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エマーソン・レイク・アンド・パーマー

エマーソン・レイク・アンド・パーマー(Emerson, Lake & Palmer) は、キース・エマーソン、グレッグ・レイク、カール・パーマーの3人により、1970年に結成されたイギリスのプログレッシブ・ロックバンド。英語圏では「ELP」の略称で呼ばれることもある。クラシック音楽に傾倒し、ムソルグスキー作曲の『展覧会の絵』を独自に編成したり、シンセサイザーを導入したことで知られるバンドである。各人がそれ以前のバンド活動で既に名声を得ていたことで、「スーパーグループ」と呼ばれていた。活動のピークは結成時から1974年といわれている。この間に、4作のスタジオ録音アルバムと2作のライブ・アルバムを発表し、その全てが母国イギリスのヒット・チャートのトップ5圏内に入り、アメリカではトップ20圏内に入っている。1972年には来日も果たし、後楽園球場で約35000人を集めたコンサートを行っている。クラシックを取り入れたユニークな音楽性と演奏スタイルが支持されて、プログレッシブ・ロックの代表的なバンドとして人気があり、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエスとともに「プログレッシブ・ロック四天王」、あるいは、ジェネシスを加えて「プログレッシブ・ロック5大バンド」とされている。ザ・ナイスを率いていたキース・エマーソンは、他のメンバーの力量に不満を抱くようになり、新しいバンドの可能性を模索し始めた。一方、1969年、イギリスでキング・クリムゾンがアルバムの『クリムゾン・キングの宮殿』でデビューした。このアルバムでベースとヴォーカルを担当したのがグレッグ・レイクだった。1969年暮れ、レイクはキング・クリムゾンのアメリカ公演中のフィルモア・イーストでザ・ナイスと共演する機会があり、この時、エマーソンと意気投合した。この頃、レイクはエマーソンかジミ・ヘンドリックスのいずれかとバンドを組みたいと考えていた。1970年の2月に意見を交換しはじめ、お互いに現在のバンドを離脱し、新しいバンドを結成する計画を進めた。同年4月、当時アトミック・ルースターにいたカール・パーマーがドラムスにスカウトされ、3人の陣容が整った。レイクはモーグ・シンセサイザーの導入をエマーソンに提案し、彼らの音楽的個性の結実に繋がることとなる。当初、バンド名を「トライトン(Triton)」にするというアイディアもあったが、結局、3人のファミリー・ネームを並べた「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」となり、1970年6月に結成が公表される。3者とも既に知名度と人気を獲得していたため、デビュー当時からマスコミも注目し、「スーパー・グループ」と呼ばれていた。1970年8月23日、ELPはプリマス・ギルド・ホールで記録上のデビュー・ステージを行う。ただしエマーソンによると、これはウォーム・アップであり、ELPの実質的なステージ・デビューは同年8月29日にワイト島で開催された「第3回ワイト島ポップ・フェスティバル」であるとされている。このライヴは観客には好評だったが、評論家は概ね否定的だった。以後、ELPはコンサート活動を行いながら、並行してデビュー・アルバムの制作を進めていた。この間、エマーソンは誌の人気投票でトップとなり、バンドもブライテスト・ホープ一位を獲得している。同年11月20日にアイランド・レコードから(アメリカでは翌年1月にアトランティック・レコードから)、バンド名と同じ名前のデビュー・アルバム『エマーソン・レイク・アンド・パーマー』がリリースされ、その直後からイギリス・ヨーロッパ・ツアーを3週間かけて行った。1971年早々からセカンド・アルバムのリハーサルと録音が始まり、その中で開催された3月26日のニュー・キャッスル・シティ・ホールのライヴで、『展覧会の絵』のライブ録音が行われた。ただし、セカンド・アルバムの録音が既に進行していることもあって、このライブ録音のリリースは未定であった。