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ヘルマン・ゲーリング

ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring 、1893年1月12日 ‐ 1946年10月15日)は、ドイツの政治家、軍人。第一次世界大戦でエースパイロットとして名声を得る。戦後の1922年にヒトラーに惹かれて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党。ミュンヘン一揆の失敗で一時亡命生活を送るも、1928年に国会議員に当選し、1932年の選挙でナチ党が第一党となると国会議長に選出された。ナチ党と上流階級の橋渡し役を務めてナチ党の党勢拡大と政権獲得に貢献した。1933年のナチ党政権誕生後にはプロイセン州首相、航空相、ドイツ空軍総司令官、四ヵ年計画全権責任者、ドイツ経済相、森林長官、狩猟長官など要職を歴任し、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。しかし政権内では対外穏健派だったため、対外強硬派のヒトラーと徐々に距離ができ、1930年代終わり頃から政治的影響力を低下させはじめた。第二次世界大戦中にドイツ空軍の劣勢が目立つようになると一層存在感を落とした。しかし戦後のニュルンベルク裁判では最も主要な被告人としてヒトラーとナチ党を弁護し、検察と徹底対決して注目を集めた。死刑判決後に服毒自殺した。軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 (Reichsmarschall) である。1893年、ドイツ帝国外交官の息子としてバイエルン・ローゼンハイムに生まれる("→生まれ")。1900年から母の愛人だった大地主の城に同居するようになり、豪勢な生活の中で育った("→上流階級の中での育ち")。1905年からカールスルーエの幼年士官学校に入学し、ついで1909年からに入学。1914年1月に陸軍少尉に任官し、ミュールハウゼン駐留の歩兵連隊に配属された("→幼年士官学校")。同年7月から8月に勃発した第一次世界大戦では 初め陸上部隊を指揮してミュールハウゼン防衛戦で戦ったが、まもなく病を罹患して戦線から離脱("→陸軍将校としての初戦")。回復後の同年10月から陸軍へ移籍し、偵察機の観測員となる("→航空隊移籍、観測員としての活躍")。ついで1915年9月から戦闘機パイロットとなる。撃墜スコアを伸ばし、1917年5月に指揮官に任じられる。1917年代からはエースパイロットの一人として広く認知されるようになり、1918年6月にはプール・ル・メリット勲章を受勲した("→エースパイロット")。1918年7月には「リヒトホーフェン大隊」指揮官に任じられた。ウーデットはじめエースぞろいの部隊をよくまとめ上げ、苦しい戦況の中で最後まで戦い抜いたが、同年11月に敗戦を迎えた("→リヒトホーフェン大隊指揮官")。戦後ミュンヘンへ帰り、右派の政治運動に名を連ねたが、1919年2月に共産党によるミュンヘン・レーテ共和国樹立があり、身の危険を感じてミュンヘンを脱出した("→ミュンヘン・レーテ共和国をめぐって")。その後デンマークやスウェーデンに活躍の場を移し、曲芸飛行士として人気を博した("→北欧で曲芸飛行士")。1921年夏にドイツへ帰国し、1922年から1923年にかけてミュンヘン大学に在学。1922年にナチ党党首ヒトラーの演説を初めて見、彼に魅了されて同党へ入党。一次大戦の英雄の経歴から重用され、入党後ただちに突撃隊最高指導者に任じられた("→ナチ党への入党")。1923年のミュンヘン一揆では突撃隊を率いて参加したが、一揆は失敗し、腰に銃弾を受けてオーストリアへ国外亡命した("→ミュンヘン一揆")。銃弾摘出の手術でモルヒネが使われ、以降モルヒネ依存症となる。ナチ党の再建運動にも参加できず、妻カリンの実家のあるスウェーデンで失意の日々を送った("→亡命生活")。1927年秋にドイツ国会で政治犯の恩赦が可決されたため帰国("→恩赦で帰国")。1928年の国会総選挙でナチ党候補者名簿の最上位に乗せられ、国会議員に当選。ナチ党議員団の長となる。社交界でナチ党と上流階級の橋渡し役を務め、大企業から企業献金を取りつけた。以降ナチ党は積極的な選挙活動を打てるようになり、議席を急速に伸ばし、1932年7月の総選挙では第一党となる("→国会議員")。