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佐田の山晋松

佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - )は、長崎県南松浦郡有川町(現・新上五島町)出身の元大相撲力士。第50代横綱。本名は市川(旧姓:佐々田)晋松(いちかわ しんまつ)。1938年に長崎県南松浦郡有川町で船大工を営む家に生まれる。幼少期に大の相撲好きだった父親から、郷土の英雄とされている五ツ嶋奈良男の話を聞かされた上に土地相撲に連れて行かれる内に大相撲に憧れを抱き、次第に角界入りを希望するようになるが、母親から猛反対された。長崎県立上五島高等学校へ進学後は相撲部に所属したところ、3年生で長崎県の相撲大会に参加するよう勧誘された。最初は辞退したものの強引な説得で補欠として出場させられたが、いざ対戦するとほとんど負けなかったために自信が付き、角界入りを強く望むようになった。1955年に千代の山雅信・栃錦清隆の一行が地元・五島へ巡業に来た際に高校の教諭から千賀ノ浦を紹介されたが、五ツ島が所属していた出羽海部屋へ入門した。翌日からは洗面道具と下着だけを持参して巡業に参加したが、高校の卒業証書は高校の教諭の計らいでようやくもらえた。1956年1月場所で初土俵を踏む。序ノ口から幕下まで優勝は無いものの、地道な努力で少しずつ番付を上げていき、1960年3月場所で新十両昇進、1961年1月場所で新入幕を果たした。入幕後に足の怪我で一度は番付が降格するも、同年5月場所では前頭13枚目で12勝3敗の好成績を残して初優勝を果たすが、成績もさることながら対戦した三役力士は富士錦猛光のみ、しかもこの場所で十両優勝を果たした清ノ森と対戦して敗れているため、「最高優勝は十両ではないか」との意見まで飛び出た。このことから、平幕下位の力士でも成績次第で三役力士・横綱と対戦させるように取り組みを編成するきっかけとなった。佐田の山は平幕優勝を果たしたことで一気に平幕上位へ番付を上げ、小結を通り越して同年9月場所で関脇へ昇進、1962年3月場所はその関脇で13勝2敗の好成績を収めた。この場所は過去に5度対戦して全敗している横綱・大鵬との優勝決定戦に臨み、見事勝利して2度目の幕内最高優勝を果たすと同時に、場所後の大関昇進を決定的にした。同年5月場所では初めて本割で大鵬を撃破し、13勝2敗の好成績を収めた。出羽海部屋の大先輩である出羽錦は佐田の山を厳しく熱心に指導し、「晋松(佐田の山)が綱を取ったら、ワシが太刀を持つからそれまでは引退しない」と言って佐田の山の横綱昇進を心待ちにしていたが間に合わず、1964年9月場所で引退した。大先輩の引退を受けてより早期の横綱昇進を目指す佐田の山は一層稽古に励み、同年9月場所から3場所連続で13勝2敗、1965年1月場所には3度目の幕内最高優勝を達成して横綱に推挙された。長年に渡って「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスが存在していたが、佐田の山によって見事に打ち砕かれた。横綱昇進後は1965年5月場所で14勝1敗で4度目の優勝を果たしてからは2年以上に渡って優勝から遠のいていた。それでもひたむきに土俵に立ち続け、1967年11月場所では12勝3敗で5度目の優勝、1968年1月場所では13勝2敗で連覇を果たした。ところが、同年3月場所で序盤に3敗を喫するとあっさり現役引退を発表した。まだ30歳になったばかりで悲願だった連覇を達成した直後だったことから周囲に激震が走り、「高見山大五郎(前頭4枚目)に金星を献上したことが悔しかったのではないか」という憶測まで流れたが、佐田の山自身は「弟弟子である北の富士勝昭(大関)に敗れて初優勝を許した時点(1967年3月場所)で(引退を)考えていた」という。戦前に栃木山守也・常ノ花寛市といった出羽海部屋の名横綱に見られた「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだとも言われた。同年6月に行われた引退相撲では、直近の5月場所に大鵬と柏戸剛の両横綱が休場したことも受けて、同部屋の福の花孝一を露払いに、海乃山勇を太刀持ちに従えて最後の横綱土俵入りを行った。引退相撲における横綱土俵入りは現役横綱が露払い・太刀持ちを務めることが通例(2003年の貴乃花光司以降、大関以下の現役力士が務める場合も増えた)だった当時としては異例の組合せだった。現役引退後は、大関時代に出羽海の娘と結婚して市川家の婿養子となっていたために、横綱時代で既に部屋の土地・建物が佐田の山名義となっていた。