藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。日本プロ野球を代表する伝説の強打者であり、大阪タイガース(現:阪神タイガース)の黎明期を支え、戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手。初代「ミスタータイガース」。チームメイトからの愛称は「フジさん」。藤村隆男は実弟で、大阪タイガースでは共にプレーした。四男四女の8人兄弟の7番目(三男)として生まれる。父親は呉海軍工廠で工員を務め、兄も同工廠野球チームの花形選手だった。鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学し、野球を始める。また、南海ホークスのエースだった柚木進は家が近所で、進の兄・柚木俊治は1934年夏の甲子園で主将として藤村と共に優勝メンバーとなっている。同学年の鶴岡一人も近所にいた。藤村は尋常小学校卒業後、高等小学校で2年学び、1931年に大正中学校(5年制)に入学した。、2年生(16歳)で早くもエースとなり県内のライバル、鶴岡の広島商業や濃人渉、門前眞佐人、白石勝巳らのいた広陵中学を退け、春夏の甲子園に6度出場。明石中学の楠本保、京都商業の沢村栄治、中京商業の吉田正男、県立岐阜商業の加藤春雄ら中等野球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ、甲子園の申し子と呼ばれた。藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったという。中学3年、1933年春の甲子園では、沢村栄治をエースに擁する京都商に敗退。次回に雪辱を期すが、3度目の甲子園出場だった1933年夏の甲子園では、対戦する前に京都商が敗退。準々決勝で3連覇を狙う中京商業と対戦し、完封負けを喫した(中京商業は続く準決勝で中京商対明石中延長25回を勝ち抜き、3連覇を達成)。藤村のワンマンチームと思われがちな大正中学だが、呉港中学に校名変更した翌1934年夏の甲子園では、田川豊、塚本博睦、橋本正吾、保手浜明、原一朗らを揃え、高い総合力で全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇を果たした。決勝では藤村が熊本工業を2安打14奪三振で完封、川上哲治も3連続三振に捻った。夏の甲子園決勝での14奪三振は最多記録。川上は「ヒゲをはやし、一人だけ大人が混ざっているようだった」と述懐する。藤村は、「川上がいたなんて、さっぱり覚えがない」と言っている。以後、川上とは「終生のライバル」となる。深紅の大優勝旗を手に凱旋した呉港中ナインを歓迎する呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。藤村が駅で優勝旗を掲げようとした瞬間、旗の柄が折れてしまったという逸話も残る。翌1935年の夏の甲子園では、対飯田商業戦で、1試合19奪三振を記録。この記録は、1925年の夏の甲子園で東山中の森田勇が対北海中戦で達成した記録に並ぶものであり、2012年の夏の甲子園で、神奈川・桐光学園の松井裕樹が対今治西戦で1試合22奪三振で記録を更新するまで、実に77年間もの間、夏の甲子園の1試合最多奪三振記録であった。藤村が2年生の16歳から5年生の19歳まで、4年間一人で投げ抜いて奪った三振は甲子園で12試合通算111個である。藤村が呉港中学を卒業したは、職業野球連盟が結成された年であった。設立されたばかりの大阪タイガースは、甲子園最大のスター選手であった藤村を熱心に勧誘し、前年11月11日に契約を結んで投手として入団させた。背番号10。藤村自身及び学校側は当初、法政大学進学の意向を固めており、阪神に先立ち勧誘に動いた名古屋金鯱軍は藤村の父と兄に固辞されていた。その後訪れた大阪タイガース支配人の中川政人が藤村の父親と兄を口説いて了解を取り付けた上で、何も知らぬ藤村を呼んで判子を渡し、契約書に押させて契約を成立させた。藤村の反対にあって契約が不成立となるのを恐れた藤村の父兄と中川の判断でこのような手段を取ったが、藤村は法政大に進学できないのを残念がったという(なお、その後藤村の長男・哲也と次男・雅美が法政大に入り、雅美は主将を務めチーム初の4連覇に貢献した)。父と兄がプロ入り賛成に傾いた要因は、当時職についていなかった藤村の次兄をマネージャーに迎えるという条件を出したことであった。学校側と藤村家の関係は険悪となり、藤村は野球部の出入りを禁じられた。