 - 国分寺駅間の各駅・高田馬場駅・立川駅・八王子駅・高尾駅)で販売されたが、発行総数合計4,500組限定で当日中に完売した。その後、同年秋に台紙なしで別デザインではあるが、再び「さよなら301系オレンジカード」として販売された。最後まで残留したK4編成は翌8月6日に大宮へ廃車回送され、これをもって301系は系列・番台区分消滅した。K2編成の10号車に組み込まれていたクモハ300-4が大宮総合車両センターで保管され、残存している。当初は大宮駅ホーム至近場所に置かれていたが、他の保管車両と共に元解体線跡へ移動した。前面方向幕の表示は日焼け予防のため時折変わるという。鉄道博物館への保存候補からは外れたが、状態は良い。なお、2003年(平成15年)5月の大宮工場一般公開で廃車直後のクハ301-7が展示されていたが、こちらはすでに解体されている。

出典:wikipedia

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