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新幹線200系電車

新幹線200系電車は、かつて日本国有鉄道(国鉄)およびこれを承継した東日本旅客鉄道(JR東日本)が設計・製造・保有した新幹線電車である。1982年(昭和57年)に開業した東北新幹線・上越新幹線の初代営業用車両。200系は、1982年(昭和57年)の東北新幹線および上越新幹線の開業に合わせて、962形試験車を基本として量産化され1980年(昭和55年)に発表された。100系(1985年登場)よりも発表が早いにもかかわらず系列・形式番号が200系と大きいのは、200系の登場当時の付番体系が、東北・上越新幹線系統の車両の百の位には偶数を、東海道・山陽新幹線系統の車両の百の位には奇数を与えるようなものだったためである。国鉄分割民営化後には200系にも100系と同様の2階建て車両が登場した。2013年(平成25年)3月15日限りで定期営業運転を終了し、同年6月までに全車が廃車となった。製造期間は1980年から1991年までの11年、総生産両数は700両だった。なお、本系列の廃車によって国鉄時代に製造された新幹線電車が本線上から全て姿を消している。200系は落成時の営業最高速度に従って番台が区分された。具体的には、1980年から製造された基本番台は営業最高速度が210km/hであるのに対し、1983年以降に製造された1000・1500・2000番台では、いずれも240km/hとなっていた。なお、基本番台の中にも240km/hおよび275km/hの走行対応が可能なように改造された車両が存在していた。200系の先頭車には、2種類の前面形状のものがあり、一つは国鉄時代に製造された0系に似た「丸目丸鼻」(ラウンドノーズ)のもの、もう一つは国鉄分割民営化後に製造された100系に似た「流し目」(シャークノーズ)のもの(200番台、2000番台)である。なお、0系に似た先頭車の運転席の側窓は、0系2000番台と同じく開閉可能な状態で製造された。また、200番台は225形もしくは226形中間車からの改造車、2000番台は新製車である。200系のデザインは0系から派生したものである。0系からの違いは、車体下部まで一体のボディーマウント構造とした。そのため、車体は2重床構造となり、床下機器はボディー底面に搭載することで耐雪・耐寒性を向上させた。0系と同様に普通鋼製車体のままこの構造を採用すると重量が過大となることから、200系の車体はアルミ合金製となった。200系は、951形を設計のベースとし、構体骨組は加工性や溶接性に優れた7N01(Al-Zn-Mg)を、車体外周部には耐食性に優れた5083(Al-Mg)を、車体側面部から屋根にかけての曲線部には7N01よりも押し出し加工性に優れた7003(Al-Zn-Mg)を使い分けることで、構体重量7.5t(0系比3tの軽量化)を実現した。ただし後年登場した2階建て車両(248形・249形)は、製造コストや電動機非搭載の観点から普通鋼製となった。電動機を冷却する際に、外気とともに取り込んだ雪を分離するために、雪切り室が設けられた。先頭部のスカートはスノープラウと一体化した形状である。豪雪地帯を走ることから、線路面上に積雪があっても支障なく走行出来るよう設計され、確認試験も行われた。車体塗装は、クリーム色をベースに窓の部分に緑14号の帯を配した。この色使いは寒冷地を走行するため雪解けの新芽のイメージから選んだとされている。登場時には「緑の疾風(みどりのはやて)」の愛称があった。主回路制御は0系の低圧タップ制御に替えて、架線からの交流25kVを主変圧器の2次巻線を不等6分割(1:1:2:2:2:2)し、それにサイリスタと呼ばれる半導体素子とダイオードを取付けたブリッジ(整流回路)を取付けて、6分割構成としたサイリスタ・ダイオード混合ブリッジとし、電圧比1の巻線のブリッジをサイリスタによる位相制御とし、他の巻線のブリッジはオン・オフ制御によるバーニア制御の位相制御とすることにより、2次巻線の6分割のブリッジを10分割のブリッジに相当する位相制御とし、それにより整流・制御された直流電源で主電動機を駆動するバーニア連続位相制御が採用されている。MM'ユニットを採用し、M車(221形・225形)には主制御器と抵抗器が、M'車(222形・226形)には主変圧器・整流装置・補助電源装置・空気圧縮機・集電装置が搭載される。主制御器は、電動カム軸式である CS47 を採用する。発電ブレーキにおいて抵抗器を使用したバーニアチョッパ制御が行われるため、転換カムと抵抗カムのほかにフリーホイールダイオードや過飽和変流器を搭載する。保守点検が必要となるカム接触器や電磁接触器を機器前面に、コイルや抵抗器を後面に配置し、重量は940kgである。