4月には初のアメリカ公演ツアーが行われている。同年5月(アメリカでは6月)、ELPはセカンド・アルバムの『タルカス』を発表した。このアルバムはELPが本格的にシンセサイザーを活用し始めた作品と位置づけられている。この頃のシンセサイザーは、多くのミュージシャンに強い興味を持たれてはいたが、実際にどう使ってよいのか判らないという者が多く、ミュージック・コンクレートなどでの電子音を出すか、ウォルター・カーロスやのような「多重録音によるシンセサイザー音楽」などが実際の使用方法として幅を利かせていた。そんなシンセサイザーをステージに持ち込んで「楽器」としての可能性を提示したのは、ELPが先駆である。同年6月にはフランクフルトのオーケストラとバレエ・カンパニーとの共演で「展覧会の絵」を演奏するイベントを含む、ヨーロッパ・ツアーが行われた。同年9月のメロディー・メーカー誌の人気投票では、前年のレッド・ツェッペリンに代わってELPが首位になり、『タルカス』もアルバム部門で首位を獲得している。この頃、ブートレッグ(海賊盤)問題が発生した。3月に収録したまま発表未定となっていた『展覧会の絵』のライブ演奏が、10月頃からブートレッグとなって出回っていた。これまでのELPの2作のアルバムとは一線を画した内容であることなどの事情から、『展覧会の絵』を発表しないままでいたが、ブートレッグの流通はELPサイドが無視できない事態になり、市中に出回っているブートレッグを回収した上で、11月になって正規盤の『展覧会の絵』を廉価盤として発表した。『展覧会の絵』は大ヒットとなり、イギリスやアメリカ、ヨーロッパ、日本でもランキングされている。1972年1月、次のアルバムの録音を行ない、3月にはアメリカ・ツアーを行った。このツアー中、エマーソンはモーグの工場を訪ねている。6月に通算4作目でスタジオ録音盤としては3作目となるアルバム『トリロジー』が発表され、世界規模のツアーが開始された。そして7月13日に来日し、同月22日に後楽園球場で、24日には阪神甲子園球場で屋外コンサートが開かれた(前座はフリー)。後楽園では台風の影響でモーグを初めとする機材の調子が悪く、甲子園球場では観客がステージになだれ込み、途中で中止になるというアクシデントがあった。同年9月のメロディー・メーカー誌の人気投票ではELPは一位を獲得し、各メンバーも担当楽器部門でそれぞれ一位を獲得している。10月にはこの年初のイギリス・ツアーが行われ、このツアーでは、パーマーはドラム・シンセサイザーを初めて使用している。また、レイクは元キング・クリムゾンのピート・シンフィールドのソロ・アルバム「スティル (Still)」の制作に参加している。1973年1月、ELPの主催するマンティコア・レーベルの発足が正式に発表された。このレーベルはELPの他に、イタリアのプレミアータ・フォルネリア・マルコーニ(PFM)、バンコやピート・シンフィールド、ELPの前座を務めたストレイ・ドッグなどと契約している。また、これに伴い、ELPのイギリスでのリリースはアイランド・レコードからWEAに移動した。2月には、後に『恐怖の頭脳改革』と題されるニュー・アルバムのレコーディングが開始され、そのレコーディングの途中でワールド・ツアーが始まっている。9月のメロディー・メーカー誌の人気投票では、グループ部門ではイエスに抜かれ、エマーソンもキーボード・プレイヤー部門でリック・ウェイクマンに首位を明け渡している。11月に、マンティコア・レーベルの作品としては初めてのELPのアルバム『恐怖の頭脳改革』が発表され、同時にアメリカ・ツアーが行われた。1974年3月から開始されたヨーロッパ・ツアーの後、4月にはアメリカでの「カリフォルニア・ジャム」に出演した。この時にヘッドライナーをディープ・パープルとどちらが勤めるかで揉め、結局、ELPとなったが、ディープ・パープルの演奏時間が長かったために縮小せざるを得なかった。その後、イギリスに戻ってツアーを行った。7月になると、1973/1974年のツアーの音源から、3枚組LPのライブ・アルバム『レディース・アンド・ジェントルメン』がリリースされた。