六大学野球全盛の当時において、創設されたばかりでリーグ戦も開催されていなかったプロ野球の立場は低く、藤村のように有力な旧制中学生がプロ球団と契約・入団する事は、人生を誤るようなものと思われていたためである。1936年2月、タイガース入団のため、次兄と一緒に呉駅を出発する藤村を見送ったのは家族とわずかな友人だけ。全国優勝の後の駅前の賑やかな出迎え風景は嘘のようだった。1936年、プロ野球リーグ(日本職業野球連盟)が開幕。タイガース最初の公式戦である第1回日本職業野球大会4月29日の対名古屋金鯱軍戦に開幕投手として登板、1安打完封勝利(プロ野球におけるデビュー戦完封勝利の第1号である)を挙げる。また、7月15日に山本球場で行われたタイガースにとって初の東京巨人軍との試合では若林忠志のリリーフという形で勝利投手となり、大阪タイガースにとって対巨人戦初の勝利投手となった。好成績を収める傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手としても出場し、同年秋季には、投手ということもあって規定打席に不足ながら本塁打王創設後では日本記録となる2本塁打で初代本塁打王に輝いた。からは本格的に二塁手に転向し、2番打者としてチームの2連覇に貢献。しかし当時のタイガースは景浦將、山口政信、松木謙治郎、藤井勇などリーグ屈指の強打者が数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であった。1939年から1942年までは兵役のため南方戦線に出向いていたため、出場できなかった。に除隊し夏のシーズンから復帰。その年は長い軍隊生活で思うように体が動かず、34試合で2割2分、本塁打0とプロ入り以来最悪の成績に終わる。しかし翌は戦力の落ちた阪神で主軸となり、4番打者に定着して打点王を獲得、優勝に貢献した。この年夏のシーズンから若林忠志監督の指示で本格的に三塁手へコンバートされた。戦後は復員後早々の11月23日に行われた戦後初のプロ野球公式戦、明治神宮野球場の東西対抗戦に西軍3番で先発出場。5回表に東軍の白木義一郎から放ったセンターオーバーのランニングホームランは、戦後のプロ野球初本塁打といわれている。リーグ戦が再開したには監督を兼任。これは高卒選手として初のプロ野球監督就任。クリーンナップ(5番)に座り、打率.323を記録する傍ら、戦後の投手不足のため投手としても登板した。試合の後半、投手が四球を連発したりすると、じっとして守れなくなり、負け試合でもサードからウォーミングアップもろくにせずリリーフ登板した。この年、13勝2敗、リリーフだけなら8勝0敗の成績を残している。シーズン終了後、監督は若林に交代した。以降は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。打点王として1947年の優勝に貢献、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以後6年連続で同賞を受賞している。からはゴルフのクラブからヒントを得た(本人曰く笠置シヅ子のショーを観て触発されたとも)といわれる通常の選手のそれよりも長い37~38インチの長尺バットを用いて、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘と共に本塁打を量産した。このバットは「物干し竿」と呼ばれ、藤村のトレードマークになると共に3年連続打点王の原動力となった。同年10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録、更にこの年日本プロ野球初の年間100打点も記録した。には187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという驚異的な記録を残す。しかも、自身の本塁打記録が本塁打王創設後で日本記録になるのは2度目である。惜しくも首位打者は小鶴誠に譲り三冠王にはなれなかったが、藤村の大活躍は甲子園に入場できない人もでる大盛況でプロ野球の隆盛を招き、そのスポーツマンとしての功績は現在でも評価が高い。チームが6位だったにもかかわらず、MVPを獲得。この年の藤村の大活躍は多くの大阪の人の心をつかんだ。タイガースに対する大阪人の特別な愛情はこの時生まれた。この頃から人々は藤村を「ミスタータイガース」と呼ぶようになり、ファンから絶大な支持を得ている。人気球団巨人に、阪神というライバルがいたからこそプロ野球という船は波に乗った。