主変圧器は、送油風冷式外鉄形である TM202 を採用する。一次巻線は2,350kVA、主回路用の二次巻線は2,100kVA、補助電源回路用の三次巻線は250kVAの定格容量を備える。シリコーン油とポリアミド絶縁物を主体とする特別A種絶縁を採用することにより、TM201(0系)と比較して容量比で64%の小型・軽量化がなされ、ボディーマウント構造や耐寒性材料の採用により耐寒耐雪対策が図られている。また、点検する部品を車体の一側面に集中させて向けることで保守や点検を容易化を図り、ボディーマウント内の空気を冷却用として使用している。主電動機は、直流直巻式電動機 MT201 を採用する。連続勾配や降雪時の走行抵抗増加対策で連続定格出力が 230kW に増強され、冷却方式を雪切り装置による他力通風方式に変更した。他力通風方式を採用することで冷却ファンが不要となり、スペースを活用して鉄心を20mm延長することで MT200B(0系)と同寸法ながら出力を向上させた。さらに、長さ68mmの長尺ブラシを採用して摩耗代を長くとり、軸受構造には第2グリース室を設けて潤滑寿命を長くすることで無保守走行距離の延長を図っている。電動車台車はDT201、付随車台車はTR7002と呼称され、電動車は0系と同等のものを装着する。着雪による動作不良を防ぐために、バネ部分にカバーが装着されている。ブレーキは、電動車では0系と同じく発電ブレーキを高速域での減速に使い、低速域では空圧油圧変換式ベンチレーテッド車輪ディスクブレーキを使用する。H編成組成時に新製された2階建て車両の248・249形は200系唯一の付随車であったが、同じく付随車2階建て車両を有していた100系とは異なり、渦電流ブレーキを設置せず、ディスクブレーキを車軸に2枚設置した。IS式軸箱支持装置、枕バネは0系と同様に採用された。集電装置は0系から引き続き下枠交差型パンタグラフが採用された。PS201と呼称される。集電舟(架線と接触する部分)が可動式となった微動すり板を採用したことにより架線追従性が向上し、台枠をFRP製にすることで誘導障害の低減を図った。さらに、降雪対策として押上げ力を5.5kgから7.5kgまで向上させた。当初の200系の編成では電動車の各ユニットごとに1基のパンタグラフが搭載されていたが、走行時の騒音源となっていた。これを解決するためには、車両間に特高圧引通線を引き通し、そこにパンタグラフを繋げて、使用するパンタグラフを少なくして列車の電動車の各ユニットに架線からの電気を供給することであるが、東北・上越新幹線はAT饋電方式を使用しており、BT饋電方式でトロリー線に設けられたブースターセクションが無いため、交流電源の周波数の位相差により、パンタグラフの間で特高圧引通線を介して電気が流れトラブルを発生させることが無いため、実施が可能であり、F・H・K編成では天井に這わせた高圧ケーブルによる特高圧引通線を車両に引き通して、ケーブルヘッドにより車両間を接続することにより、パンタグラフの実使用数を削減することにした。0系とは違い、車両に設置されている空調室外機が車端部2箇所に集約されているため、200系ではこの様な引き通しが可能になった。なお、使用しないパンタグラフの一部は、折り畳んで予備として車体に搭載したままにされた。この引き通し線は、新製時から引き通しがなされている1000番台車両の場合はすべて山側(列車を南北に延ばした際の西側)に設置された。しかし、新製後に改造して設置された0番台車両(E編成から改造されてF編成に編入されたものなど)のうち、225形などの奇数形式では引き通し線は海側(同、東側)に、226形などの偶数形式では山側に設置されている。パンタグラフカバーは、常時使用のパンタグラフでは、四方から囲む形で、予備のパンタグラフは、車両サイドのカバーが省略されている。0系ではアナログ指針式の速度メーターであり、故障機器の状況は人間が故障個所まで行き対処しなければならなかったのに対し、本系列では、運転台にいながらにして機器の遠隔解放ができるシステムが装備された。日本の鉄道車両では初めて運転台にキャラクタディスプレイによるモニタ支援装置を装備した。9.6kbpsのFSK (Frequency Shift Keying) モデム伝送によるもの。ドットマトリクスによる片仮名・アルファベット・数字のみを、8行×33文字(合計264文字を同時に表示可能)で表示していた。たとえば走行中は、2行目に「ウンテンジョウタイ」、4行目に「TIME 00:00:00 キロ 12.2」、5行目に「SPEED 206 ノッチ B 3 」、6行目に「ATC 110 ジョウヨウ * 」7行目に「カイホウ」などのように表示されていた。これらは21世紀初頭の現在においても通用する設備であり、乗務員の作業が大幅に軽減された。