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セイコーエプソン

セイコーエプソン株式会社("Seiko Epson Corporation")は、長野県諏訪市に本社を置く情報関連機器、精密機器のメーカーである(登記簿上の本店は新宿区にある)。略称・ブランドは「エプソン(EPSON)」。インクジェットプリンターを始めとするプリンターや、プロジェクタ、パソコンといった情報関連機器、水晶振動子(クォーツ)、半導体などの電子デバイス部品の製造を行っている。また子会社ではないものの、セイコーホールディングス株式会社、セイコーインスツル株式会社とともに「セイコーグループ中核3社」の1つとされ、SEIKOブランドの腕時計の開発・生産も行っている。2003年(平成15年)6月、東京証券取引所市場第一部へ株式を上場した。証券コード6724。服部時計店(現在のセイコーホールディングス)の元従業員で諏訪市で時計の小売・修理業を営んでいた山崎久夫により、有限会社大和工業(だいわこうぎょう)として創業。服部家・第二精工舎からの出資を受け、第二精工舎(現在のセイコーインスツル)の協力会社として腕時計の部品製造や組み立てを行っていた。1943年に第二精工舎が工場を諏訪市に疎開、諏訪工場を開設する。終戦後も第二精工舎の疎開工場は諏訪の地にとどまり、大和工業との協力関係を強めていった。1959年に大和工業が第二精工舎の諏訪工場を営業譲受し、株式会社諏訪精工舎となった。諏訪精工舎は、諏訪市とその周辺地域で腕時計の一貫生産体制を確立する。諏訪精工舎を含め、戦中・戦後に諏訪圏(岡谷市、諏訪市、茅野市、下諏訪町、富士見町、原村)・塩尻市・松本市・伊那市には精密機器製造業(時計、カメラなどの部品製造・組立)が集積、同地域は「東洋のスイス」と称されるまでになる。1961年に子会社として信州精器株式会社(後のエプソン株式会社)を設立。1985年に諏訪精工舎と子会社のエプソン株式会社が合併して、現在のセイコーエプソン株式会社に社名を変更した。セイコーグループ各社との協業により、独自設計の機械式腕時計(マーベル)・自動巻き機械式腕時計、卓上小型水晶時計、世界初のクォーツ腕時計(アストロン)、自動巻き発電クォーツ腕時計(オートクオーツ)、スプリングドライブなどを開発、時計の高精度化・低価格化を進めた。時計の製造・開発から派生する形でプリンターや水晶振動子(クォーツ)、半導体、MEMSデバイス、液晶ディスプレイ、高密度実装技術・産業用ロボットなどの開発を行い、それらが現在の当社の主要事業に結実・発展している。現在の主力事業・主力製品はインクジェットプリンターや液晶プロジェクターなどの情報関連機器である。創業事業である時計事業もセイコーブランド向けの製品の開発・生産を続けている。国内拠点の多くが長野県内に点在し、その他に山形県酒田市、北海道千歳市にも製造拠点がある。子会社にエプソン販売(国内市場向けエプソンブランド商品販売全般)、宮崎エプソン(水晶デバイス事業)、東北エプソン(半導体、プリンター部品の製造)、オリエント時計(主にオリエントブランドの腕時計を中心に製造、セイコーブランド向けは本社塩尻事業所の管轄)や孫子会社エプソンダイレクト(PC周辺機器のユーザ、法人向け直販)などがある。会社の名称からセイコーホールディングスの子会社(あるいは時計のセイコーとアメリカのエプソンという会社の合弁)と誤解されることが多いが、別経営の独立した会社である。セイコーインスツルはセイコーホールディングスの完全子会社となっているが、それに対して現在のセイコーエプソンはセイコーホールディングスとの直接の資本関係は薄い。とはいうものの、創業者の山崎久夫が服部時計店の元従業員であったことや、創業当初に服部家・第二精工舎からの出資を受けていたこと、また第二精工舎の協力会社として腕時計の部品製造や組み立てを行っていた。(ただし、当初から服部家との資本関係はあったが、服部時計店の子会社ではなかった。)また、前身である諏訪精工舎は大和工業が第二精工舎の諏訪工場を営業譲受して生まれたことなどから、服部時計店・第二精工舎との強い関係があった。現在もセイコーの創業家である服部家(服部金太郎の次男・正次の家系の個人および一族の資産管理会社)が大株主であり、時計の開発・製造での関連が深い。そのため、セイコーホールディングス株式会社(旧服部時計店)を中心とするセイコーグループのひとつとして見なされており、セイコーインスツル株式会社も併せて「セイコーグループ中核3社」を形成している。ただし、セイコーホールディングスとの関連事業である時計関連の売上げはセイコーエプソン全体の売上げに占める割合は数%程度であり、プリンターなどの主要事業と比較すると低い割合になっている。