1932年8月にはゲーリングが国会議長に選出された。パーペン内閣に協力しないとのヒトラーの方針に従って、国会議長としての政府への協力を拒否した。しかしやがてナチ党の政治資金が尽き、1932年11月の総選挙、12月のチューリンゲン州議会選挙はナチ党が敗北。弱気になるヒトラーを説得して非妥協路線に戻し、シュライヒャー内閣との妥協路線に転じていたグレゴール・シュトラッサーを失脚に追い込んだ。その後ヒンデンブルク大統領の説得に尽力するなどヒトラー首相任命の下地作りに貢献した("→国会議長")。1933年1月30日に成立したヒトラー内閣には無任所大臣として入閣("→ヒトラー内閣成立")。またプロイセン州内相(後プロイセン州首相)に就任し、警察署長をナチ党員にすげ替えたり、突撃隊や親衛隊を補助警察として採用したり、ディールスのもとにゲシュタポを創設するなどプロイセン警察のナチ化を進めた、2月28日の国会議事堂放火事件でオランダ人共産主義者が逮捕されると共産主義者全体の国際連帯によるテロ事件と断定して左翼を次々と検挙した。無法な取り扱いが多い突撃隊の私設収容所を憂慮し、これを一掃して州公認の強制収容所を設置し、政治犯はそこに収容することとした。突撃隊との対立が深まる中、プロイセン州以外の警察を支配下に収めていた親衛隊との連携を模索し、1934年4月には親衛隊にゲシュタポ指揮権を譲った("→プロイセン州統治")。1934年6月末から7月初旬の長いナイフの夜事件では親衛隊とともに粛清に主導的役割を果たした。彼は粛清対象をナチ党内や突撃隊に限定したがり、親衛隊によるナチ党外への粛清拡大には慎重だった。パーペン副首相など危ぶまれていた非ナチ党の高官たちを庇護した("→長いナイフの夜")。1933年5月より航空相、1935年3月より空軍総司令官となり、ヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツ空軍の再建に中心的役割を果たした。ウーデットが推す急降下爆撃や短距離中距離爆撃機を重視する航空機生産を行わせた。これは第二次世界大戦前半の対ポーランド戦や西方電撃戦で大きな成功につながった反面、バトル・オブ・ブリテンの敗退につながったと評価される。1936年からスペイン内戦にドイツ空軍を「コンドル軍団」として非公式参戦させ、新型機実験場として活用した("→空軍総司令官として")。1934年7月から森林長官、狩猟長官を兼任し、都市部のグリーンベルト設置を推進して自然保護に尽くし、また狩猟法制定で狩猟のルールを定めて動物保護に尽力した("→動物・自然保護への功績")。1936年8月には四カ年計画全権責任者、1937年11月には経済相となり、経済にも責任を負った。戦争に耐えうる経済の確立に努めた。また水晶の夜事件後には強制的アーリア化を推進し、ユダヤ人を経済活動から排斥した("→経済における活動")。外交面では対英穏健派であり、対英強硬派のリッベントロップを嫌った。1938年9月のミュンヘン会談の成功に尽力したが、対外強硬姿勢を強めるヒトラーから徐々に疑念を持たれるようになり、この頃から政治的影響力を落とした。1939年3月のチェコスロバキア解体では政策決定から外されていた。この件でイギリスの態度が硬化したことを憂慮し、8月にはスウェーデン人実業家を通じてイギリスと交渉にあたったが、実を結ばなかった("→外交における活動")。彼は国民人気が高く、政策決定力が落ちた後でもヒトラーから重視され、開戦に際して総統後継者に指名されている("→ヒトラーの後継者")。1939年9月の対ポーランド戦、1940年5月からの西方電撃戦でゲーリング率いる空軍は爆撃で陸軍の進撃を助け、電撃戦の一翼を担った。対仏勝利後の1940年7月に国家元帥に叙された("→ポーランド戦、→西方電撃戦")。つづくバトル・オブ・ブリテンでは航空施設爆撃の継続を主張したが、ヒトラーに押し切られてロンドン空襲に切り替えた。その結果損害が増して英国本土の制空権を握れる見込みは無くなった("→バトルオブブリテン")。ヒトラーが独ソ戦を検討していることを知ると二正面作戦への反対を具申したが、ヒトラーに押し切られて結局賛同した。1941年6月に開始されたバルバロッサ作戦でドイツ空軍は初戦こそ大戦果を挙げたが、やがて進撃は行き詰まった。1942年から1943年にかけては、スターリングラード攻防戦で無謀な空輸作戦を行って失敗し、その権威を大きく失墜させた("→独ソ戦")。