このことから佐田の山が出羽海部屋の次期継承者であることは誰から見ても明白だったが、佐田の山が引退すると出羽海は即座に部屋を継承させ、過去に襲名していた「武蔵川」に戻っていた。これには「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続けていれば良かった」と発言していたという。出羽海部屋では常陸山谷右衛門が一門を創設して以来、「不許分家独立」の不文律が存在し、当時の大坂相撲から一門へ加入後に消滅した部屋の再興を除いて独立が無かったが、現役時代からかわいがっていた三重ノ海剛司が独立の意思を持っていると聞くとこれを許可、1919年の栃木山守也(春日野部屋を創設)以来となる円満独立となった。それ以降は不文律自体が事実上消滅したためか、1980年代以降は出羽海一門でも分家独立が相次ぎ、2014年3月現在では最も部屋数が多い一門が出羽海一門となっている。出羽海としては、先代から引き継いだ三重ノ海を横綱へ育てたほか、子飼いの弟子からも関脇・出羽の花義貴、小結・大錦一徹、佐田の海鴻嗣、舞の海秀平などの幕内上位力士を多数育成した。特に舞の海に対しては「立合いに頭で当たらず、技は何をやってもいい」と角界では異例の指導で、愛称「技のデパート」を開花させたことはとても有名である。師匠・出羽海以外でも、日本相撲協会の監事(1972年から1期)・理事(1974年から)を務め、指導普及部長や事業部長を歴任、そして二子山理事長が停年(定年)を迎えた1992年からは日本相撲協会理事長を3期・6年に渡って務めた。1996年には元関脇・鷲羽山佳和の境川と名跡を交換し、出羽海智敬から「境川尚」となった。理事長時代の6年間ではなどの施策を実施した(施策の評価については後述参照)。しかし、1996年9月に年寄名跡の協会帰属・売買禁止という改革私案を打ち出すと、私案に反対する親方が続出し、1997年5月には私案の撤回に追い込まれた。当初、マスコミは反主流派を守旧派と呼んで批判したが、実際には当時の年寄株の取得相場が数億円単位で推移しており、株取得によって多額の負債を抱えている親方にとって売買禁止は死活問題だった。その一方では以下のような境川個人の立場に対する批判も噴出していた。こうした批判の中、反主流派の代表格として間垣と高田川が1998年1月の役員改選で理事に立候補し、1968年の機構改革以来で初となる理事選挙が実施された。結果としてこの反主流派2人が理事に当選したため、境川はこの混乱の責任を取る形で4期目の理事長続行を断念した。直後に60歳の還暦を迎えるが、一連の騒動によって還暦土俵入りを辞退している(ただし、還暦土俵入りで通常使用する赤い綱は受け取っている)。理事長の続行を断念した後も理事職には留まり、1998年から相撲教習所の所長、2000年からは勝負審判の審判部長を歴任するが、理事長経験者の現場復帰は異例であり、自身も1976年以来24年ぶりの着任だった。審判部長時代には昇進目安を満たしていた琴光喜の大関昇進を見送ったことで話題となった。2002年からは日本相撲協会の相談役に就任、2003年1月場所後には直弟子である両国梶之助と名跡を交換して年寄・中立を襲名し、同年2月17日を最後に停年退職した。現在はスポーツ報知専属の相撲評論家、年間最優秀力士賞選考委員。2016年現在、横綱経験者として最年長の人物である(初代若乃花没後)。6度の幕内最高優勝は横綱として悪くない数字だが(5回の柏戸より多い)、全勝優勝は一度も無かった。大鵬との合口が悪く、通算で5勝27敗(そのうち不戦勝・不戦敗が1回ずつ、他に優勝決定戦で1勝1敗)に終わり、大鵬に本割で勝利しての優勝は一度もなかった。特に大関2場所目の1962年7月場所から横綱3場所目の1965年7月場所までは15連敗を喫し、横綱昇進の最大の障壁となった。体格差が仇となって、右でも左でもがっぷりになると勝負にならず、長びくと勝機は無かった。活路は得意の突っ張りで先手を取って大鵬に上手を許す前の決着と言われたが、そうはさせまいとする強さ・巧さが大鵬にはあり、正攻法の佐田の山に攻め手が無かったのが原因である。毎場所に渡って同じような相撲で敗退を繰り返し、大鵬との対戦で「勝利すれば優勝」という場面での対戦が最も多い力士(大鵬に勝利していれば優勝または優勝決定戦へ進むケースが8度もある)であることから、もう少し勝利すれば優勝回数を2桁にすることも可能だったといわれている。