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P-38 (航空機)

P-38 ライトニング (P-38 Lightning) は、ロッキードが開発し、1939年にアメリカ陸軍に制式採用された双胴(正確には三胴)、双発、単座の高速戦闘機。愛称である「ライトニング(Lightning)」は「稲妻」の意味。ただし、これはアメリカではなく、イギリス空軍が採用した際の機体名として「ライトニング I」と命名された物の逆輸入である。日本軍側では「メザシ」や、戦争初期には低高度性能が低く格闘戦に持ち込みやすかった頃に「容易に撃墜できる = ペロリと食えるP-38(=Pろ8)」から「ペロハチ」と呼んでいた。しかし、速度と武装と急降下性能を生かした一撃離脱戦法に切り替えてからは撃墜対被撃墜比率が逆転、運動性能以外でははるかに劣る日本機を寄せ付けない強さを発揮し、「双胴の悪魔」と称されるようになった。一方で、イギリスに展開したP-38も一撃離脱でドイツ空軍戦闘機と戦ったが速度で同等、運動性能で大幅に劣るP-38は苦戦した。アメリカ軍エース・パイロットの中でそれぞれ第1位と第2位の記録を残した、リチャード・ボング少佐とトーマス・マクガイア少佐の搭乗機も、共にP-38である。また、太平洋戦争における日本軍機の撃墜数は3,785機とされており、これはアメリカ軍機の中では海軍のF6F、F4Uに次ぐ第3位の撃墜数である。1943年5月以降、それまで航続距離がスピットファイアと大して変わらなかったP-47にドロップ・タンクが取り付けられ、爆撃機の護衛にもついていけるようになるとP-38は地中海戦線・イタリア戦線へも送られ、主に戦闘爆撃機として地上攻撃に猛威を振るった。1929年アメリカのウォール街で株価が大暴落し、世界恐慌が起こった。海外貿易に依存していた日本も、大きな打撃を受けた。日本は近隣のアジア地域を植民地化することで、国内の危機を安定化させようとした。商業的にも領土的にも勢力を拡大する日本に対してアメリカは驚異を抱き両国の対立は深まっていった。1930年代後半、列強諸国で配備が進められていた高性能の単葉機であるBf 109やスピットファイアなどに対し、アメリカ陸軍航空隊(のちアメリカ陸軍航空軍)で配備されていたのは、あまり高性能とは言えないやP-35やP-36などだった。しかし国際情勢の緊迫により、議会などから高性能戦闘機の配備を求める声が高まった。アメリカではボーイングで排気タービン過給器を備え高高度性能が優れた戦略爆撃機(のちのB-17)開発も始まっており、敵国がこのような戦略爆撃機を開発した場合にこれを迎撃する戦闘機の必要を認識したと思われる。1937年2月、アメリカ陸軍航空隊は各航空メーカーに対し単座・高々度防空用の迎撃戦闘機の開発を命じた。アメリカの飛行機は、ドイツや日本の飛行機のスピードに追いつけず、それに対抗出来るものが必要だった。この時の要求は、最高速度は640km/h、当時考えていた速度(480km/h)より160km/h速く、上昇力は高度6500mまで6分以内で、20mm機関砲を装備する、とされた。この要求に対し、ベル・エアクラフト社のモデルB-4(後のP-39)と共に、1933年に入社し早くから才能を認められていたロッキード社のクラレンス・ケリー・ジョンソンが開発中のモデル22が選定され、モデル22は6月に名称XP-38として開発要求が出された。本機は高速旅客機専門のロッキードが本格的な軍用機として設計した初の機体で、当時は軍での実績は皆無な新参メーカーとして見られていた。XP-38は高速力を出すために発動機を2基搭載した双発・双胴機となり、中央胴にパイロットが乗り込む設計となった。双胴機のため、機体後部にある方向舵は2つあり、昇降舵は2つある方向舵の間に1つある配置、降着装置は前脚式を採用している。爆撃機を迎撃するのが目的であるため、格闘戦向きに運動性をよくするよりも、一撃離脱戦法に向いた高速・重武装の重戦闘機として設計された。