原宿(はらじゅく)は、東京都渋谷区の一地区。現在広く「原宿」として認識される地域のうち、明治通りや旧渋谷川(穏田川。現在は「キャット・ストリート」と呼ばれることもある遊歩道(旧渋谷川遊歩道路)となっている)に近い低地部周辺は、かつて「穏田(おんでん)」と呼ばれており、1965年(昭和40年)以前の町名で「原宿」に相当していたのは、表参道の北側、現在の神宮前2丁目の町域のうち青山寄りの台地部分、神宮前3丁目の多くの部分、神宮前1丁目のうち東郷神社からその裏手に続く台地部分などのみであった。一方、原宿駅から竹下通り周辺は「竹下町」と呼ばれていた。1965年(昭和40年)以降には、この一帯の町名はすべて「神宮前」で統一され、「原宿」の町名は廃止された。江戸時代以前は鎌倉街道の宿場町があった。後三年の役の際には源義家がこの辺りで軍勢を揃えたとも言われ、この坂は勢揃い坂(現在の神宮前2丁目)と呼ばれている。1582年の本能寺の変の際に徳川家康を堺から三河まで無事に帰国させた「伊賀越え」の行賞として、1590年に伊賀者に穏田村とともに原宿村が与えられた、という記述もある。江戸時代に入ると、甲州街道の南にある原宿には江戸の防衛のために伊賀衆の組屋敷が置かれた。また、安芸藩藩主浅野家の江戸屋敷(現在の神宮前4・5丁目)のほかに、数多くの幕臣の屋敷もあった。農民の暮らしはというと、渋谷川などでの水車による精米、製粉が中心であった。しかし、やせた土地であったために生産は上がらず、生活は苦しかった。そのために農民は雨乞いをよく行っていたという。丹沢の大山阿夫利神社や榛名山に日帰りで詣でた、という話も残されている。江戸時代末期に著された地誌 『新編武蔵風土記稿』は、原宿について次のように記載している:「原宿町。当所は古へ相模国鎌倉より奥州筋の往還係て宿駅を置し所故此の名ありと、また村内竜岩寺の伝に、往昔源義家奥州下向の時、渋谷城に滞溜し当所にて軍勢着到せし故、今に門前の坂を勢揃坂と唱ふと云、当時街道なりし事証すへし、村の東青山五十人町の通衛は今も相模国矢倉沢に達する往還なり」江戸時代が終焉を迎えた1868年(慶應4年)の時点では、原宿村は幕府領となっていた。同年6月、原宿村を含む現在の渋谷区の区域にあった町村は、同年に任命された武蔵知県事・松村長為の管轄とされたが、原宿村は同年(明治元年)11月、東京府の管轄に再編された。1879年(明治11年)、郡区町村編制法が施行され、原宿村が旧来から含まれていた旧武蔵国豊島郡の地域には南豊島郡と北豊島郡が新設され、原宿村は南豊島郡に属することとなった。1889年(明治22年)、町村制が施行され、原宿村は穏田村、千駄ヶ谷村と合併、南豊島郡千駄ヶ谷村の一部となった。7年後の1896年(明治29年)、南豊島郡は東多摩郡と合併して豊多摩郡となったことから、原宿の所属も豊多摩郡千駄ヶ谷村に変わった。1906年(明治39年)の山手線延伸により原宿駅が開業、1919年(大正8年)には明治神宮創建に合わせて表参道が整備された。太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)、アメリカ軍による東京大空襲により一帯は焦土と化した。終戦後は接収された代々木錬兵場跡地に米空軍の兵舎「ワシントンハイツ」が建設され、表参道沿いにはキディランド、オリエンタルバザー、富士鳥居といった米軍将兵とその家族向けの店が営業を始めるようになった。1960年代には住居表示の実施によって、それまで原宿駅周辺から青山通りにかけての住所であった、渋谷区「竹下町」、「穏田1~3丁目」、「原宿1~3丁目」は、すべて渋谷区「神宮前」に変わった。1964年(昭和39年)には、近隣の代々木体育館などを会場として、東京オリンピックが開催されている。1966年(昭和41年)から翌年にかけては、明治通りと表参道の交差点付近に開店した「ドライブイン・ルート5」に夜な夜な車で乗り付け集う裕福な家庭の子女らが見られるようになった。これらの若者は「原宿族」と呼ばれたが、表参道を疾走する自動車の騒音をはじめ、風紀を乱すとして地元住民とあいだでは問題となった。また、1962年(昭和37年)のマンション法施行に伴う「第一次マンションブーム」によって高級マンションが相次いで建築されたのもこの頃である。郊外では住宅都市整備公団(当時)による「団地型」集合住宅が大量供給された一方、都心部ではデベロッパーによる全く新しい住み方の提案としての高級マンションが建築され、それら黎明期の高級マンションの建築が最も集中していたのが原宿・渋谷地区であった。原宿に作られたマンションで最も初期のもののひとつは1958年(昭和33年)に第一生命住宅(現在の相互住宅)が原宿駅前に建築したデラックス賃貸アパートメント「原宿アパートメンツ」であり、1960年(昭和35年)には浅井慎平やタモリら文化人が居住したことでも知られる原宿セントラルアパートも竣工した。