藤村のように人生を野球に賭けた男がいたから航路に光が射したのである。1949年末から始にかけて、球界は2リーグ分立し、主力選手の引き抜きに揺れた。タイガースも若林忠志、別当薫、土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、「わしゃタイガースの藤村じゃ」の言葉とともに、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。1950年、セントラルリーグ初年度の公式戦ポスターは藤村の顔が描かれている。この前年に藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にすると、藤村はセ・リーグ最初の首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻んだ。この年に記録した年間191安打はにイチローに破られるまで44年間日本プロ野球記録であり、にマット・マートンに破られるまで60年間阪神の球団記録であった。また、この年は前年の142打点を上回る自身最高となる146打点を記録したが、既述の通り小鶴がそれを上回る日本記録となる161打点を記録したため、打点王を逃した。146打点は打点王を逃した記録としては、現在に至るまで最多記録である。に再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、まで一線でプレーした。までは投手としても登板し、通算76試合で34勝11敗、防御率2.34の記録を残している。与儀眞助が加入した1953年からは一塁手がメインとなる。一塁への転向を知ったライバルの川上哲治は、アメリカで購入したファーストミットを藤村に贈ったという。この間、1950年からは打撃コーチ兼任となり、1954年からは助監督を兼務した。しかし、に監督就任した岸一郎は世代交代を目指して、藤村等ベテラン選手より若手選手優先の起用を行った。そのため主力選手の反発を招き、岸がシーズン中に更迭されると藤村が代理監督に就任、翌年からは正式な兼任監督となった。には監督としての仕事を優先してレギュラーを譲ると、日本球界2人目の代打逆転サヨナラ満塁本塁打の快挙を達成した。この本塁打が藤村の現役最後の本塁打であった。兼任監督時代は打てる投手の時に出場し、逆に打てない投手の時に出ないというケースがあり、それまでも数々のスタンドプレーを快く思わない選手もいて、打撃練習もファンを意識してわざと遅れてやる、一人長々やるなどの蓄積がナイン全体の反感を買った。また、人の好い藤村は球団の提示する低い年俸を受け入れ、球団はこれを尺度に他の選手の査定をおこなったため、待遇に対する不満が選手の間に生じていた。こうした状況を背景に「藤村排斥事件」と呼ばれる騒動がマスコミを巻き込む形で起きる(詳細は同項目を参照)。2リーグ分裂以降の阪神は、内紛騒動があまり表に出なかったが、この事件以降、阪神が一種のスキャンダル・メーカーになっていく。スポーツ新聞もこれを助長し、裏話を求める読者へ、スキャンダル報道で答えようとした。藤村排斥事件の報道は、その先駆例だった。スポーツ新聞が急成長するきっかけをつかんだのもこの内紛劇からとされる。この事件の影響で限りで現役を引退し、から監督に専任することとなった。上記の排斥運動などのイメージで監督としては無能だった、という評価が定着しているが、監督4シーズンで勝率.583という成績を残している。特に1957年は首位巨人と1.0ゲーム差、流感による主力選手の離脱がなければ優勝できたともいわれた。1956年の代理監督就任直後には20試合で15勝5敗という成績を収めており、『阪神タイガース 昭和のあゆみ』はこれに関して「勝負カンという点では人一倍すぐれたものを持っていた」と記している(同書P243)。1957年11月、優勝争いをした後にもかかわらず、球団代表の戸沢一隆から「田中義雄への監督交代と、代打要員としての現役選手への復帰」を告げられる。まだ契約期間中だったため、藤村は契約満了の11月末までは発表を控えることと、現役復帰はキャンプで体調を見てから決めたいという要望を出したが、戸沢がそれを突っぱねて「(代打要員で)世間体が悪ければ肩書きを付けよう」と発言した。これについて藤村は「頭に来た」とのちに述べている。結局、藤村の意向は無視される形で発表された。この不可解ともいえる監督交代について、南萬満は「前年の排斥事件のペナルティではないか」という見解を示している。に現役復帰したが、先発は1試合のみ、7番・ファーストで途中交代。