1942年から英米軍によるドイツ各都市への空襲が激しくなり、1943年7月のハンブルク空襲を機に彼は爆撃機より防空のため戦闘機増強に力を入れるべきとの方針を宣言したが、守勢に転じることを嫌がるヒトラーに退けられた。また彼は夜間戦闘機に不熱心だった。結果ドイツの防空体制はお粗末な物となり、空襲被害はますます甚大となった。日々冷遇されていく彼は、空軍の指揮をミルヒに任せて美術品収集など趣味の世界に没頭していった。それでも空襲被災地の視察などでは市民からの人気は衰えていない様子だったという("→英米の空襲")。1945年4月23日、オーバーザルツベルクで「総統が自決の意思を固め、連合国との和平交渉はゲーリングに任せるつもりである」という情報を聞いた彼は、ヒトラーに自分に国家指揮権を移譲する意思はあるか問う電報を送った。官房長官ボルマンはこれを「ゲーリングの反逆」とヒトラーに讒言し、ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。さらにボルマンの独断で親衛隊部隊に逮捕命令が出されて一時監禁されたが、ヒトラー自殺後に親衛隊はゲーリングを解放した("→「反逆」、→解任と逮捕")。5月に自ら米軍の捕虜となり、四か月ほどルクセンブルク・で拘留された("→米軍の捕虜に")。1945年9月にニュルンベルクへ移送され、11月から開廷したニュルンベルク裁判の最主要被告人となった。法廷ではヒトラーとナチスを雄弁に擁護し、検察が追及する「侵略戦争の共同謀議」や「ユダヤ人絶滅政策」などの容疑を否認した。アメリカ首席検事ジャクソンらと激闘を繰り広げて人々の注目を集めたが、1946年9月の判決で絞首刑判決を受けた("→ニュルンベルク裁判")。死刑方法を銃殺刑に変更するよう嘆願するも拒否されたことを不服とし、死刑執行直前の1946年10月15日に独房内で服毒自殺した("→自殺")。ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングは、1893年1月13日にドイツ帝国領邦バイエルン王国南端のローゼンハイムにあるサナトリウムで生まれた。父はハインリヒ・エルンスト・ゲーリング。母はその再婚の妻フランツィスカ (Franziska)(旧姓ティーフェンブルンtiefenbrunn)。父ハインリヒは、ドイツ帝国の外交官であり、かつてドイツ植民地南西アフリカの帝国弁務官(植民地の行政長官)を務めたこともある。さらにその後、ハイチの総領事に任命され、ゲーリングが生まれた頃にも父ハインリヒはハイチに在任していた。母フランツィスカは出産のためにハイチの夫の下を離れてドイツに帰国し、掛かり付けの医師の経営するローゼンハイムのサナトリウムに入院して、そこでゲーリングを出産したのであった。ハインリヒとフランツィスカ夫妻には5人の子供があり、ゲーリングはそのうち第4子の次男であった。兄弟には兄カール・エルンスト(Karl Ernst)、姉二人、弟アルベルトがいる。さらに父ハインリヒは前妻との間にも5人の子供を儲けており、ゲーリングはハインリヒの計10人の子供の中では第9子にあたる。ヘルマン・リッター・フォン・エーペンシュタインが代父になり、自らの「ヘルマン」の名を与えた。またミドルネームの「ヴィルヘルム」は皇帝ヴィルヘルム2世にちなんで付けられた。エーペンシュタインはベルリン出身の裕福な大地主貴族の医者でプロイセン王室の侍医をしていたため、宮廷に影響力があった。エーペンシュタインの信仰はカトリックであったが、彼の父親はユダヤ人であったので半ユダヤ人にあたる。彼は軍医だった頃にハインリヒ・ゲーリングが帝国弁務官を務めていた南西アフリカに赴任し、ここでハインリヒと知り合い、以降深い親交を結んでいた。母フランツィスカはエーペンシュタインの掛かり付けの患者であり、また彼の愛人でもあった。二人が愛人関係を持ち始めたのはゲーリングの弟アルベルトが生まれる9カ月から1年前と見られており、そのためアルベルトは実際にはエーペンシュタインの子供ではないかと言われる。母フランツィスカはゲーリングを生んだ後、父ハインリヒのいるハイチへ戻り、ゲーリングはフュルトにある母の友人の家に預けられた。ここで三歳まで実の両親と離れて育てられた。1896年に両親がドイツへ帰国し、この後1900年までプロイセン首都ベルリン・で両親と一緒に暮らした。