エンジンは離昇出力1,150馬力を発揮する液冷V型12気筒アリソンV-1710-29/17(それぞれ右/左)が搭載され、トルクを打ち消すためプロペラは互いに内方向に回るようにされていた。また高高度戦闘用に排気タービン過給機を搭載した。武装は中央胴にプロペラがないため当時の戦闘機としては特に強力にでき、25mm機関砲か23mm機関砲1門、12.7mm機関銃4挺が機首に装備される予定であった(実機は未装備)。XP-38は全備重量が6,200kgにも達し翼面荷重が高いため、離着陸用にファウラー・フラップも装着された。操縦装置は操縦桿(コントロールスティック)ではなく、戦闘機では珍しい操縦輪(コントロールホイール)を採用している。ジョンソンは設計を終え、試作機の契約が軍と交わされた。1937年6月、試作機XP-38の製造が始まった。奇抜なデザインではあったが、僅か1年半で完成した。また、トラックへの部品の積み込みから完成まで最高機密扱いだった。XP-38は1939年1月1日に地上滑走試験で溝に突っ込んで機体を破損。ようやく1月27日に初飛行し、15日後の試験飛行では要求を遥かに上回る最高速度675km/hを記録した。まだ尾部の振動や、フラップの不具合など解決すべき点は多かったものの、アメリカ陸軍航空隊はハワード・ヒューズの持つ北米横断飛行スピード記録に挑み、2月11日、ベンジャミン・S・ケルゼー中尉によって西海岸のマーチフィールドから東海岸のミッチェルフィールドまで2回の給油を挟み、飛行時間7時間5分で結んだが、ニューヨークにこの計画を知らせていなかったため、着陸許可を待っている間に燃料が切れてしまい、ゴルフ場に胴体着陸してケルゼーは助かったが機体は失われてしまった。しかし、この結果に満足した陸軍から、YP-38として13機が発注された。YP-38はプロペラの回転方向も外回りになるように変更され、空気吸入口が発動機上部に移され、武装も37mm機関砲1門、12.7mm機関銃2挺、7.62mm機関銃2挺へ変更された。欧州情勢の緊迫と共に、さらに66機が発注され、またその後に600機が発注された。9月、YP-38はP-38として制式採用された。武装は37mm機関砲はそのままだが、7.62mm機関銃が撤去され12.7mm機関銃4挺へ強化された。1940年にはイギリス空軍からP-38購入の打診(1939年にもフランス空軍から打診はあったが、1940年にドイツにパリを占領され降伏したため、消滅)があり、英国仕様の機体を「ライトニング I」としてロッキードは納入したが、軍事機密として排気タービン(過給器)は外され、エンジンも同方向回転型のアリソンV-1710-C15R(離昇出力1,090馬力)と言った代物で、これはカタログデータとは似て非なる完全なモンキーモデルであった。ロッキード社のエンジニアは、これに対し『骨抜きされたP-38』と呼んで抗議を表明した。当然、実機テストは散々な結果に終わり、英本土にあった3機以外の受け取りは拒否されてしまった。この時生産ラインにあった「ライトニング I」140機はP-322のコードが付けられて、代わりにアメリカ陸軍が引き取る形となったが、無論、実戦に使える機体ではなく、米本土での訓練や雑用に使われただけに終っている。こうしてP-38は、アメリカ軍専用の戦闘機となった。だがアメリカでも快調なスタートとはいえなかった。パイロットにより早くから問題点が指摘された。P-38は主にドイツ空軍を相手とする欧州戦線(西部戦線)では、1942年頃から実戦配備が進められ、主に大航続力を生かして英本土からドイツ本土空襲に向かう戦略爆撃機の主力掩護戦闘機として活躍した。また、速度性能を生かし偵察機としても活躍した。日本陸軍・日本海軍を相手とする太平洋戦線では、1942年末頃から順次投入されるようになった。日本軍機との空中戦では、P-38は持ち味である高速・重武装・急降下性能を生かした一撃離脱戦法に徹した。