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東寺

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。「教王」とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての名称が教王護国寺であるため、寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称は「教王護国寺五重塔」等となっている。ただし、「東寺」も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。平安時代の公式の記録や信頼できる文書類には「教王護国寺」という名称には一切見えず、すべて「東寺」である。正式の文書における「教王護国寺」の初出は仁治元年(1240年)である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308年)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591年)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。本項では以下、「東寺」の表記を用いる。8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。昭和9年(1934年)3月13日に史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。[画像:Gozanze Myoo Toji Kodo.jpg|thumb|180px|五大明王(講堂安置)のうち降三世明王]]国宝。東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもので、奉行として片桐且元が任に当たった。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失し、室町時代の延徳3年(1491年)に再建されたのが現存する講堂である。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。すなわち、須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩、五菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839年)に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。これら21体の仏像の表す具体的意味について、かつては仁王経に基づく羯磨曼荼羅であると説明され、仁王経と金剛界法とを融合したものとも説かれるが、空海の真意が何であったかについてはさまざまな解釈があり、定説をみない。講堂の後方、境内の北寄りに建つ。初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されるが、文禄5年(1596年)の地震で倒壊。2世紀以上後の寛政12年(1800年)にようやく再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は昭和5年(1930年)に火災で焼失し、現在の建物はその後の再建で、昭和9年(1934年)に完成したものである。旧本尊の千手観音立像はこの時の火災で焼損したが、昭和40年(1965年)から修理が実施され、現在は寺内の宝物館に安置されている。現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている。国宝。東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。初重内部の安置仏像は以下の通り(菩薩像の像名は寺伝による)。国宝。かつて空海が住房としていた、境内西北部の「西院」(さいいん)と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂である。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。昭和33年(1958年)の国宝指定時の名称は「大師堂」であるが、寺では主に「御影堂」の名称を用いている。当初の堂は康暦元年(1379年)の火災による焼失後、その翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390年)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。後堂(南側)には空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の一つである。北側の前堂には弘法大師坐像(国宝)を安置する。この像は東寺の親厳の依頼により、天福元年(1233年)運慶の4男康勝が制作したもので、空海の弟子の真如が描いた空海の肖像とほぼ同じといわれている。この像は庶民の信仰を広く集めており、像の前では、毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われ、多くの参拝者が集まる。北大門を出て櫛笥小路を進んだ左側に、洛南高等学校・附属中学校がある。境内が「教王護国寺境内」として国の史跡に指定されている。(建造物)(絵画)(彫刻)(工芸品)(書跡・典籍、古文書)(建造物)(絵画)(彫刻)(工芸品)(書跡・典籍、古文書)(歴史資料)(考古資料)典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。以下は東寺旧蔵で第二次大戦後に寺の所有を離れた国宝・重要文化財である(国宝・重要文化財指定後に寺を離れたものに限る)。(国宝)(重要文化財)東寺伝来の文書群のうち、下記が国宝・重要文化財に指定されている。東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)以下3件は第二次大戦後に京都府および京都大学に譲渡されたもの。滋賀県所有分は江戸時代に流出したものである。毎月21日は弘法大師の縁日とされ「弘法市」が開かれる。この市は俗に「弘法さん」と呼ばれて親しまれている。特に師走21日の「終い弘法」には、多くの人々が詰めかける。

出典:wikipedia

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