原題の「Welcome Back My Friends To The Show That Never Ends...Ladies and Gentlemen」は、1974年4月18日に行われたウェンブリー・アリーナでのコンサートに於いて、司会のアラン・フリーマンが言った『恐怖の頭脳改革』収録の「悪の経典#9」の歌詞の一部を基にしたコメントが使われている。8月まで行われたアメリカ・ツアーを最後に、ELPは活動を停止した。その後は、1977年の次作にあたるアルバムの発表まで、ELPはグループとしての活動を行っていない。1974年夏のアメリカ・ツアーのあと、ELPのメンバーとしての多忙さに嫌気がさしたエマーソンは、自作の「ピアノ協奏曲第1番」の制作に携わっていたが、エマーソンのソロ・アルバムとしてではなく、レイクやパーマーのソロ企画と合体した作品とする方針が選択され、アメリカとイギリスでは1977年3月、日本では4月に、「ELP四部作(原題:Works volume 1)」として世に出ることとなった。このアルバムはLPでは2枚組の計4面で、その内の最初の3面が各人のソロ、終わりの第4面がELPとしての作品になっており、バックにオーケストラを導入している。エマーソンはこのアルバムにおいて、ヤマハ製エレクトーン「GX-1」(実質的にはポリフォニックシンセサイザー)を全面的に使用している。しかし、同時に行われたオーケストラ帯同のツアーは、結果的には失敗に終わっている。モントリオールのオリンピック・スタジアムでのコンサートは後に『イン・コンサート』としてライヴ・アルバムとビデオ・ソフト化が発売されている。また、この後のライヴは、オーケストラを帯同しないもの変更され、この模様は1997年に発表されたCD『キング・ビスケット・ライヴ』で聴く事が出来る。同年11月、『ELP四部作』の続編という形で『作品第2番(原題:Works volume 2)』がリリースされたが、収録された12曲の内のかなりの数が、何年も前に作られた曲であった。1978年、もはやメンバーがELPの活動の継続をするのには否定的だった。次のアルバムの製作中に、3人はそれを最後にELPを解散させる事に合意していた。税金問題などの絡みもあって、そのアルバムはイギリスではなくバハマで録音されている。そして同年9月に発表されたのがアルバム『ラヴ・ビーチ』である。このアルバムのためのプロモーション・ツアーは行われなかった。1979年10月にライブ・アルバム『イン・コンサート』が発表された。1977年のモントリオールでのライブを収録している。1980年2月、ELPの解散が正式に発表された。解散発表は朝日新聞、東京新聞、北海道新聞などの記事にもなった。1981年までバハマに残ったエマーソンは、そこで映画音楽やソロ・アルバムを制作している。レイクはゲイリー・ムーアらと共演したソロ・アルバムを2作発表し、ムーアが同行してのツアーを行う。また、エイジアから解雇されたジョン・ウェットンの後任として一時期在籍し、来日公演に参加している。エイジアはセカンド・アルバムとサード・アルバムの間の時期で、レイクはスタジオ録音のアルバムには関わっていないが、来日公演の模様を収めたライブ・ビデオ『エイジア・イン・エイジア』が発売され、レイクの姿を確認できる。カール・パーマーは自身のバンド「PM」として1作のアルバムを発表した後、ジョン・ウェットン、スティーヴ・ハウ、ジェフ・ダウンズとエイジアを結成し、ELPの元メンバー中で最も成功している。1980年代半ば、ELPの再結成の話が出た際に、パーマーがエイジアでの活動に集中していたためにそれに応じず、代わりにコージー・パウエルが加入し、1986年に「エマーソン・レイク・アンド・パウエル」として活動を始めた。省略名は以前と同じくELPになる。このバンドをELPと捉えることをパーマーは否定しているが、エマーソンはインタビューで「エマーソン・レイク・アンド・パウエルはELPの再結成バンドだ」と発言しており、ライヴではELP全盛期の作品も演奏していた。このバンドは1枚のアルバムリリースと一度のライヴツアーの後にパウエルの離脱により解散している。エイジアからのパーマーの離脱を受けて、エマーソンとレイクはパーマーを誘って再結成に向けてリハーサルを開始したが、すぐにレイクが離脱してしまう。