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ウッチャンナンチャン

ウッチャンナンチャンは、内村光良(ウッチャン)と南原清隆(ナンチャン)から成る、日本のお笑いコンビ。通称「ウンナン」、「"UN"」。マセキ芸能社所属。1985年、横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)の漫才の講義で一緒に組んだのをきっかけとして、コンビ結成。この時に講師をしていた内海桂子・好江の薦めで、マセキ芸能社所属のタレントとなる。ウンナンを初めて見た好江は、2人の才能を見抜き、「この2人を絶対に逃しちゃダメよ!」と涙ながらに言ったという。お笑いコンビとしては『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)から本格的な活動を始めた。その頃のコンビ名は「おあずけブラザーズ」(おあずけシスターズをもじって命名)であった。1987年、専門学校の同期生である出川哲朗、入江雅人らと劇団SHA・LA・LAを結成し、演劇役者としても活動。内村は、脚本と演出も担当した。因みに、長谷川初範が先輩であったことをラジオ等でネタにした事もあった。1988年に放送開始したフジテレビの深夜番組『夢で逢えたら』で人気に火がつき、1990年代にはとんねるず、ダウンタウンに続き「お笑い第三世代」として、若年層を中心に人気を博した。1989年からは『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)のパーソナリティも担当した( - 1995年)。1990年、フジテレビ系列『とんねるずのみなさんのおかげです』の休止に伴い、後番組のメインとして2人が抜擢され『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』がスタート。『夢で逢えたら』のテイストを下地にゲストを交えて作りこんだコントで、人気を博す。『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』が半年間の放送を終了し時間帯を土曜夜8時に改め『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』として再出発。時事ネタや人気ドラマ、ミュージシャンを題材としたパロディーコントで高視聴率を得た。また、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系列)は、当時の日本テレビのバラエティー黄金期を支えた中心的な番組の1つで、番組の全盛期である1996年〜1999年まではほとんどの回で視聴率が20%を超えていた時期もあった。そのため、金曜日に東京ドームの巨人戦が組まれていた場合は巨人戦を優先し番組を休止していたが消化試合の時は番組を優先して放送した。この頃から、ウッチャンナンチャンは、若者だけでなく老若男女幅広い年齢層から支持を得て、お笑い界のトップへと上り詰めていく。また、今でも日本テレビには年間数十件ではあるがウリナリの復活の要請を記した手紙がくるという。『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!』(テレビ朝日系列)もイライラ棒が大人気となり、当時のテレビ朝日の看板番組となるなど、民放各局で人気番組を生み出し、一躍1990年代を代表するお笑いコンビとなる。以後現在に至るまでダウンタウンと並び日本のお笑い界を牽引する存在として第一線で活躍し、後続の芸人たちに多大な影響を与え続けている。結成10年目となった1995年頃にお互いの話し合いにより単独での活動も始めるようになる。近年はコンビでのテレビ出演は減少傾向にあり、内村はゴールデンタイムの番組を中心に、南原は昼の帯番組を中心に司会を担う事が増えたが、南原によると「プライベートタイム・オフィシャルタイム両方でウンナンの二人が顔を合わせたのは一年で五回くらい」であるとし、2016年になってからはまだ顔を合わせていない事を、南原自身が出演するヒルナンデス!で打ち明けて笑いを誘った。他、内村は映画制作、南原は現代狂言など、二人とも幅広い分野で単独での活動を行なっている。若手の頃は、当時普及し始めたコンビニエンスストアやレンタルビデオショップ、おたくなど、80年代後半の若者の生活を中心に据えたコントを得意とし、「都会派コント(シティ派コント)」と評された。そのような評価について、当時メンバーは「俺たち田舎出身なのに(内村は熊本県、南原は香川県出身)」と戸惑っていたが、「田舎出身だからこそ、都会の若者の様子を客観的に観察できた」と自己分析している。ネタ作りは内村が自分のギャグだけ書いて南原の台詞を部分を適当(「ああ」、「うん」など)にしておき、稽古のときに南原が台詞の部分を作り面白い部分を拾い上げていき徐々にネタにしていく、という手法だった。