格闘戦を得意とする日本軍の零式艦上戦闘機や一式戦闘機「隼」よりも旋回性能で極端に劣るP-38は、一撃離脱戦法による攻撃時からの離脱も(基本とされるシュートアウト前の旋回による離脱ではなく)急降下を続けたまま日本軍機の後方から下部を通過、シュートアウトし日本軍機の前方に出た後も、急降下による圧倒的な速度差により逃げ切る、という離脱方法がとられた。なお、日本軍操縦者はこの離脱方法を「撃墜」と誤認したため「ペロハチ」と呼称される原因になったとされている。中高度域では圧倒的な性能を誇ったが、高高度では排気タービンを持ちながらもアリソンエンジンであることから性能が低下した。また、急降下に優れる印象を持たれる本機だが、高空でダイブするとすぐに主翼の一部から衝撃波が発生して激しい振動が起こった。そのため機首を起こすのが難しくなり、高度が高くなればなるほど急降下制限速度が低くなるなどの弱点もあった。振動の原因は厚い翼を用いていたのと、比較的低い速度域で空気の圧縮性の問題にあたってしまったため。しかし、20歳そこそこの兵士には「圧縮性」の意味すら理解できず、ただP-38は危険だ、という事がわかったに過ぎなかった。だが、それ以上に危険だったのは、片方のエンジンが故障した場合、機体が横転し墜落しやすいことだった。当時は、まだ殆どのパイロットが、320km/h以上のスピードに慣れていなく、しかも640km/hも出るのでエンジンが故障したらパニックに陥ってしまい、機体が制御出来なくなるのだ。これを改善する為、アリソンエンジンを強化し、2つのプロペラの回転をそれぞれ外回りにすることでトルクへの影響を打ち消した。これにより、飛行中の安定性が増大した。また前述の通りP-38J以降からインタークーラーの大幅な「コア増し」を行った(従前の型に対して、大きく張り出したインタークーラー吸気口が特徴的なため、J型以降はChin-Lightningとも呼ばれる)。またJ型以降ダイブブレーキが取り付けられ、急降下速度は20mphほどの余裕ができた。それでも、兵士たちの間では、未だ「P-38は危険」のイメージが強かったため、ロッキード社のテストパイロットであるトニー・レヴィールがデモンストレーションを行い、片方のエンジンだけで飛び、ゆっくり回転するなど、単発のエンジンと変わらない動きをすることで、P-38の優れていることを証明してみせた。1941年から機体の信頼性は徐々に回復していったが、戦争への実感はまだ程遠いものがあった。軽快な単発・単座戦闘機に対しては、旋回半径では劣る(旋回半径の値が大きい)が、前述の通り一撃離脱戦法に徹することで対抗可能とされた。特異な構造から被弾率も低かったといわれる。欧州戦線では、当時単発機としては最高水準にあったFw 190に対しても優位に戦闘を進めた例はあるが、苦戦した戦いが多く、優勢高度からの攻撃が難しい爆撃機護衛任務では損害が多発し護衛も十分に果たせず損害が多かった。最終的に一歩及ばなかったものの、この当時の双発戦闘機として単発機と直接比較ができるという点では、特記に値する。しかしながら、P-47、P-51といった優秀な新鋭戦闘機が多数配備されたこともあって、欧州戦線では純粋な戦闘機として本機が活躍する期間は長くはなかった。米英爆撃機の護衛としてドイツの双発戦闘機(爆撃機改造機もあった)相手に活躍できたが、対単発戦闘機となると運動性はもちろん速度でも劣り、また上述の通り攻勢の護衛任務では上空からの一撃離脱戦法をかけにくく、高空での急降下に制限のあるP-38は大変な苦戦を強いられた。飛行隊の中にはP-38装備で壊滅の危機に瀕し、P-51に機種改変して持ち直したものもあった。しかし搭載量を生かした戦闘爆撃機としての能力は評価され、重用された。太平洋戦線では、欧州戦線同様に爆撃機護衛任務では一撃離脱戦法は必ずしも生かせるものではなく、また低空や格闘戦に誘い込まれることもあったが、対峙した日本機はドイツ機に比べれば低速であり零戦や一式戦は急降下特性が悪いことから、終戦まで第一線で活躍し続けた。また、双発であることは長距離飛行・洋上飛行時の利点でもあった。