エマーソンとパーマーは、エイジアのマネージャーであったブライアン・レーンから紹介されたロバート・ベリーを迎えて、同じくトリオ編成の「3(スリー)」を結成し、1988年にアルバム『スリー・トゥ・ザ・パワー』を出すが、ライヴツアー後に解散となった。エマーソンはインタビューで「3はELPの再結成バンドではない」と発言している。エマーソンもレイクもソロ・アルバムのリリースを目指していたが、それでは売り上げが見込めないという理由でレコード会社が難色を示していた。1991年、2人は話し合いの末に再結成することを決め、パーマーを誘い、1992年にアルバム『ブラック・ムーン』を発表した。その後、世界的なツアーを行い、約20年ぶりの来日公演も果たしている。1993年には4枚組CDボックス・セットの『リターン・ オブ・ザ・マンティコア』(新録音・未発表音源を含むコンピレーション盤)を発表し、1994年にはアルバム『イン・ザ・ホット・シート』を発表している。ジェスロ・タルの北米ツアーの前座(演奏時間は1時間のみ)など、断続的にライヴツアーを行い、1997年のモントルー公演を撮影したライブ・ビデオも制作されたが、その後はバンドとしてのライヴ活動はなく、実質的に解散状態となる。2002年、レイクがリンゴ・スター主催のバンドのメンバーとしてアメリカ・ツアーに参加している。同年、エマーソンはザ・ナイスの復活ツアーや、キース・エマーソン・バンドとしてのツアーを敢行している。また、エマーソンは2004年公開の『ゴジラ FINAL WARS』の音楽を担当している。パーマーはオリジナル・メンバーで再結成したエイジアに参加し、ワールド・ツアーを行った。2010年4月、エマーソンとレイクが キーボードとギター/ベースのみのデュオ形態でアメリカ・ツアーを行ない、ザ・ナイス、キング・クリムゾン、ELPのナンバーを新アレンジで演奏した。来日公演も予定されていたが、エマーソンの病気のため公演は中止となった。2016年3月、キース・エマーソンが他界。同僚のグレッグ・レイクやカール・パーマーは「彼は先駆者にして革新者であり、彼が作った音楽は永遠に生き続ける」と、追悼の念を述べている。2010年7月25日、ELPの一夜限りの再結成ライヴがロンドンでのイベント「ハイ・ボルテージ・フェスティバル」のメイン・アクトとして実現した。このイベントには、パーマーの参加しているエイジアも出演している。パーマーは「今後はELPとしての活動は行なわない」と発言している。ELPはバルトーク・ベーラの「アレグロ・バルバロ」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」やチャイコフスキーの「くるみ割り人形」、アルベルト・ヒナステラの「ピアノ協奏曲第1番」、そしてエマーソン・レイク・アンド・パウエルとして再結成した時にはホルストの「惑星」など、クラシック曲をロックにアレンジしている。このコンセプトはエマーソンがELP結成以前に在籍していたザ・ナイスで行ってきたものであり、ELPでも大きなテーマとして引き継がれている。しかしながら、バルトークの「アレグロ・バルバロ」をアレンジした曲「未開人」などでは、オリジナル曲の曲名や作曲者名を表記せず、その他にも多くのクラシック音楽を無記名で断片的に取り入れていること(無断使用の例もある)が楽曲の権利者との問題になったこともある。一方では、「ホーダウン」、「庶民のファンファーレ」の原曲の作曲者であるアーロン・コープランドとのように、ELPと良好な関係を持つ人物もいる。ELPのバンド構成は、キーボード、ベース+ヴォーカル、ドラムの、いわゆるキーボード・トリオである。従来のロック・サウンドには、ギタリストは欠かせないものであったが、このバンドの構成の場合はギター・サウンドはない。これが稀有な例である理由として、ロック・ギターの歪んだ音によって得られる「破壊的パワー」が出しにくいこと、そしてキーボード・プレイヤーはその扱う楽器の構造上どうしてもステージを自由に動き回れず、演奏する時うつむく姿勢にならざるを得ないため、ロックにとって重要な要素であるパフォーマンスに関する制約が大きいという点が挙げられる。