普通車の座席は0系と同様の海側3列の合計横5列配置で、0系で試行されたオレンジ基調の簡易リクライニングシート (D-23, D-32) が採用された。本系列では座席前後間隔は980mm、3列座席は集団離反で回転出来ないものとなった。後年、モケットは交換された。1987年(昭和62年)に登場した200, 2000番台は100系と同じ1,040mm間隔となり、フリーストップ式のリクライニングシート、3列座席も回転出来るようになった。ただしこの200, 2000番台は先頭車のみで、当時、中間車は3列座席回転不可能だったため、格差が生じていた。後年、JR東日本は3列席を「本体部のみ回転」させる方式を考案した。これは両端の手すりを残して回転させるもので、座席間隔を広げることなくフリーストップのリクライニングシート化を実現させた。まずは1990年(平成2年)にH編成の中間車のうち、指定席普通車となる車両を座席交換し、さらに該当車両は拡大した。なお、この方式は西日本旅客鉄道(JR西日本)も0系で採用した。後述のK編成リニューアルに関しては、簡易リクライニングだったものに関してはE4系と同等品に交換された。普通車の3列座席も全体が回転する構造となっているが、両端のひじ掛けを曲げる、背すりを鉛直にするなどの工夫で座席間隔980mmのまま回転可能とした。既に「本体部のみの回転」だったものに関してはモケットの張り替えのみが行われた。空調機器は多雪地域・寒冷地を走行する事から冷房専用のAU82形となり屋根上の車体端部に設置した、暖房は電気ヒーターを別に使用した。これは、0系のAU56・57 (ヒートポンプ式)では比較的温暖地の東海道・山陽でも暖房能力が不足気味であった事から変更された。本系列に属する各形式名とその車種は以下のとおり。付随車である248形と249形以外は、奇数形式と偶数形式でペアを組んでMM'ユニットを構成する。この他、長期に渡る使用の過程で、運用の見直しなどにより以下の各形式について改造による番台区分が発生している。特に記載のない場合、普通車のシートピッチは980mmである。それぞれの概要は以下のとおりである。12両編成、ラウンドノーズの前面形状。東北新幹線・上越新幹線開業に備えて投入された編成。210km/h走行対応。仙台第一新幹線運転所と新潟新幹線第一運転所にそれぞれ18編成ずつの計36編成(E1 - E36編成)が配置された。基本番台のE1 - E36編成は1980年(昭和55年)から1982年(昭和57年)までに432両製造された。編成中に連結されている225形のうち、5号車には車販準備室を備える225形400番台の車両が連結された。1983年(昭和58年)に製造された1000番台の6次車・E37 - E39編成は240km/h対応で、落成後すぐにF1 - F3編成に改番された。詳細はF編成を参照。F編成登場後は240km/h対応ATC改造やブス引通しといった対応工事を施したうえで車両番号そのままにF編成化されたり、短編成化されてG編成を組成した。1991年5月9日 - 6月25日にかけて、7号車と11号車の入れ替えを実施。それ以後はグリーン車が11号車となった。これは同年6月20日の東京駅乗り入れ開始当時新幹線ホームが1面2線のみだったため、E・F編成での自由席の位置を東北新幹線(1 - 4号車)と上越新幹線(5 - 8号車)としたためである。1993年(平成5年)9月にF編成組み換え改造が完了したことに伴い消滅した。1983年(昭和58年)11月にデビュー。12両編成。240km/h走行対応。6 - 10次車グループの1000番台・1500番台で構成された。1000番台の最初のグループである6次車・E37 - E39編成は1983年(昭和58年)に36両製造され、年内にF1 - F3編成に改番された。F4 - E21編成は上野延伸に伴う増発用として1984年(昭和59年)から1985年(昭和60年)までに216両製造された。7次車より先頭車(221・222形)の業務用室縮小により各車の定員が5名増加し、1500番台を名乗った。中間車は1000番台の続番とされた。また、同時にE編成7本(E30 - E36)に240km/h対応を施してF編成(F51・F52・F61 - F65)に繰り入れられた。F61 - F65編成は当初ATC改造のみだったため、高圧引き通し工事終了後にF53 - F57編成に改番された。このあともE編成からF編成への改造が進み、最終的にはF1 - F21・F30 - F43・F51 - F59編成が揃った。1987年(昭和62年)3月、100系と同じシャークノーズの2000番台先頭車(10次車)が川崎重工業で4両製造され、F52・F58編成に組み込まれた。