アメリカ全軍において第一位のエース・パイロットであるリチャード・ボングと、同第二位のトーマス・マクガイアはともにP-38を搭乗機とし太平洋戦線で戦果をあげている。しかし1945年1月7日、フィリピンの戦い (1944-1945年)にて第431戦闘飛行隊長マクガイア少佐を長機とするP-38L 4機編隊が、日本陸軍航空部隊の一式戦「隼」1機・四式戦「疾風」1機とネグロス島上空で交戦するも、マクガイア少佐機および僚機ジャック・リットメイア少佐機を撃墜され両名が戦死している(P-38側の戦果は一式戦「隼」1機撃墜のみ)。超低空域下の不意遭遇の格闘戦であったものの、P-38は4機対2機と機数に勝り、長機・僚機で連携の取り易い優位にもかかわらずこの結果であった(日本陸軍側の一式戦は飛行第54戦隊機・四式戦は飛行第71戦隊機と別部隊であり、空戦前に両機は離別しており空戦自体はそれぞれが単機ごとにP-38編隊に挑んでいる。さらに、P-38 3機を相手に対進戦で撃ち合いマクガイア機とされる先頭の1機を撃墜、自身は被弾のみで生還している四式戦操縦者の福田瑞則軍曹はこれが最初の空戦らしい空戦であった)。P-38による著名な戦果として、ブーゲンビル島上空で当時の日本海軍連合艦隊司令長官山本五十六大将搭乗の一式陸上攻撃機の撃墜に成功している(海軍甲事件)。本作戦はP-38の航続距離の長さなくしてはなしえなかった作戦と言われるが、これをもってしてもブーゲンビル島上空で許された戦闘時間は15分間しかなかった。アメリカ飛行史に輝くチャールズ・リンドバーグは、ニューギニアでのP-38の進撃に魅せられた。リンドバーグは、1927年太平洋単独無着陸横断に成功したが、アメリカが第二次世界大戦に参戦する前に参戦に反対して陸軍航空隊予備役の大佐を辞任していた。だが、飛ぶことへの願望を捨てきれず軍への復帰を希望したものの、アメリカ政府はこれを拒否していた。1944年6月、政府の許可なしにリンドバーグは第475戦闘航空軍を訪問。初めて見る双発エンジンの戦闘機に興味を示した。リンドバーグは、海軍用の双発エンジン戦闘機の設計に関わっていた。「この戦闘機のどこが気に入ってる?」「どんな武装がいいか?」「航続距離は?」「戦闘能力は?」と第475戦闘航空軍の兵士に質問攻めしていた。リンドバーグは、P-38の性能が更によくなる可能性を発見した。最大航続距離の限界を飛ぶときは、素早い行動が求められる。余分な燃料が少ないという事は、それだけ危険が大きくなる事を意味していた。リンドバーグは、大西洋横断の経験から燃費の問題に詳しかった。指揮官チャールズ・マクドナルドの了承を得て、説明会が開かれた。そして、P-38の乗組員・整備員に対し、航続距離を伸ばす方法を話しだした。『エンジン回転数を1400に下げ、吸気圧を760に上げれば50~100ガロンの燃料が節約できる』というものだった。参加していた整備員たちは「そんなことをしたらエンジンが壊れる」と思っていたが、リンドバーグにその事を面と向かって話すことなど誰もできなかった。しかし黙っているわけにはいかず、鋭い質問がリンドバーグに向けられたが、リンドバーグは、参加者たちを黙らせ、「実際に自分がその条件で飛んでみせる」と言った。そして、その通りに飛んでみせた。2週間後に整備員がエンジンを調べると、どこにも異常はなかった、という。それ以来、P-38のパイロット達は、リンドバーグの理論で飛び続け、結果、今までの航続距離が1400kmだったのがリンドバーグのたった数ヶ月の滞在で、なんと倍の2400kmに増大したのである。しかもリンドバーグは、それに飽き足らず、パトロールに同行して敵機の撃墜に成功している。大戦後期、各国で双発戦闘機にレーダー搭載の夜間戦闘機化が行われ成果を挙げていたが、P-38の場合、外部搭載量は大きいものの機体内部にはほとんど余裕がなく、レーダーは機外搭載とならざるを得ず、複座化も武装の強化もままならないとあって夜間戦闘機として運用されたものは少数であった。