キーボードのエマーソンは、この点を克服することができた。ハモンド・オルガンでは2ndまたは3rdパーカッション(アタックを強調する減衰音)を入れて攻撃的な音を出し、モーグ・シンセサイザーの音色の訴求力をも活用した(後述)。エマーソンはC-3とL-100という2台のハモンドオルガンをステージで使っており、軽量な方のL-100の出力にHIWATT社製のギター・アンプを使用して破壊的なイメージのサウンドを出した。当時のハモンド・オルガンのトーンホイールという機械上の構造を活用し、ステージでL-100を大きく揺らしたり倒したりしてスプリングリバーブを鳴らし、アンプに近づけてフィードバックのノイズを出した。この様子と、鍵盤の間にナイフを突き立てるという演出(鍵盤を押しっぱなしの状態にして、手を離しても音を出すことができる)が合体し、エマーソン独特のステージ・アクションが出来上がった。また、レイクがギターを担当する場合には、エマーソンが片手でベース・パートを受け持つことによって、ベースの領域をカバーしている。ELPおよびザ・ナイスの影響により、多くのキーボード・トリオの編成のバンドが誕生している。(オランダ)、(ドイツ)、トリトナス(ドイツ)、(イタリア)、(イタリア)、(イギリス)、(イギリス)、レフュジー(イギリス)、UK(イギリス)、タガ・バンド(イギリス)、デジャ・ヴ(日本)、ソシアル・テンション(日本)、アルス・ノヴァ(日本)、ジェラルド(日本)、センス・オブ・ワンダー(日本)、など。オルガンの使用方法に加えて、ELPのサウンドの特徴となったのがモーグ・シンセサイザーである。ELPの結成にあたり、モーグ・シンセサイザーを導入して表現領域を拡大しようと提案したのはレイクで、オーケストラの導入を主張していたエマーソンは当初は懐疑的だった。この時、イギリスで「インターナショナル・オーディオ・アンド・ミュージック・フェア」というイベントが開催されており、モーグも幾つかの機種を出品していた。レイクに連れられる形で会場に出向いたエマーソンは、そこでモーグの開発者であるロバート・モーグと出合う。この頃の事情についてエマーソンは、「ハモンドオルガンの良さやピアノの繊細さは大事だが、1万人の観客の心を一瞬でつかむためには、もっと劇的で驚異的なサウンドを持つ楽器が必要だった。その点、モーグは圧倒的な威力を持っている」と発言をしている。モーグに接続したリボンコントローラーの使用も、エマーソンのライヴでの演出の大きな目玉となっていた。ELPを結成する直前の1970年3月9日、エマーソンはオーケストラとの共演でザ・ナイスとしての最後のコンサートを行っている。エマーソンがモーグをステージで演奏したのは、この時が初めてだとされている。エマーソンの派手なキーボード・プレイに隠れてしまうことがあるが、レイクの多才ぶりもELPの存在において重要である。レイクのベースがギターサウンドのフレーズを代用することも多く、後に8弦ベースを使用する際には、さらにその傾向が高まった。さらにライヴでは、ベースラインをエマーソンのモーグにまかせ、レイクがエレキギターを弾くこともあった。レイクが「ラッキー・マン」、「スティル・ユー・ターン・ミー・オン」などのアコースティックギターでの弾き語りを行う場合は、他の2人がバックに廻るという演奏形態を採る。ライヴにおいては、2人のバックがなく、ソロでアコースティックギターを弾きながら歌う場合もある。エマーソンの攻撃的な演奏の間に、レイクのアコースティックな曲が流れるのは、アルバムにおいても、ライヴにおいても、それは一服の清涼剤のような存在になっている。パーマーは非常に凝ったドラムセットを開発し、背後に二つの巨大なドラ、頭上に鐘がぶら下げてあり、両手でドラを叩きながら口で紐を引いて鐘を鳴らすというパフォーマンスが可能であった。さらには、セット全体が回転し、フラッシュライトが点灯する。そして、タムタムからのトリガーが発することができるモーグを使い、電子音を鳴らすことも可能にしていた。

出典:wikipedia

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