翌1988年には中間車を改造したシャークノーズの200番台先頭車2両がF42編成に組み込まれた。これら3編成にはピンストライプが入る塗装となった。「とき」用E編成の10両G編成化で生じた余剰車とF52編成からの先頭車両を組み込んでF66編成が組成された。F66編成のグリーン車とビュフェ車は225形普通車からの改造車215-102・237-102が組み込まれた。後にF59編成となり、さらにF91編成に改造された。詳細はF90 - F93編成を参照。200番台先頭車はさらに6両改造され2階建て車両を12両製作し、1991年(平成3年)3月改正に合わせF42・F43・F52・F55・F57・F58編成から16両編成のH1 - H6編成6本が組成された。これら6編成はピンストライプが入る塗装としている。1991年6月23日の東京駅乗り入れ時、同駅のホームが1面2線しかないことから、自由席を待つ乗客の列を分散させるため、上越新幹線「あさひ」の自由席を5 - 8号車に変更することとなり、同年5月9日 - 6月18日にかけて、7号車と11号車の入れ替えを実施。それ以後はグリーン車が11号車となった。1992年までにG・K編成組成で先頭車両捻出のため、中間車6両をシャークノーズの200番台先頭車に改造しF5・F8・F40編成に組み込む。これら3編成は標準塗装としている。F編成は主に東京駅 - 盛岡駅間の「やまびこ」で使われていたが、H編成とともに2004年(平成16年)3月13日のダイヤ改正で定期運用を終了。その後臨時列車などに充当されることがあり、上越区間の「Maxとき・たにがわ」(E1系使用列車)の代走運用に入った事例もあった。2007年(平成19年)まで新潟新幹線車両センターにDS-ATCを搭載するF19編成が残存していたが、同年3月25日に燕三条駅で開催された「さよなら200系F19編成展示会」を最後に運用を離脱し、5月9日に新幹線総合車両センターへ廃車回送され、5月11日に廃車、F編成は消滅した。12両編成、ラウンドノーズの前面形状。240km/h走行対応。F17編成を改造して付番されたものである。車両番号に変化はない。1998年(平成10年)2月の長野オリンピックの臨時輸送用に、北陸新幹線(先行開業区間)乗り入れのための発電ブレーキ容量増大・電源周波数50Hz/60Hz切り替え装置を搭載したほか、装置の増加により重量が増したため、先頭車にあたる1・12号車の座席はE2系と同等の軽量のものに交換されている。また、市販の時刻表においては「200系車両で運転」の注釈があった。電源周波数切り替え装置は臨時輸送終了後の同年11月までに撤去されている。2004年(平成16年)6月18日付けで廃車となり、本系列による北陸新幹線(先行開業区間)乗り入れ可能車両は消滅した。12両編成、ラウンドノーズの前面形状。上越新幹線下り上毛高原駅 - 浦佐駅間で275km/h走行に対応するためにF54, F59, F14, F16編成を改造して付番されたものである。車両番号には変化はない。具体的な改造内容は下記の通り。1997年(平成9年)3月22日に500系が山陽新幹線で最高300km/hでの営業運転を開始するまで、日本の営業列車としては最高速の275km/hでの運転を行っていた。ATCの信号現示が200系F90番台編成の場合は「275」、300系の場合は「270」であることから1992年(平成4年)に営業運転を開始した300系より速かったと言われていた。実際には、ATCの頭打ち速度は300系も275km/hだったためATCの抑止速度で考えた場合最高速は同速ということになるが、営業速度で考えた場合にはこのF90番台編成が最速であった。なお、この275km/h運転時には越後湯沢駅に停車することができなかった。275km/h運転は1999年(平成11年)12月4日まで続けられた。2002年(平成14年)にまず、F90, F92編成が廃車された。同年に東北新幹線開通20周年記念として「想い出のあおば号」がF93編成によって運行された。その後、残ったF91, F93編成も2004年(平成16年)に廃車となり、200系での275km/h走行編成は消滅した。上越新幹線の「とき」(当時は各駅停車タイプ)や東北新幹線の各駅停車タイプの「あおば」(1997年(平成9年)に消滅)の利用率の状況から、E編成の一部を10両編成に減車した編成、後に8両編成に短縮された。全車ラウンドノーズの前面形状。国鉄分割民営化直後の1987年(昭和62年)4月から「とき」用に、E10・E20 - E24・E26・E27・E29編成の3・4号車が抜かれて(E23編成のみ5・6号車抜き取り)順次10両に短縮された(G10・G20 - G24・G26・G27・G29編成)。