時計が主要な事業であった頃から液晶デバイスの開発を行っていたが、プロジェクターの研究・開発はポケットTV用に開発したポリシリコンTFT液晶パネルの応用から始まった。1989年に世界初の液晶プロジェクター「VPJ-700」を発表。1994年、PCを利用したプレゼンテーション用途に着目したデータプロジェクター「ELP-3000」を発売し、大きな評価を得た。以降、液晶パネルを使用した3LCD方式のプロジェクターを製品展開している。家庭向けのインクジェットプリンターのカラリオシリーズの普及期に、人気タレントをCMに使って大胆に宣伝を行い、製品のヒットやブランドの認知に一役を買っていた。1997年頃迄はライバルのキヤノンのBJシリーズにはペンギンなど色彩鮮やかな動物や鳥類・風景の写真が主に使われていたのに対して、対照的な広告であった。自社のブランドを広く認知させるため、各種イベントやアスリート等へのスポンサードを行っている。元レーシングドライバーの中嶋悟は、長年のパートナーとして広く認識されている。販売拡大とブランドイメージ向上を図るための新たな広報活動として、1983年(昭和58年)より全日本F2に参戦するハラダレーシングのスポンサーとなり、モータースポーツへ初参戦を果たした。この時、同チームに加入したのが中嶋だった。速くてマシンを壊さないドライビングスタイルの中嶋が商品とオーバーラップさせられる選手であるとして、翌年より中嶋(及び中嶋企画)への支援が開始された(ハラダレーシングはこのシーズンで撤退)。1984年(昭和59年)には、ネスカフェゴールドブレンドのTVCMでキャラクターに起用されたレーシングカーデザイナーの由良拓也と中嶋が共演。全国放映されたCM中で由良がデザインする中嶋のマシンが"EPSON"のロゴと共に何度も大写しされたことにより、自社が全く関与しない形でTV中継を含むレース観戦者以外の一般視聴者にも広くその会社名を知られるきっかけとなった。当時の広報担当者は、この思いもよらない宣伝効果が知名度と業績の劇的な向上につながったとして、「今のわが社があるのは中嶋さんのおかげ。今後も会社を上げて全力でサポートしていく」と語っている。1987年には中嶋のF1参戦に伴いパーソナルスポンサーとしてF1に参入。1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)まで中嶋の所属チーム(ロータス、ティレル)のスポンサーとしての活動も展開。この時期には中嶋を起用したテレビCM(ノートパソコンやCI広告)も制作され、当時のF1ブームも重なり企業イメージと知名度が飛躍的に上がり、就職希望者が大幅に増加するといった現象もみられた。また1991年(平成3年)にはノートパソコン「NOTE&BOOK」のテレビCMに、中嶋が歌う『悲しき水中翼船』がCMソングとして使用(CMにも出演)され、CDが発売された時には現役F1ドライバーが歌手デビューしたとして大きな話題となった。中嶋の現役引退後も中嶋企画への支援は継続され、2000年(平成12年)より子会社のエプソン販売がスポンサー活動を引き継いでいる。上記以外ではスポットCMが中心である。より高度かつ広範囲な専門知識を有する技術技能者を育成するため、セイコーエプソン工科短期大学校を開設している。認定職業訓練による職業訓練施設で高度職業訓練専門課程を実施する。施設はセイコーエプソン本社構内にある。1969年(昭和44年)、社内に技能研修所が組織化され、1971年(昭和46年)に技能研修生らが機械整備科,時計組立科2ヵ年の訓練を開始した。1987年(昭和62年)に セイコーエプソン高等職業訓練校が長野県知事より認可され開校。1988年(昭和63年)から セイコーエプソン工科短期大学校として認可され開校した。課程は現在 機械システム系精密電子機械科に、定員20名で開校。対象者は高等学校卒業以上で、原則2年以上の職場経験者を事業部・各社の推薦をうけた者で、期間・訓練時間は2ヵ年(3,600時間)に渡る。カリキュラムには座学のほか、自主製作活動、FA総合課題実習、選択専門実習(機械・FA系コース、電子・ソフト系コース、真空・フォトリソコース)実践実習、海外研修、となっている。有価証券報告書によれば、平均年収は以下のように推移している。他の電機大手が大幅なベアの実施に踏み切る中、2003年の賃金体系変更以来一度もベースアップを実施していないことにより、若手社員の給料が他社に比べて低い水準になってきたため、2015年4月に同社にとって10年以上ぶりとなるベア(全組合員平均で約2400円)を実施した。

出典:wikipedia

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