父ハインリヒは高位の外交官ではあったが、子だくさんもありそれほど裕福ではなく、ここでの生活は慎ましかった。ハインリヒはドイツ帝国高官にしては珍しく比較的自由主義的な人物で植民地現地民の有色人種たちを人間扱いするかのような発言を繰り返していたため、帝国内での立場を弱め、帰国後には社会主義者のレッテルを貼られるようになり、早めの退官を余儀なくされた。1900年からエーペンシュタインは彼の所有であるオーストリア・ザルツブルク郊外にある、ついでドイツ・ニュルンベルク北方にあるにゲーリング一家を招き、一家はこれらの城で暮らすようになった。エーペンシュタインは中世の貴族のような生活に憧れを抱いていたので、その城の中は大変に豪華な粉飾がなされ、従者たちは中世の宮廷風の服を着て働いていた。またその領民に対しては絶対的支配者として接していた。ゲーリングの後の華美な装飾への嗜好もこの時期にエーペンシュタインから影響を受けて培ったものと見られる。一方、父ハインリヒは退官後、アルコール浸りの毎日を過ごしており、幼少期のゲーリングの目には頼りない父親に映った。そのためこの頃のゲーリングはエーペンシュタインを実の父以上に尊敬していた。エーペンシュタインもゲーリング一家の子供たちを可愛がっていた。特にはじめは自分の息子と思われるアルベルトを可愛がっていたが、アルベルトは気が弱くて内向的であるなど気質はエーペンシュタインに似なかったため、まもなく社交的で大胆で冒険に憧れるゲーリングに一番関心を寄せるようになったという。エーペンシュタインとフランツィスカはしばしば夜を共にした。同居者であるハインリヒは不満を感じながらもそれを黙認していた。両親とエーペンシュタインの三人は奇妙な三角関係の生活をエーペンシュタインの城で送った。この状態はエーペンシュタインが1913年にリリーという若い娘と再婚してリリーの要求でゲーリング一家が城から退去してミュンヘンへ移住することになるまで続いた。ゲーリングは10歳の頃から登山に夢中になっていた。13歳の頃には険しい岩登りをして標高3600メートルのグロースグロックナー山の山頂の登頂に成功している。狩猟にもよく連れて行ってもらった。ゲーリングの狩猟好きもエーペンシュタインの影響だった。学業では1904年にフュルトの小学校 (Volksschule) を卒業し、その後アンスバッハの寄宿制のギムナジウムに入学した。しかしこの学校は規律が厳しく、入学当初からゲーリングの気性に合わなかったという。ゲーリングがこの学校から逃げだす決定的な要因となったのは「尊敬する人」というお題の作文だった。ゲーリングがエーペンシュタインのことを書いたところ、校長から呼び出しを受け、「エーペンシュタインはユダヤ人だ。アンスバッハ校の生徒がユダヤ人を尊敬することなど許されない」と注意された。ゲーリングはエーペンシュタインはカトリックと反論したものの、聞き入れられず、校長の命令で「ユダヤ人を賛美した作文は二度と書きません」と100回書かされたうえ、ユダヤ人名録をAからEまで書き写させられた。この処分は学友の間にも広まり、ゲーリングは学校中で嘲笑された。そして「私の代父はユダヤ人です」というプラカードを首にかけさせられて蛙跳びを強要されるイジメを受けたのが直接のきっかけで学校から抜け出してノイハウスのヴェルデンシュタイン城へ帰ってしまった(この際に学校の楽器の弦を全部切っていくという復讐をした)。この後、ゲーリングは騎兵将校だった父ハインリヒや代父エーペンシュタインの尽力で、1905年からバーデン大公国・カールスルーエの幼年士官学校 (kadettenanstalt) に入学した。父は息子の反抗的な性格は軍隊に馴染まないのではと不安をもっていたが、幼年士官学校はどんな荒々しい精神の少年でも慣らしてしまうことで知られており、ゲーリングも元気でやる気のある少年として歓迎された。1909年には教練、騎乗、歴史、英語、フランス語、音楽で優秀の成績を修めてこの幼年士官学校を卒業した。ついで1909年から1914年にかけてベルリン・にあった名門のに在学した。ここでも活発に活動し、同校のクラブの中でもっとも入会条件の厳しいクラブに選抜されたり、の競馬に参加したり、の水泳大会に参加したりした。学業もほとんど全ての学科でトップクラスの成績を収めている。女性からももてはやされた。1911年に「優」の成績で下級曹長級士官候補生(Fähnrich)試験に合格して、下級曹長級士官候補生に任官する。また1913年にはアビトゥーアにも合格している。