同年に225形普通車4両からグリーン車2両とビュフェ車2両に改造する工事が行われ、グリーン車の215-901, 902、ビュフェ車の237-901, 902が落成した。年内に215-101, 102・237-101, 102に改番されF66編成(後のF59編成→F91編成)とG48編成に組み込まれた。1988年(昭和63年)3月には、さらに2両を抜いて8両編成化が実施された。このとき捻出された中間車を用いてG26・G27・G29編成は再度12両編成化され、F41 - F43編成を名乗ったほか、余剰車を使用した2代目G27編成・G28編成が組成される。同時に、グリーン車の半室化工事とビュフェ車の普通車化(含車販準備室・車椅子対応設備)工事が実施されている。この組替で新たにE9編成がG9編成になっている。G9・G10編成は後にG25編成・2代目G26編成に改番されている。1989年(平成元年)11月からは、「あおば」用としてG40 - G48編成の8両編成8本が組成された。E4・E7・E12・E13・E8・E18・E19編成から普通車ユニット4両を抜いてG40 - G43・G46 - G48編成が、余剰車を用いてG44・G45編成が組成された。なお、G48編成のグリーン車とビュフェ車は225形普通車からの改造車215-101・237-101が組み込まれた。G20番台(新潟新幹線第一運転所配置)は半室グリーン車・ビュフェなし、G40番台(仙台総合車両所配置)は全室グリーン車・ビュフェあり(ただし非営業)という違いがあった。なお例外は全車普通車のG45編成(仙台配置)で、1992年にグリーン車が組み込まれた。G45編成はグリーン車組込以前は運用が限定されており、当該列車は時刻表に「グリーン車なし」と表記されていたためすぐに判別できた。最高速度が210km/hのままで高圧引き通しの改造はなされず(パンタカバーは設置)、このグループから廃車が始まった。1997年(平成9年)6月1日付けでG43編成のうち226-61と225-413の2両が廃車となった。これは200系の中で初めての廃車となった。226-63のみ925形試験車「ドクターイエロー」の軌道検測車921-32に改造されたが、残りの5両は保留車となった上同年10月6日付廃車になった。1999年(平成11年)3月までに全廃されている。1990年代の東北新幹線のフラッグシップ車両として、「スーパーやまびこ」の通称で親しまれた東京駅 - 盛岡駅間の速達「やまびこ」を中心に使用された編成である。100系タイプのシャープな前面形状の先頭車両(H3, H4が2000番台、他は先頭車化改造の200番台)・100系に似た側面の緑のピンストライプ塗装・2階建て車両を2両組み込んだ16両の長編成が特徴で、F43・F57・F52・F58・F42・F55編成を元としたH1 - H6までの6編成が組成されていた。ただしMM'ユニットの構成上、2階建て車両が100系(8・9号車)とは異なり9・10号車となっている。245km/h走行対応。1990年(平成2年)6月23日、F編成の6, 7号車の間に2階建て車両(新製249形)1両を組み込んだ13両編成で営業運転を開始した。2階建て車両にはグリーン席・普通個室が備えられていた。この時点ではH6編成の先頭車両がシャークノーズの200・2000番台ではないため、ラウンドノーズの先頭車両にピンストライプが入った珍しい編成となった。249形は1990年6 - 7月に6両が東急車輛で製造された。1991年(平成3年)3月8日、東北新幹線の東京開業を前に2階建て車両1両(新製248形)を9 - 10号車間に、普通車(225, 226形、E編成からの転用)2両を4 - 5号車間に挿入して16両編成となった。東北新幹線の歴史上では現在まで唯一の貫通16両編成であるが、当時最長12両編成対応だった上越新幹線に入線することはできなかった。2階建て車両248形にはグリーン席・カフェテリアが備えられていた。なお13両編成で10号車となっていた237形は、16両化で新たに挿入された248形内のカフェテリアと供食設備が重複することから同年6月以降から、車椅子対応設備を持つ225形200番台(H2編成のみ種車が225形1000番台であったことから210番台を名乗る。他の車両は237形が種車)に改造された。また同時に、H6編成の先頭車両もシャークノーズの221-204, 222-204に交換された。これで捻出されたラウンドノーズの先頭車はK30編成に組成された。248形は1990年12月 - 1991年3月に6両が日本車輌で製造された。グリーン車が過剰となっていたことやK編成の組成のため、11号車のグリーン車は1992年(平成4年)から普通車への入替が行われ、225形100番台(車掌室付き。H6編成のみ215形を種車としたため110番台。