結局26打数3安打、シングルヒットが3本の打率1割1分5厘で、生涯打率3割を保つため11月末に引退を表明し、ついにタイガースから完全に離れた。1950年の毎日への主力選手移籍の折に「出てったもんと、残ったもんと、どっちが勝つかはっきりさせようじゃないか」と語り、日本シリーズに出場することが悲願であったが、その夢は果たされることなくユニホームを脱いだ。日本シリーズに出られなかったことは後年まで悔いとして残り、1984年のインタビューではリーグ分裂の際に毎日に行った仲間がその年の日本シリーズに出たことをうらやむ気持ちが強かった、長い野球生活でこれだけ経験できなかったことが情けなかったと述べている。引退の記者会見は甲子園球場の食堂で行われ、かつてのスター選手としては寂しい舞台であった。しかし翌3月2日、甲子園球場で『藤村富美男引退試合』(オープン戦、対巨人)が開催された。これは日本球界で初の『引退試合』だった。大阪タイガース結成時から藤村がつけ続けた背番号「10」は、球団初の永久欠番となっている。現役引退後、に国鉄スワローズの打撃コーチ、からは東映フライヤーズの打撃コーチを務め、からにも東映の打撃コーチを務めた。また、読売テレビや大阪スポーツで野球解説者(野球評論家)として活躍。俳優としても、「必殺シリーズ」に出演した。、野球殿堂入り。1988年以降は病院や介護施設で闘病生活を送った。1992年5月28日、糖尿病による腎不全のため、75歳で死去した。死去時、甲子園球場には半旗が掲げられてミスタータイガースを追悼した。闘志をむき出しにするタイプで、「阿修羅の藤村」とも表現され、赤鬼のような顔で審判の判定にも文句をつけた。10月3日の対巨人戦で逆転サヨナラのランナーとして本塁に突入し、捕手・武宮敏明に体当たりして脳震盪させたプレーは、捕手への体当たり第1号といわれる。それまでは捕手が先にミットを構えたら走者は止まってアウトになっていた。一方、見かけによらず器用な選手であった。大井廣介は著書『タイガース史』(ベースボール・マガジン社、1958年)の中で「藤村を大成させたのは、試合度胸や負けじ魂にその器用さである」と記し、松木謙治郎も指導したり接した選手の中で「勝負強さと器用さにかけては、この藤村が第一人者だと思う」と記している。打撃だけではなく強肩を生かした華麗な三塁守備でも知られた。藤村はメジャーリーグの三塁守備によく見られる、三塁線の打球の素手取りを、スタンドまで掴む音が聞こえるような猛ゴロであっても平然とやってのけ、「猛人藤村」ともいわれた。その器用さと強肩で守備位置が深く、守備範囲が広かった。三塁手以外のポジションを守っても平均以上の守備をみせ、捕手以外の全ポジションを経験した。特に、投手、二塁手、右翼手、三塁手、一塁手では、1シーズン以上にわたりレギュラーを務めた。投手の時には股の間から二塁走者を伺う珍無類な牽制で笑わせたり、実際に股の間から一塁へ牽制球を投げた。こうした魅せる野球、ショーマンシップに目覚めたのは『東京ブギウギ』の笠置シヅ子のレヴューを見てからともいうが、お客さんを喜ばそうと、試合前の練習から曲芸のような捕球や打ち方をやって見せた。試合が公式戦でも紅白戦のようなオープン戦であろうとも手を抜くことはなく、土井垣らと内野のボール廻しを途中からボールを使わず、いかにも続けているかのように見せるシャドープレイで観客を沸かせたり、本塁打を打って両手を振ってダイヤモンド一周をしたり、砂煙を上げる猛烈スライディングをわざとしたり、内角の厳しいところを突かれると大仰にひっくり返ったりした。娯楽に飢えていたファンは藤村のこうしたプレーを堪能した。左足のケガのため代打出場となった試合で本塁打を放ったときには、片足(いわゆるケンケン)でダイヤモンドを1周した。こうした藤村のプレースタイルは、よくいえばショーマンシップ、一歩誤ればスタンドプレー、と今でいえば"大論争"が巻き起こった。当初は2番を打つなど、打撃面では脇役だった藤村がホームランバッターになった理由は、戦中・戦後に地方遠征などで試合前に余興で行われたホームラン競争がきっかけと当時の複数の選手が指摘している。戦力の落ちたチームで4番を打っていた藤村は、別当薫のあと声がかかりホームラン競争をやっているうちにコツを覚えたという。石本秀一や松木謙治郎、金田正泰は、当時の藤村について「チャンスで打席に回ると、並みの選手は委縮するなか、藤村は嬉しそうに打席に入る」と述べている。杉下茂は「藤村は内角低めのシュートが弱点で、そこに投げておけば大丈夫だった」と証言している。