このため、戦後にアメリカ陸軍のレシプロ戦闘機がP-51改めF-51に統一された後、他の用途に転用されることもなく、海外に展開していたP-38の多くは現地で廃棄処分となり消えていった。第1次インドシナ戦争やインドネシア独立戦争、朝鮮戦争などではアメリカの同盟国によって使われ第一線で使用されている。なお、『星の王子さま』で知られるサン=テグジュペリが、行方不明(マルセイユ沖で撃墜された)になったときの任務で用いていたのも非武装の偵察型・F-5である。機体性能や装備に変更がない場合は、記述を省略。武装を施した増加試作機。胴体ブームのラジエーターが外側のみであったのを、両側に装備して冷却能力を高めている。また発動機を左右入れ換えて、XP-38とはプロペラ回転方向が逆回りとなり、以後、標準となった。初期生産型。武装が変更され、操縦席後方に防弾鋼板が装備された。本来は66機発注されたが、内30機はP-38Dに振り分けられ、完成したのは36機のみだった。後に1機が与圧キャビンを装備したXP-38Aとして改修されている。P-38に防弾燃料タンクを装着。水平尾翼の取り付け角度を変えて、XP-38以来続いていた尾部のバフェッテング(振動)を改善したモデル。なお、P-38BとC型は欠番である。実戦投入を想定し、それまでの37mm級大口径砲の搭載を諦め、発射速度が高く装弾数も多い20mm機関砲へ武装を換装したタイプ。プロペラをハミルトン油圧式からカーチス電動式に変換。1941年10月に量産機がロールアウト。生産数は210機。生産された機のうち99機が武装をカメラ4台に置き換えた写真撮影偵察機に改造され、F-4と名づけられた。1942年4月より生産開始。エンジンを離昇出力1,225馬力にパワーアップ。合計900kg(2,000ポンド)の爆弾か燃料タンクを搭載するために爆弾倉を双胴に設置し、空戦フラップを装備。生産数は527機。内20機が、非武装の写真偵察機型F-4Aへ改造された。1943年前期頃からP-38Fに続いて1,082機が生産された。1,325馬力に出力を向上したアリソンV-1710-51/55エンジンと性能向上した通信機を搭載。181機が非武装の写真偵察機F-5Aに改造されている。G型のパワーアップタイプ。601機生産された。同じく写真偵察機仕様のF-5Cに128機が改造。I型は欠番。インタークーラー(中間冷却器)の位置を変更し、電動式ダイブブレーキを装備した。1943年8月に生産を開始。生産数は2,970機。また、本型を改修し、武装を全廃して機首に爆撃手席を設けたパスファインダー(爆撃先導機)型「ドループスヌート」や、爆撃照準レーダーを搭載した「ミッキー」が若干生産されている。他、写真偵察機F-5Eとして205機が改造。1機のみ作られた試作機。G型の機体にV-1710-75/77エンジン(1,425hp)を搭載し、出力の向上を図った機体。P-38シリーズで最多の3,923機が生産された。113機はバルティ社で生産され、P-38L-VLと呼称された。エンジンは水噴射装置付きとなり、数分が限界であるものの、ブースト時は実に1,600馬力を発生した。P-38Lは900kgの爆弾か1,140リットルのドロップタンクを搭載するためのパイロンを備えた。また、油圧ダイブフラップと補助翼を装備し、それらは高速時に効果を発揮した。また翼下へ各5発ずつ、対地攻撃用の5インチロケット弾を搭載できるクリスマスツリー型のランチャーを装備可能になった。他、本型をベースに写真偵察型のF-5Eが500機。F-5F(機数不明)。F-5Gが64機改造されている。最終生産型の夜間戦闘機。機首下へレーダーポッドを装備し、機首武装を確保するために中央胴体後部へレーダー手席を設置。L型の生産ラインから74機が改造された。1945年2月5日に初飛行したため、活動時期は主に戦後となったが、間もなくより高性能な全天候双発戦闘機P-82「ツインムスタング」が戦力化されたために活躍期間は短かった。

出典:wikipedia

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