それ以外は225形400番台を改造)に置き換えられた。2000年(平成12年)12月から2003年(平成15年)11月30日まで、マッサージ店の「てもみん」を展開するグローバルスポーツ医学研究所との提携で普通個室を使用して「トレインマッサージ」を営業する列車も存在した。秋田新幹線開業とE2系への世代交代に伴って運用の場を狭め、H1 - H3・H6の4編成は2004年(平成16年)5月までに廃車とされた。間合い運用で「なすの」にも使用されていたが、この場合グリーン車は閉鎖、普通車は全車自由席となることがあった。200番台、2000番台のトップナンバー車を先頭車としていたH4・H5編成 (221-2001・222-2001・221-201・222-201) は、F編成とともに2004年(平成16年)3月13日のダイヤ改正で定期運用から離脱した。その後、2階建て車両(248形と249形)を含む5, 6, 9, 10号車を廃し、1, 2, 3, 4, 7, 12, 15, 14, 13, 8, 11, 16号車の順に、全車普通席の平屋建て12両編成(上越新幹線乗り入れを想定)に組み替えられた後、2004年(平成16年)8月、市販の時刻表で「グリーン車なし 12両」と表記される多客期臨時列車で運用された。この2編成も前者が2005年(平成17年)5月28日付けで、後者も同年8月28日付でそれぞれ廃車された。10両編成。2013年(平成25年)まで残存していた編成であり、すべての先頭車がラウンドノーズの前面形状。240km/h走行対応。400系およびE3系併結用連結器および自動解結装置搭載。秋田新幹線との連結運用は1999年(平成11年)12月4日まで、 山形新幹線についても2001年(平成13年)9月20日までK編成による連結運用が設定されていた。自動解結装置などは同年9月21日以降はK編成による連結運用が消滅したため使用されていなかった。1992年(平成4年)に山形新幹線の400系併結用として8両編成のK編成が生まれた。F4, F6, F7, F9, F41, F51, F56編成とその他保留車からK1 - K11の11編成が組成された。8号車の222形には併結用連結器および自動解結装置が搭載されている。非常用連結器カバーからスカート上部にかけて開閉部が設けられ、その左右に前方確認用のセンサーが設置されている。組成当初は、K1, K4, K6, K8 - K10編成の7号車に237形ビュフェ車を連結していたが、1992年9月から順次225形490番台に改造された。秋田新幹線開業後の1998年(平成10年)11月にF編成のK編成化と既存K編成の10両化が行われた。F1 - F3・F10 - F13・F15・F18・F20・F21編成から7, 8号車を抜き取り、3号車と5号車を入れ替えて10両に短縮した編成には新たにK41 - K51が付番された。なお、10両編成化される前の1996年(平成8年)から1998年(平成10年)にかけて対象編成の237形ビュフェ車の客室化と222形先頭車両への400系およびE3系併結用連結器および自動解結装置が実施された。K1 - K11編成は、5号車と7号車(グリーン車と普通車)を入れ替え、K41 - K51編成組成時に生じた余剰車を新5・6号車として4・5号車間に挿入し10両編成となった。その際、編成番号がK21 - K31に改番されている。1990年代後半に入ると多くの車両が耐用年数とされる15年を迎えていたが、経済情勢もあって全ての200系を短期間で置き換えるのは困難であった。そのため、1998年に10年程度の使用を考慮した延命工事の施工が発表された。まず1999年(平成11年)4月にK47編成1編成10両が施行され、2002年(平成14年)にかけて、E2系への置き換えと並行してK編成の一部(K21・K25・K26・K41 - K44・K46 - K49・K51編成)について施工された。工事内容は下記の通り。このリニューアルでは前面形状の変更を行っているが、新幹線電車でこの改造工事が行われたのは2016年現在本形式のみである。なお、この工事実施による車両番号の変更は行われていない。2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震で脱線したK25編成(下記参照)は翌2005年(平成17年)3月25日付けで廃車された。同年10月19日、JR東日本では事故の教訓を残すため同編成の一部を福島県白河市の総合研修センター内に移設して静態保存すると発表。当初は先端部カバーが外された状態で新潟新幹線車両センターの車庫内に留置されていたが、2007年(平成19年)11月10日の新潟新幹線車両センター公開において、K25編成は編成順がばらばらになった状態で同センター内に露天で留置されていることが確認された。