ただ、藤村はそうした投球が来るとしばしば、いかにもねらい球を見逃したかのように悔しがるジェスチャーを見せ、それで相手が投げにくくなるようにし向けた。杉下は、そうした駆け引きにも藤村は長けていたと述べている。、鳴り物入りで入団してきた慶應義塾大学出身の別当に競争心を燃やしたとよくいわれる。また、藤村が「物干し竿」を使うようになった理由は、長打力を持つ別当への対抗心からだという説も存在する。別当との関係について、阪神の球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(1991年)にはと証言入りで紹介されている(同書P150)。南萬満は『真虎伝』の中で、藤村がともに酒を飲まない別当をよく一緒に食事に誘っていたという奥井成一の証言や、別当が打てばイライラして打ち損じたといったことはなかったという土井垣武の証言を紹介している。ただ、1949年のシーズンに別当と本塁打王を争ったことについて藤村は、「同じチームとしてライバルとしてタイトルを争うのはあんまりよくない。別当は先に打つのではっきりとした競争意識というものがあった」と後年語っている。タイガースの公式戦第1戦に開幕投手として1安打完封勝利を挙げた藤村は、第3戦も先発し同点から延長で、センター・平桝敏男の失策によりサヨナラ負け。タイガースの勝利・敗戦とも第1号となった。1948年に日本で最初のサイクル安打を記録。この時は内野安打と通常の単打を含む5安打の猛打であった。1950年に2回目を記録、これは2リーグ制でも第1号であったが、1991年に松永浩美が記録するまでは唯一の「一人で二度」の記録の持ち主でもあった。ただ、当時はサイクル安打という概念が日本には紹介されておらず、藤村はまったく意識せずに記録を樹立した。このため、1965年にこれを記録した阪急のダリル・スペンサーが話題にして初めて過去の記録が見直され、藤村が日本で最初に記録していたことが判明するまでは「隠れた記録」であった。1949年、当時のプロ野球新記録となる46本塁打を放ったが、それまでの記録は1948年青田昇、川上哲治の25本であり、一気に21本更新したことになる。1953年には4月28日と29日に2試合連続して満塁本塁打を記録した。2010年現在、プロ野球では藤村を含めて6人が記録しているが、藤村はその第1号である(スポーツに関する日本一の一覧#野球を参照)。また、藤村の満塁本塁打は通算7本であるが、そのうちの1/3をこの2日で放ったことになる。6月24日の対広島カープ戦で、カープのエース・長谷川良平に0-1で迎え込まれた9回裏二死満塁から三塁ベースコーチに立っていた選手兼任監督・藤村は「ワシが代打や」と球審に告げて打席に入ると、左翼に豪快な代打逆転サヨナラ満塁本塁打を叩き込み試合を決めた。この逸話は「代打ワシ」として有名である。これが藤村生涯最後のホームランであった。大阪タイガース創設と同時に入団したため阪神の背番号10は藤村しか着用したことがない。「1選手しかつけなかった背番号」は、全永久欠番のなかでも唯一の事例となっている。上記のように闘志を露にする性格のため、審判などとのトラブルがしばしばあったが、その中で球界や球団まで巻き込む騒動となった以下の事件がある。赤バットの川上哲治、青バットの大下弘に対抗して長尺バットの「物干し竿」を使ったが、藤村曰く「色を塗るだけなら誰でもできる、自分は他人の真似のできないバットを使おうと考えた」という。ゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせた。このバットを振り切るため、バーベル代わりに漬物石を持ち上げて腕力を鍛え、夫人の鏡台をストライクゾーンに見立ててバットを振った。藤村は「これならボール球もホームランに出来るわい」とほくそ笑んだという。ONの時代まで、選手たちはバッグの中に7つ道具として、バスタオルに包んで軍手、牛骨、厚いガラス片を持っていた。バットのささくれや木目が裂けるのを防ぐため、ロッカールームで軍手を着用し牛骨で擦って脂肪分を浸み込ませ、ガラス片で握り部分を削り微調整した。また、バットはアンモニアで乾燥させるといいというので、いつも自宅の便所に10本近くぶら下げていた。当時は汲み取り式でアンモニア臭いっぱいであり、その浸み込んだバットで本塁打を量産した。このバットの更に左手の小指を外して握り、外角高めの少々ボール気味の球でも手を出した。「物干し竿」とそれを握った腕の長さを合計すれば、ほとんど藤村の身長に匹敵した。