また、1965年(昭和40年)完成のコープオリンピアは、第一次マンションブームにおける高級マンションの代表例とされる。さらに同年、富士アパート分譲による「グリーン・ファンタジア」、そして「パーク・ハイツ」、翌1966年(昭和41年)には「コーポ・オリンピア・アネックス」と表参道沿いには当時「ホテルのような設備と快適さ」を謳い文句としていた全館集中冷暖房のデラックス・マンションが軒を連ね、この頃より、これら豪華なマンション群を背景とした雑誌の撮影なども行われるようになった。ファッション関連では1959年(昭和34年)、原宿地区初のモデル・クラブである「エディ・アラブ・モデル・プロダクション」(現・イイプロモーション)が発足、1966年(昭和41年)には原宿地区初の本格的ブティックである、マドモアゼルノンノンが開店している。こうして翌1967年に入ると現在の神宮前交差点から北側の明治通り沿いには従来の飲食店に加え、洒落た喫茶店やアクセサリー店なども開店するようになり、同じ頃ニット製品のgimや靴下で知られるモンドも現在は裏原宿と呼ばれる地域で産声を上げている。1970年代に入ると、ファッションを中心とする若者文化は、従来の新宿より次第に原宿から渋谷方面へと推移していった。1970年(昭和45年)に創刊された『an・an』と翌年創刊の同じく女性向けファッション雑誌である『non-no』は挙って原宿をお洒落な街として取り上げ、やがてそれらの雑誌を片手に原宿を闊歩する若い女性達のことをアンノン族と呼ぶようになった。1971年(昭和46年)、東郷神社が運営し、ヨーロッパのファッション衣料やアクセサリー、家具などを販売する複合ビル「パレフランス」が竹下通り出口付近の明治通り沿いに竣工した。翌年には営団地下鉄(当時)の千代田線が全面開通し、明治神宮前駅が設置された。1976年(昭和51年)頃からは、表通りを離れた竹下通りまでをもファッションの波が押し寄せ始めることとなった。1978年(昭和53年)、ファッションビル、「ラフォーレ原宿」が開業、この頃になると原宿はファッション・アパレルの中心として広く知られるようになっていた。マンションにはデザイン事務所などが挙って入居、その中でも原宿セントラルアパートはデザイナーやカメラマンなどのクリエーター達が事務所を構え、文化を牽引した。当アパート1階にあった喫茶レオンは浅井慎平、タモリ、渥美清、伊丹十三、操上和美ら芸能人や表現者、裕福な人々が集う場所として70年代には注目を集めた。また大川ひとみは原宿セントラルアパート内の小さなショップからMILKをスタートさせた。1980年代に入ると女性アイドル歌手が芸能誌などで着用する衣装としても需要が高まる。そして文化屋雑貨が開店した時は評判となる。1982年 - 1984年、日本初のライブバー「ピテカントロプスエレクトス」が桑原茂一により営まれ、スネークマンショーなどのヒット作がうまれた。1980年代になると竹の子族の影響により、竹下通りが発展。80年代後半はタレントショップが増える。1977年(昭和52年)から始まった歩行者天国(ホコ天)にはたくさんの若者が集まり、ロックンローラー族やホコ天バンドブームが起き最盛期には日に10万人が集まった。しかし、1998年(平成10年)8月31日をもって、原宿の歩行者天国は廃止された。1990年代は表参道に海外有名ファッションブランドの旗艦店が続々とオープンした。その傍ら、神宮前三丁目、神宮前四丁目の住宅地には新たなファッショントレンドの店が並び、「裏原宿(ウラハラ)」と呼ばれる一角が形成された。2006年(平成18年)には表参道ヒルズがオープン。2008年(平成20年)には東京メトロ副都心線が開業し、これからも発展が予測される。また2010年以降ではファッションだけでなくポップコーン、パンケーキといった海外からの食品ブームの国内の主要発信地としての役割も増してきている。1995年に増田セバスチャンによる表現の場として、センセーショナル・カワイイというコンセプトによる6%DOKIDOKIという店がオープンした。このコンセプトは若者を中心に大いに受け入れられ、シノラーや、それに続く青文字系を生み出した。2000年代に入り、アソビシステム社長の中川悠介により、原宿におけるその他の流行も含めて、原宿の特異な文化が原宿KAWAii文化と総称された。アソビシステムによる原宿KAWAii文化の世界的売り出し戦略の実行もあり、原宿の文化は国内のみならず、世界的にも注目を集めた。
出典:wikipedia
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