両先頭車のみ前面に養生シートがかかっているが、他の車両にはシートがない状態であった。2012年(平成24年)頃になって、1号車の221-1505を残して解体された。2013年(平成25年)現在、養生シートで包まれた状態で野外に留置されている。K編成の中で最後まで原形であった(リニューアル工事がなされなかった)編成はK31編成である。リニューアルK編成のDS-ATC搭載工事が完了するまで予備編成として残っていた。2004年に発生した新潟県中越地震の発生による臨時運用に充当されたほか、上越新幹線での脱線事故で使用不能となったK25編成の代替として置き換えのE2系J69編成が落成するまでの間使用された。2006年1月11日に廃車となった。K31編成10号車の222-35は埼玉県さいたま市大宮区の鉄道博物館に展示されている。2007年(平成19年)5月9日に、K47編成がオリジナル塗装に復元されて出場した。折しも上述のF19編成の廃車回送と同じ日であり、厳密にはリバイバルではなくオリジナル塗装が消滅していないことになる。この編成を使用して、年6月23日に東北新幹線開業25周年記念列車「やまびこ」931号が大宮から盛岡まで、また、11月10日には上越新幹線で団体臨時列車の「あさひ」190号と臨時列車の「とき」25号が、さらに同月15日には同線の開業25周年記念として「とき」318号がそれぞれ運転された。通常時は基本的に他のK編成と共通運用に入り、定期列車に使用されている。2012年(平成24年)1月16日付で廃車となったK21編成には1982年製5次車が組み込まれており、リニューアルを受けつつ30年近く運用されていた。新幹線車両としては非常に長期にわたって使用されていたことになる。この廃車をもって、東北・上越新幹線開業時の車両は全車廃車となった。2011年4月29日より、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の復興支援スローガンである「がんばろう日本! がんばろう東北!」(10号車)「つなげよう日本」(1号車)のステッカーが貼られた。東北新幹線大宮開業20周年を記念して、2002年6月23日に大宮 → 仙台で運行された。ただし、駅電光掲示板では、「団体201号」と表示されていた。F93編成が充当され、12号車の先端部カバーには「新幹線開業 祝 20周年」のマーキングが施された。また、休止していたビュフェが、この日に限り復活し、記念グッズなどが販売された。その他、車内放送でも開業当時のもの(民謡チャイムなど)が使用された。「想い出のあおば号」に合わせて、「あおばリレー号」(上野:9時55分 → 大宮:10時20分、田町電車区所属「踊り子」用車両+新前橋電車区所属編成「EXPRESS 185」による185系14両編成)も運転された。上越新幹線大宮開業20周年を記念して、2002年11月16,17日に大宮駅 - 新潟駅間1往復の「復活とき号」が運行された。充当された編成はF80編成である。駅電光掲示板では、「団体408号」「団体409号」と表示されていた。「復活とき号」に合わせて、「快速ときリレー号」(上野:9時32分 → 大宮:9時58分(11月16日)/大宮:12時07分 → 上野:12時33分(11月17日)、共に185系「踊り子」+「EXPRESS 185」)も運転された。東北新幹線大宮開業25周年を記念して、2007年6月23日に「やまびこ931号」が大宮駅 → 盛岡駅間で運行された。K47編成が充当された。車体塗装が200系オリジナルのカラーリング(白地に緑帯)に戻され、両先頭車の先端部カバーには「新幹線開業 祝 25周年」のマーキングが施された。上越新幹線大宮開業25周年を記念して、2007年11月10,15日に「あさひ190号」「とき25号」「とき318号」が記念列車として運行された。「東北新幹線大宮開業25周年記念号」と同じく、かつての車体塗装が復元されたK47編成が充当された。列車番号の25は「25周年」から、「あさひ190号」は1982年11月15日開業時の上り1番列車名からとられた。「とき318号」の新潟発車前に出発式が行われたほか、大宮,熊谷,高崎,上毛高原,越後湯沢,浦佐,長岡,燕三条,新潟の各駅で記念入場券が販売された。また、これにあわせて同年11月10日に新潟新幹線車両センターで新幹線ご利用感謝祭が実施された。東北新幹線大宮開業30周年を記念して、2012年6月23日に「やまびこ235号」が大宮駅 → 盛岡駅間で運行された。25周年記念と同様、リバイバルカラーのK47編成が充当された。側面に貼付されていた復興推進キャンペーンのステッカーを剥し、「30th Anniversary」の車体側面装飾と「新幹線YEAR2012」のステッカー(1・10号車、いずれもE5系のイラスト)、先端部カバーのマーキングが施された。