藤村が大きく両脚を踏ん張り、ずんぐりした体を軸にしてその長尺バットを強振すると、藤村を軸にプロペラが回ったかのようだった。竜巻が起り、打球はたちまちピンポン球と化して外野スタンドへ吸い込まれていった。なお、藤村自身の後年の証言では、先の方に穴を開けてやや軽くなるようにしたという。プロ野球史上初めて、本塁打40本超えを果たしたには「ボールが止まって見えたとか、縫い目が見えたとか言われるが、あのときは、そういうものじゃなかった。レフトスタンドがすぐそこに見えた」と吹いた。「ミスタータイガース」としては、他に村山実、田淵幸一、掛布雅之がそう呼ばれた時期がある。しかし、藤村を別格と見て、ミスタータイガースに初代も2代目も3代目も存在しない、藤村富美男だけがミスタータイガースとするファンもいる。野球関係の書物に同時期活躍した小山正明、吉田義男、奥井成一ら同僚選手、青田昇らライバル選手やマスコミ関係者から同様の意見が多く聞かれる。青田は「ミスタータイガースはあのオッサンしかおらへん。あの2リーグ分裂で、オッサンまで阪神を出て行ったら、今の阪神はないし、いまのプロ野球もないぞ。プロ野球がここまでのびたんは、東の川上、大下、西では藤村が頑張ったからなんや。村山、田淵、掛布がミスタータイガースなどといわれたが、とてもとても藤村のオッサンには及ばんよ。ミスタータイガースは藤村のオッサンだけ」「とにかく阪神と戦って、巨人の選手が9人がかりで、あのオッサンを潰しにいかんとあかんかった」と話している。川上哲治も「サムライでした。ひとりでがんばっていた。藤村さんも他球団に行っとったら、阪神はつぶれていたと思う」と話している。また、入団時に藤村の用具係を務めた吉田義男は「いろんな面でミスタータイガースは、藤村さんだけやと私は今も思っています」と述べている。安藤統男は「ガキの頃に見た藤村さんの顔は、ユニフォームのソデにあったトラの絵にそっくりだった」と語っており、球団創設からあったトラのエンブレムのイラストに、いかつい藤村の顔が重なったという。小山正明は「当時"西の藤村、東の川上"てな言われ方をしとったけど、川上さんでも藤村さんみたいな人間的魅力でお客さんを呼んだわけやなかった。後の長嶋が"華麗なスーパースター"なら藤村さんは"野性味あふれるスーパースター"。野球人としての次元が、まるで違ってた。終戦直後の荒廃した日本に現れ、明るい光を灯した功績を、我々は忘れてはならん。あんな人は二度と出てこんやろう」と話している。藤村の葬儀で当時のOB会長・田宮謙次郎は、「チームの大黒柱で、あこがれの存在でした。先輩はプロ野球の歴史そのものです。引き継がれていく猛虎魂はこれからも消えることはありません」と弔辞を読んだ。また、星野仙一が阪神ファンなのは藤村のファンになったのが切っ掛けであるという。阪神球団社長の南信男は「阪神が今こうしてあるのは藤村富美男さんのお陰と、どのOBの方に聞いても、そう話される。ミスタータイガースといえば、やっぱり藤村さん」と話している。2010年3月14日に「阪神タイガース歴史館」をリニューアルしてオープンした「甲子園歴史館」では、永久欠番である藤村、村山実、吉田義男の3人に対しては、特に手厚く残した功績を伝える内容にしたと、リニューアル発表時に報道された。1939年1月、召集を受け郷里の陸軍広島第5師団歩兵第11連隊に23歳で入営。連隊砲(小型の大砲)要員となる。幹部候補生の試験のうち、将校になれる甲種試験には合格できなかった。藤村は最終的に軍曹となったため、下士官になる条件の乙種試験には合格したのではないかと南萬満は推測している。二等兵として3ヶ月の訓練を受けて3月に上等兵となると、最前線に動員されて国内外を移動した。最初は4月に中国の青島に派遣され、中国大陸で作戦に参加。次いで仏印、さらに華南へと移る。華南では谷に転落、左大腿部に重傷を負い野戦病院に入院する。切断が必要と言われたが、手術で切断は免れた。入院中に伍長に昇進。1939年9月にはノモンハン事件への出撃が命じられるが、行く途中で停戦になり日本に戻る。その後、東京でマレー半島上陸作戦の訓練を受けた。この後マレー作戦に参加。1941年クアラルンプール近郊のジャングルでの戦闘では、英国軍に至近弾を浴びた。戦友の肉片が顔じゅうにかかったがこれも凌ぎ、シンガポール戦線では、最前線で英国軍の砲火にさらされながら、電話線をかける作業をした。砲火を避けるためヘッドスライディングの連続だった。藤村は砲弾の直撃を受けて死んだ戦友の左腕をナイフで切り落して三角巾で巻いて首から吊るし、後にそれを遺骨にして遺族に送っている。