また、ウンナンがコントや番組で使用したギャグはほとんどが、劇団で一緒だった入江雅人が考えたギャグをパクって使用していたと発言した事がある。その際、出川哲朗も同席していたが、内村曰く、「テッチャンのギャグは面白くなかったからパクらなかった」と茶化しており、実際テレビでは出川の口癖「ヤバイよ」や「チェン(出川だけが使用している内村のあだ名)」をモノマネしている。なお、漫才については「難しくて出来ない」とのことであり、若手の頃は漫才番組に出演していた際はコントのネタを漫才に置き換えて(現在でいうコント漫才)披露していた。また、南原はM-1グランプリの審査員を担当するなどしている。新人時代は7分〜10分間程度の長尺のコントをやっていたが、ラ・ママ新人コント大会などで交流があったジャドーズの影響で、「短めのコントを連発する」スタイルのネタを多く作成した。そのネタ中では、それぞれのネタの冒頭に「(ショート)コント、○○」と言ってからネタに入るスタイルを用いていた。その後、ウッチャンナンチャンはネタと共に人気を獲得することとなり、「ショートコント」というネタのフォーマットは後の芸人にも多大な影響を与えた。「短いネタを連発する」という意味で、ショートコントの源流は上記のジャドーズや、パート2の『4コマ漫才』に見ることができるという評価もあるが、渡辺正行は「ショートコント」というフォーマットを名称と共に一般的に認知させたのはウッチャンナンチャンであると評している。また、デビュー当時にラ・ママ新人コント大会で共演していた爆笑問題の太田光は「ウッチャンナンチャンがショートコントをやって流行らせて、そうしたら他の芸人がみんなウッチャンナンチャンの真似(ショートコント)をやり始めた。」と語っている。「M-1グランプリ2010」において南原が審査員を務めた際には、デビュー当時の映像と共に『「ショートコント」というスタイルを確立し、落語や狂言など芸の真髄を追い求める…』と紹介された。他のお笑いコンビに比べて、漫才におけるボケとツッコミのような役割がハッキリしないコンビである。『気分は上々』の番組内でインターネット投票により「どちらがボケか?」をファンに決めてもらい、この時は「南原がボケ」という結果になった。しかし、本音は2人ともツッコミになりたい様子だった。自称は、それぞれ内村が「天然」、南原が「ハプニング」。よってボケとツッコミはケースバイケースとされている。逆説的に考察すると、両名とも漫才やフリートークでボケ、ツッコミがこなせる高い技量を持ったオールラウンダーであるとも言える。南原は『ウンナンタイム』で、2人のスタイルを「スイッチ型」であると表現している。立ち位置に独特のこだわりを持っている。フリートークやネタの際には、「内村が上手(かみて、客から見て右側)、南原が下手(しもて、客から見て左側)」。しかし、番組などで司会を担当する際は「南原が上手、内村が下手」となっている。内村曰く「(テロップが)『ウッチャンナンチャン』と出るので、それに合わせた」とのこと。従って、ネタをほとんどやらない現在ではほとんど後者の立ち位置になっており、その印象が強くなっている。「ウッチャンナンチャン」というコンビ名は、南原の思い付きから命名。最初は「ウッちゃんナンちゃん」表記だった。(『森田一義アワー 笑っていいとも!』で発言)まだコンビ名で迷っていた頃、お笑いスター誕生の番組収録時にコンビ名を変更したい旨を告げると、番組スタッフに「もう『ウッチャンナンチャン』で作ったから(変更できない)」と断られ、そのまま定着してしまった。デビュー前は「ちょうなんず」(2人とも長男だったため)や「かんなビール」(南原の家が大工、内村の家が酒店だったため)、「気合い&楽しく」(『ウリナリ』内で候補として内村が出してきたと南原が暴露)というコンビ名も考えられていた。1987年10月28日放送分のオールナイトニッポンでは、南原が持参してきたコンビ結成直後のネタ帳に二人が考えた芸名が書かれてあり、内村案の「信用金庫」(女性漫才コンビの非常階段に対抗)、「新撰組」、「ハングリー」。南原案の「おてもやん」(内村が熊本出身だったため)、「UN(ウン)」、「NAU(ナウ)」、「ニキビブラザーズ」、「貧乏&貧相」、「赤尾さんの犬達」、「おあいこポン」、「WA・HA・HA・HA・HA」、「てる坊&きよ坊」が候補となっていた。母校である日本映画学校に2人で講師として行った時、当時俳優科の生徒だった狩野英孝に「なぜ、ナンチャンウッチャンではなくウッチャンナンチャンなんですか?」と聞かれ、内村が「あいうえお順です。」と答えている。など多数ウッチャンナンチャンとしての出演作品を記載。個別での出演作品は内村光良、南原清隆の項目を参照。他 

出典:wikipedia

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