「やまびこ235号」の大宮発車前に出発式典が行われたほか、車内チャイムは「ふるさとチャイム」が使用された。上越新幹線大宮開業30周年を記念して、2012年11月17日に「とき395号」が大宮駅 → 新潟駅間で運行された。25周年記念と同様、リバイバルカラーのK47編成が充当された。先端部カバーには公募によって選ばれた「トキとシラコバト」のマーキングが施工され、側面には「新幹線YEAR2012」(1号車はE5系、10号車はE4系のイラスト)のステッカーが貼付された。なお、「東北新幹線大宮開業30周年記念号」とは異なり、1号車の復興推進キャンペーンのステッカーは貼付されたままだった。2003年(平成15年)7月から2004年(平成16年)4月にかけて、残存していた一部の編成についてディズニーの部分的なラッピングが施され、『ドリームキャンペーン号』として運行していた。2008年(平成20年)7月19日からは、「ピカ乗りサマー2008」キャンペーンPRラッピングの一環としてK43編成にポケモンのラッピングが施された。これに関しては他の系列にも波及し、JR東日本の公式ホームページで2日後までの運行情報が公開された。2009年(平成21年)7月18日から、2008年同様「ピカ乗りサマー2009」キャンペーンPRラッピングの一環としてK26,K49編成にポケモンのラッピングが施されている。2004年(平成16年)10月23日午後5時56分ごろ (JST) に発生した新潟県中越地震により、東京発新潟行きの「とき」325号(K25編成)が時速約200kmで走行中、長岡駅手前約5kmの滝谷トンネル先の地点で被災し、10両中8両が脱線した。日本の新幹線史上初の営業運転中の脱線事故となった。航空・鉄道事故調査委員会からは中間報告が出されたものの、直後に発生したJR福知山線脱線事故の調査が優先されるなどして長らく最終報告がまとめられず、事故から3年経った2007年(平成19年)11月30日、調査委員会から最終報告書が発表された。当初は瞬間的に車体が浮き上がったものとされていたが、報告書では地震の揺れによって四股を踏んだような状態になり脱線に至ったものと結論付けられた(その後、200系K25編成の代替車両として、廃車予定だったリニューアル改造未施工車「K31」編成が2005年まで運用が継続された。そして2006年初頭に「K31編成が」廃車、その後代替車輛としてE2系新幹線(J69)編成が製造された。現在K31編成は10号車のみさいたま市に位置する「鉄道博物館」に保存されている)。この経験が後年に生かされ、2011年3月11日発生の東日本大震災では東北新幹線仙台駅構内で試運転走行(約72km/hで走行)していたE2系(J69)編成の一部脱線にまで被害を留める事となった。本系列は1999年(平成11年)4月から2002年(平成14年)にかけて、2010年頃までの使用を想定したリニューアル工事を実施していたが、1982年の運用開始から既に30年が経過していた。また、リニューアル工事の完了から10年以上が経過し、老朽化が進んでいた。2007年(平成19年)5月以降はリニューアル編成のみの運用となっていたが、2009年(平成21年)2月12日付けの産経新聞によると、E5系の増備により、本系列は順次廃車となり、E2系へ置き換える予定であると報じられていた。K編成のリニューアル工事の施工により、他の新幹線よりも置き換え時期が10年以上伸びたことになる。K25編成の事故廃車後、動きがなかったK編成であるが、2011年春から投入が開始されたE5系の増備進捗により運用を離脱する編成が出始めた。まず、2011年11月19日のE5系3編成の投入により、200系の東北新幹線の大宮駅以北での定期営業運転は終了。次いで2012年9月のダイヤ改正で一部がE4系に差し替えられた。さらに2013年1月26日から本系列充当列車の一部をE2系に置き換え、残存した運用についても2013年3月16日実施のダイヤ改正で全てE2系に置き換え、これをもって定期営業運転を終了した。この200系の撤退により、国鉄時代の新幹線車両、直流直巻電動機を使用した新幹線車両はすべて姿を消した。上り定期運用最終列車は「とき342号」、下り定期運用最終列車は「とき347号」であった。200系の営業運転終了を記念し、2013年3月23日から4月14日にかけて、リバイバルカラーのK47編成を使用したさよなら運転が行われた。この他、以下の臨時列車にも200系が使用された(ただし、K47編成の充当ではなかった)。

出典:wikipedia

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