1942年2月14日の戦闘では英国軍の白旗を最初に発見したといい、「英国降伏の第一報を山下奉文らの司令部に送ったのはワシや」と誇っていたという。シンガポール陥落の後、輸送船でジャワ島からニューギニアに向かう途中、バンダ海で潜水艦に撃沈される事態に遭遇した。この時はフカがたくさんいる海を半日泳いで助かった。戦後、この話を家族にマッチ箱とタバコを使ってよく話していたと夫人は証言している。1943年2月2日、アンボン島に辿りついた藤村に内地帰還の命令が下る。アンポン島からスラバヤまで、いつ撃沈されるか分からない輸送船の上で数日間眠れない夜を過ごし、その後スラバヤ-シンガポール-下関のルートを計半年がかりで無事帰還。すぐ除隊になり呉の実家に帰った時には27歳だった。既にこの時点で4年半を兵役に費やした。同年夏に復帰したときには敵性語の規制によりチーム名は「阪神」となっていた。多くのチームメイトは戦地にとられ、ライバル巨人の沢村栄治も戦地で無数の手榴弾を投げさせられた扱いにより肩を壊して往年の球威はなかった。軍隊生活の影響で藤村も精彩を欠き、景浦と一・二塁を組んだが「一・二塁間狙え!」「藤村狙え!」と厳しい野次が飛ばされた。打撃もふるわずに終わる。しかし翌1944年春には打棒が戻り、3割1分5厘で打率5位、打点25で打点王を獲得。秋のシーズンは戦局悪化のため中止となったため、夏のシーズンが戦前最後のシーズンとなり、阪神がプロ野球最後の勝率8割台(8割1分8厘)で優勝を飾った。1月1日から5日まで開催されたオープン戦「正月野球大会」に出場。この大会は戦前最後のプロ野球と呼ばれている。この後神戸大空襲で破壊された電車の復旧工事をしている時、広島の連隊に再召集された。ここで本土決戦に備え塹壕掘りなどに従事。同年4月、連隊は福岡県折尾(現:北九州市八幡西区)に移動。今度は山の中で軍用犬の教育をしていた。このため8月6日の広島の原爆投下には遭わなかった。ただ、当時、藤村は広島の原爆で死んだという噂もあったという。敗戦後は呉の実家に帰っていたが、進駐軍の雑役に駆り出され、人間魚雷「回天」の解体作業をやっていた。11月、球団から「スグカエレ」の電報が届き、再び野球をやれる喜びで体が震えたという。既に30歳となっていた。当時は30歳を過ぎるとロートルと見られていた。結局プロ野球選手として一番脂の乗り切ったほぼ7年間を兵役と戦時中の混乱に取られた格好になった。引退後の藤村は口が重い、怒りっぽい、むくれると、腫物を扱うように関係者・新聞記者達からも嫌われ、この後の評論家・解説者もうまくいかなかった。ただ浜崎真二、水原茂ら他チームの監督からは請われてコーチに就任している。藤村は阪神以外の球団でコーチに就任した理由について「コーチとしてでもいいから選手権試合(引用者注:日本シリーズのこと)を体験したいという思いからだった」と後年語っている。国鉄打撃コーチ時代には徳武定祐らを育て、東映打撃コーチ時代は、大杉勝男の入団を促すなどの成果を挙げたものの、1968年に野球界からは完全に離れ、藤村ファンという社長の経営する水道工事の会社に勤務した。この事について藤村自身は「野球だけしか出来ない人間と思われたくないから、野球界から完全に離れた」と言っていた。終生のライバルだった川上や鶴岡が、指導者としても大きな名声を得たのと比べると淋しい引退後だった。藤村の同僚だった田宮謙次郎は「巨人と違ってOBを大事にしないのも阪神の悪しき伝統。藤村さんあたりが球場に顔を出してもみな知らんぷりだったよ」と発言している。ただし、完全にタイガースと縁が切れたわけではなく、1984年のインタビューではタイガースから「顧問としていくばくかのお金をいただいている」と述べている。のタイガース優勝時には、大阪スポーツ専属野球評論家として日刊スポーツに優勝コメントを寄せた。また、同年甲子園球場を訪問した際に川藤幸三に対し、「テレビで見たが、お前ベンチで偉そうにしているな。それでいい。タイガースの歴史を作ってきたのは大学出のスターじゃない。お前ら補欠の人間だ。だからそのまま偉そうにしておけ」と激励した話が伝えられている。川藤はこの藤村の訓示を直立不動で聞いたという。また、1988年に、村山が監督になると、甲子園のネット裏に「藤村シート」を作るなど、阪神との関係もひとまず戻ったと言われている。本人が球界を退いた後に発表された『巨人の星』(劇画版)とそれを原作として制作・放映された『巨人の星』(アニメ版)に東映の二軍監督として登場(アニメ版声優は内海賢二)、星飛雄馬の球質の軽さを見抜いてみせ、その試合のスコアブックを見せられた星一徹を震え上がらせる場面がある。