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加藤友三郎

加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日(文久元年2月22日) - 1923年(大正12年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、没後 元帥海軍大将。日露戦争で連合艦隊参謀長(日本海海戦時、第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議で日本首席全権委員を務める。海軍大臣(第20-24代)、内閣総理大臣(第21代)を歴任し、山梨軍縮やシベリア出兵撤兵を成し遂げた。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。海軍軍人として、海軍省の次官や呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官などを歴任した。その後、第2次大隈内閣をはじめ、寺内内閣・原内閣・高橋内閣・加藤友三郎内閣と5つの内閣で海軍大臣を務めた。1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて、ワシントン会議に出席した。階級は海軍大将だが、没後に元帥の称号を贈られている。1922年(大正11年)には内閣総理大臣に就任したが、翌年、在職中のまま死去した。外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣臨時兼任として加藤友三郎内閣を差配し、後任の内閣総理大臣が任命されるまで政権を運営した。同じく海軍大将であった加藤隆義は養子。小林躋造海軍大将、早川幹夫海軍中将(両者は兄弟)は甥とする書物もあるが、加藤の兄弟姉妹に早川姓、小林姓の者はおらず、加藤との姻戚関係については極めて疑問である。広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島城下大手町(現在の広島市中区大手町)に生まれる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。幼年期に広島藩校である修道館(現修道中学校・修道高等学校)に学び、1884年(明治17年)10月、海軍兵学校7期卒業。1888年(明治21年)11月、海大甲号学生。日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、「定遠」「鎮遠」を相手として黄海海戦に大いに活躍した。日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。連合艦隊の司令長官・東郷平八郎、参謀長・加藤、参謀・秋山真之らは弾丸雨霰の中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の士気を鼓舞した。その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、1915年(大正4年)8月10日、第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年8月28日、海軍大将に昇進。以後、加藤は寺内・原・高橋と3代の内閣にわたり海相に留任した。1921年(大正10年)のワシントン会議には日本首席全権委員として出席。会議に向けて出発する際、当時の原敬首相より「国内のことは自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やってください」との確約を得た。全権代表として会議に臨んだ加藤を、各国の記者などはその痩身から「ロウソク」と呼んで侮っていたが、当時の海軍の代表的な人物であり「八八艦隊計画」の推進者でもあった彼が、米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成したことが「好戦国日本」の悪印象を一時的ながら払拭し、彼は一転して「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」と称揚されたという。米国案の五・五・三の比率受諾を決意した加藤は、海軍省宛伝言を口述し、堀悌吉中佐(当時)に次のように筆記させている。1922年(大正11年)、高橋内閣が政友会の内紛で瓦解したのを受け、元老・松方正義は、過去4代の内閣で海軍大臣を務めた加藤友三郎を第一候補に、野党憲政会総裁・加藤高明を第2候補として推薦した。憲政会は、当時衆議院での議席はわずかに100前後であり、政友会では、加藤友三郎が辞退すれば高橋への大命再降下もあり得ると考えていたが、第2候補が加藤高明であることを知って、大慌てで加藤友三郎と折衝し、政友会党員の入閣を求めず、無条件で支持することを伝えた。