それでも大鵬より格下に見られることを極端に嫌っており、1965年11月場所に大鵬を破った際にある記者から「おめでとうございます」と言われると「ワシは横綱だぞ」と一蹴したほどである。大鵬も闘志むき出しで向かってくる佐田の山には「ライバル」とされた柏戸とは異質の激しい闘志を燃やしたという。一方で、大鵬は自身が何度も壁として立ちはだかりながら、それを跳ね除けてついに横綱昇進を勝ち取った佐田の山に「相撲道の『忍』を地で行った敬服すべき横綱」、「佐田の山関の横綱昇進ほど、清々しいものを感じたことはない」という賛辞を送っている。また、佐田の山の引退時には深い哀惜の念を感じたという。素質の面でさほど優れているわけでは無かったが、猛稽古と激しい闘志、名門である出羽海一門を背負って立つ責任感で横綱に登りつめたとも評価されている。本人も引退後のインタビューで「闘魂が無くなったらどうにもならない」と語っていた。1967年には、映画・007シリーズ第5作「007は二度死ぬ」に本人役で出演した。理事長時代にはテレビのインタビューであるにも関わらず、公然と一人称を「オレ」と称して答えたこともあるなど、組織のリーダーとして疑問を持たれるような言動も見られた。一門内に限っては素質に恵まれた部類であったことから本人は入門当初より横綱になるという使命を与えられたという。そのため当初は徹底した横綱相撲が取れるように大きな体を手に入れることを要求され、太りにくい佐田の山のために一門総出で増量を手伝ったという逸話がある。その一環として不調を抱えてもいない盲腸を摘出する、胃薬や漢方薬などを多量に服用させるといった度を越した手段が試されたが、ついに増量は不首尾に終わった。体格の不利を克服できなかったことに加えて元来足腰が固かった佐田の山はその内突き押しに徹する必要に追われ、出足が十分でない点を少しずつ突っ張って後退させる取り口を操ることで補ったという。この取り口は慎重さだけでなく持久力や根気が必要であり、前述の猛稽古や使命感で培うことでこの取り口を完成させた。突っ張り主体であったものの前述の経緯から寄りや上手投げなど四つ相撲の攻め手がある程度備わっており、大関・横綱となってからも副次的な手段として活きていた。理事長時代の施策についてのその後の評価は様々である。また、理事長としての失脚の原因となった年寄名跡の問題は次代の時津風理事長の下で改めて審議され、1998年5月に以下のような施策が実施された。第1は 「大関経験者の時限付年寄襲名の許可と準年寄制度の創設」である。これは引退時に年寄名跡を取得していない場合、現役時の四股名のまま時限付きで年寄名として名乗ることを認めるものである(大関は3年、関脇以下は2年)。それまで横綱に限り5年時限の一代年寄として名乗ることが許されていた制度を門戸開放する意味があった。第2は 「年寄名跡の複数所有・貸借禁止」である。これは高額取引されている年寄名跡を取得することができない者が、本来の所有者から借り受けて襲名するという不透明さが慣習化していたため、これを解消する狙いがあった。その後、「大関経験者の時限付年寄襲名許可」は定着し、2代栃東(2007年5月)と琴欧洲(2014年3月)に適用された。また「年寄名跡の複数所有の禁止」は定着したが、「年寄名跡の貸借」は禁止措置後も表面上の名義のみ変更して貸借する例が後を絶たず有名無実化したことにより、この禁止措置は解除された(2002年9月)。さらに「準年寄制度」も、短い任期(創設時は2年、2002年9月以降は1年)で年寄名跡を取得することが困難であり、むしろ任期切れを境に年寄名跡を借りて襲名する例が多くなったことで制度としての意義を失い、廃止された(2007年11月)。理事長として1996年9月に打ち出した「年寄名跡の協会帰属・売買禁止」私案は、公益法人の評議員資格の高額売買という問題にメスを入れる、ドラスティックな改革案だった。しかし、1990年代の相撲人気の余波もあって改革の機運には程遠く、同時に親方衆の反発と理事長自身の問題への批判を生んだ。一方で、2010年代の公益財団法人認定をめぐる議論では、名跡の取得に絡む金銭授受の禁止や罰則規定案が盛り込まれ、その意味でこの私案はこれらを先取りするものだった。この公益財団法人移行に伴い2013年12月に年寄名跡証書の協会への返還、管理がようやく実現した。しかし、年寄名跡の襲名に際しての金銭等の授受が禁止されたものの、親方衆の負債問題への対応や、協会の名跡買い取りが困難なこともあり、前任者への「顧問料」名義での支払いは容認されている。

出典:wikipedia

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