1977年に俳優としてテレビ時代劇『新・必殺仕置人』の元締・虎役でレギュラー出演。中村主水(藤田まこと)・念仏の鉄(山崎努)ら江戸中の全仕置人を束ねる闇の殺し屋組織『寅の会』元締という役柄で、特に寅の会の掟を破った外道仕置人(演:今井健二)を物干し竿を一振りで仕置するシーンには現役時代のフィルムがカットインするなどの演出も盛り込まれた。藤村が選手引退時に進呈された西宮市の家は、1995年の阪神大震災により修復不可能となって現在は更地になっている。震災後、未亡人は仮設住宅に長く暮らした。また入団時の契約金で建て直した呉の実家も、2001年の芸予地震で倒壊した。東映打撃コーチに就任したとき、猛者揃いの東映選手も恐ろしい人が来る、と戦々恐々だったが、旅館で「ビールでもどうですか」と言ったら「ビールはいらん、それよりあんパンくれ」と言って周囲を驚かせた。酒にはめっぽう弱く甘党であったため、あんパンと炭酸飲料が好物であった。松木謙治郎は現役時代について「いつもサイダーばかり飲んでいた」と記している。南萬満は「糖尿病のおかげで死期を早めた」と記す一方、松木は「(酒を飲まずにサイダーを飲んでいたことが)選手生命を長く保たせた原因でもある」としている。『真虎伝』には、藤村の夫人が遺骨の前に好物だったというオロナミンCを供えている写真が掲載されている。家族思いで子煩悩でもあった。子どもたちを叱ることも少なかったという。また、趣味は映画と釣りだと言っている。特に母ものが好きで、映画館でよく泣いていたという。病院嫌いであり、糖尿病がわかったときには、かなり酷い状態であった。甲子園のスター選手であったが、弟・隆男(後にタイガースなどで選手・コーチ)、長男・哲也(育英)、二男・雅美(三田学園)、そして哲也の子・一仁と賢(共に三重・海星、賢はのちに愛知ベースボール倶楽部に所属)、雅美の子・光司(育英―立教大学、当時の育英監督は雅美)の孫3人が相次いで甲子園に出場し、話題となった。広島、兵庫、三重の3県4校に跨る、全く他に類を見ない「親子3代の兄弟出場」となった。なお、最初の妻を1946年8月に失い(1女あり)、同年オフに当時の冨樫興一球団代表の紹介による見合いで再婚した。披露宴は1946年11月に松戸市にあった旅館で開かれ、鈴木龍二が仲人を務めている。哲也・雅美はこの再婚した妻との間の子息である。後妻は2006年に88歳で亡くなった。長嶋茂雄は「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している。吉田義男は著書『阪神タイガース』の中で「あの方(藤村)のプレーは、面白かったんです。他の選手たちがマジメに野球をやっている中で、藤村さんのプレーには、何とかしてファンを楽しませようという心配りがありました」という長嶋の言葉を紹介しており、ポジション以前にプレースタイルに憧れたことが伺える。戦後、関西では、藤村のオーバーアクションのパフォーマンスが、とくに喜ばれていたという。ただ、関東では、スタンドプレーが鼻につくという批判もあった。また、王貞治がまだ二本足打法で打撃不振だった折、監督の川上哲治は最大の欠点であった体重移動の悪さが原因と見て、打撃フォーム改造を荒川博コーチに頼んだ際に、藤村の打撃フォームからヒントを得たという(2007年6月1日、日刊スポーツ連載「王貞治すべてがアンビリーバブル」での川上哲治のインタビューによる)。川上によれば、藤村のフォームは一本足打法の変形で、王にもっと球を呼び込んで打つよう指導したという。水島新司は阪神ファンだった少年時代、とりわけ藤村のファンであったと語っている。野球漫画、『男どアホウ甲子園』の主人公の名前が、藤村富美男から取った藤村甲子園である。インタビューでは「野球マンガを描くときもね、よく藤村をキャラクターづくりに利用してますよ。まず、『ドカベン』の岩鬼正美でしょう。それから『野球狂の詩』では、岩田鉄五郎ですね」と答えている。また、「あぶさん」こと景浦安武は、名前を景浦將、「ものほし竿」を藤村、連載開始時の大きな構えは土井正博と、三人の豪打者を組み合わせて創ったものに永淵洋三の酒豪エピソードを加えたもので、藤村も2度だけ作中に登場した。ルーキー時代のあぶさんに「物干し竿」を使い始めるきっかけを与え、またこれは偶然ではあるが、「二代目物干し竿」のあぶさんが作中で三冠王を獲得した(1991年)のを見届けてから、翌年に他界している。
出典:wikipedia
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