こうして1922年(大正11年)6月12日、加藤友三郎内閣が発足した。大命が降下した加藤は、組閣にあたって貴族院の最大会派の研究会から4名、交友倶楽部から3名の閣僚をとったが、交友倶楽部は実際には貴族院における政友会の別働隊だった。これによって、加藤友三郎内閣は貴族院を支持基盤としながらも衆議院で政友会を実質的与党とすることができた。内閣総理大臣となった加藤が実施した海軍軍縮は、現存する主力艦を沈めたり、スクラップ化するほか、海軍軍人の整理・削減、造兵廠職工の大量解雇など本格的なものであった。彼は自ら行った大軍拡プロジェクトを廃棄してでも、より大きな国益のために軍縮を優先したのである。ただし、ワシントン条約に規定のない補助艦艇では、拡大強化される面もあった。この時期、陸軍でも、将兵・馬匹の整理・縮小、在営期間を短くするなど、兵役期間の短縮などが図られた。当時の陸軍大臣であった山梨半造の名をとって山梨軍縮といい、1922年(大正11年)8月と1923年(大正12年)4月の2度にわたって実行にうつされた。寺内内閣の時に、ロシア革命への干渉戦争(ロシア革命干渉戦争)として始められたシベリア出兵は、ワシントン会議開催時点で出兵を続けているのは日本だけであった。会議で、日本は条件が整い次第、撤兵することを約束した。内閣は1922年(大正11年)6月23日の閣議で、この年の10月末日までの沿海州よりの撤兵方針を決定し、翌日、政府声明として発表。撤兵は予定通り進められた。残る日露間の焦点は、干渉戦争の中で生み出された極東共和国を日露間の緩衝国とすることと、日本が保障占領していたロシアの北樺太から撤兵することの2点にあったが、前者は、11月15日に極東共和国自体が、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)に吸収される結果となり、日本の意図は水泡に帰した。1923年(大正12年)2月1日、ソ連のヨッフェ駐華全権代表が、後藤新平日露協会会頭(東京市長)の招きで来日している。加藤も交渉に乗り気で、北樺太問題や1920年(大正9年)の尼港事件補償問題にかかわる予備交渉が続けられたが、ソ連側の代表交代などがあり、その後、日本で関東大震災などが起きたため翌年5月まで延期された。アメリカは、九カ国条約の厳密な履行のために、日本が中国での特殊権益を保有することを認めた石井・ランシング協定の廃棄を要求し、1923年(大正12年)4月14日、協定の廃棄・失効が正式に確認された。ワシントン体制は、原則として、当該条約発効以降に日本を含む加盟国は、新たに中国への優越的な地位を得ることを認めないという一面を持っていた上、日本側は山東省の利権を放棄したので、国内では協調外交への不満が蓄積されていった。第46帝国議会後の1923年(大正12年)5月15日、ワシントン会議の後始末が一応終わったことなどから、加藤は自身が兼任していた海軍大臣として新しく財部彪を起用し、新たな政策を準備していたが、8月24日、首相在任のまま大腸ガンの悪化で青山南町の私邸で臨終を迎えた。享年62(公表では8月25日)。そのため、外相・内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任したものの、その8日後に関東大震災が発生し、日本は「首相不在」という異常事態の中でこの大災害を迎えることとなった。加藤内閣では、世間では政党内閣に逆行する「逆転内閣」、あるいは政友会との裏のつながりから「変態内閣」と評されたが、シベリア撤兵や軍縮の実施など、短期間ではあったが重要な課題を遂行した内閣であった。(詳細は"加藤友三郎内閣"を参照のこと)海軍でも1、2の酒豪で知られ、総理在任中も飲み過ぎで大腸ガンにかかり他界したのでは、とまでいわれた。その加藤の亡骸は、元帥府に列せられ、海軍葬に付せられることになった。現在、東京都港区の青山霊園を墓所として埋葬されている。加藤は女婿の船越隆義を養子に迎え入れようとするも生前は果たせず、隆義は1923年(大正12年)11月20日戸籍上の手続きを完了して加藤家の家督を相続し、同年12月10日襲爵の沙汰を得て子爵となっている。1935年には広島市南区の比治山公園に元帥刀に手をかけて立つ姿の銅像(高さ約4m)が建てられた。しかし、太平洋戦争時の金属類回収令で供出。銅像と由来の碑ともに取り除かれ石造の土台部分のみが残っている。2008年、広島市中区の広島市中央公園内に、ワシントン軍縮会議時のフロックコート姿の加藤の銅像が新しく建立され、没後85年にあたる2008年(平成20年)8月24日に除幕式が行われた。なお、大手町第二公園には生家があった事を示す石碑があり、2015年(平成27年)2月22日石碑の横に加藤についての説明板が設置された。

出典:wikipedia

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