名門士官学校の優秀な士官候補生であったゲーリングは、ベルリン社交界にデビューでき、上流階級との交際も経験した。1913年12月には父ハインリヒがミュンヘンで死去した。若い頃には父をそれほど尊敬していなかったゲーリングだったが、ミュンヘンのヴェストフリートホーフ墓地での父の葬儀には涙を流した。1914年1月に陸軍少尉に任官し、帝国直轄州エルザス=ロートリンゲンのミュールハウゼンに駐留していた第112歩兵連隊「プリンツ・ヴィルヘルム (Prinz Wilhelm)」(バーデン大公国歩兵連隊)に入隊した。1914年7月末から8月初めにかけて第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1914年8月3日に開戦した。ゲーリングの所属する第112歩兵連隊はフランス国境地域エルザス=ロートリンゲンに駐留していたため、対仏開戦後、すぐに戦場に動員された。ゲーリングの率いる部隊はミュルーズ(ドイツ語名:ミュールハウゼン)の攻防戦の中でフランス軍の前哨拠点の一つを攻撃して4人のフランス兵を捕虜にする戦功をたてた。この功績で二級鉄十字章を受章している。しかしまもなくリューマチ熱を罹患したため、フライブルク・イム・ブライスガウの病院へ送られた。フライブルクの病院で入院中に第112歩兵連隊の友人でに移籍していたブルーノ・レールツァーのお見舞いを受けた。彼はフライブルクで飛行訓練を受けていた。彼の話を聞いているうちに航空隊への憧れを抱き、航空隊移籍の志願書を提出したが、初め許可が下りなかった。しかしゲーリングは命令に違反して原隊に戻らず、レールツァーのアルバトロス飛行機の観測員として独断で訓練を受け始めた。軍法会議が命令不服従の容疑でゲーリングの捜査を行い、出頭拒否で兵舎拘禁21日の判決を下した。しかし宮廷に影響力がある代父ヘルマン・フォン・エーペンシュタインに手を回してもらって、第5軍司令官皇太子ヴィルヘルムの命令により判決の執行はされず、さらにゲーリングの航空隊への配属が認められた。1914年10月末から1915年6月末にかけてゲーリングは第5軍隷下の第25野戦飛行隊 (Feldflieger Abteilung 25 (FFA25)) 所属のレールツァーの操縦する偵察機の観測員を務めた。1915年春ごろからレールツァーとゲーリングの航空機は戦場に出撃して偵察活動を行った。目標地点に着くとゲーリングはレールツァーに高度を下げるよう合図して機体の外に乗り出し、足の先だけでコクピットの中から自分の体を支えてカメラを構えた。そして地上から激しい銃撃を受ける中で数分かけて目標物の撮影を行った。登山の経験があるゲーリングはこれをうまくこなし、鮮度のいい写真を撮る優秀な観測員となった。やがて「空飛ぶブランコ乗り」と渾名された。他の多くの飛行機が失敗したヴェルダン要塞の砲火をくぐりぬけての詳細な写真撮影にレールツァーとゲーリングの機体は成功した。この功績で1915年3月にレールツァーとともに第五軍司令官の皇太子ヴィルヘルムから一級鉄十字章を授与されている。レールツァーとゲーリングは写真説明のために高級将校たちの作戦会議にもしばしば呼ばれるようになっていた。しかしゲーリングは、観測員だけでは満足していなかった。1915年7月から9月にかけてフライブルクでパイロットとしての研修を受け、1915年9月からいよいよ第25野戦飛行隊所属の戦闘機パイロットになる。1915年10月3日に双発戦闘機のパイロットとして初出撃した。1915年11月にはイギリス空軍のハンドレページ大型爆撃機と遭遇し、攻撃を仕掛けたが、ソッピース戦闘機からの攻撃に被弾して負傷した。壊れた機体を何とか操縦して命からがらドイツ領まで戻ったが、傷の治療のため、1年ほど戦線から離れることとなった。1916年11月に戦線に復帰。第7飛行中隊 (Jagdstaffel 7)、第5飛行中隊 (Jagdstaffel 5)、第10飛行補充隊 (Flieger Ersatz Abteilung 10)、第26飛行中隊 (Jagdstaffel 26) などに属して戦った。着実と撃墜スコアを増やし、1917年5月には第27飛行中隊長 (Jagdstaffel 27) に抜擢された。1917年から運用されたばかりの単座戦闘機アルバトロス D.Vに搭乗して、飛行中隊を率いて出撃した。第一次世界大戦後期に入り、空戦はいよいよ激烈になってきた。ゲーリングの飛行中隊とレールツァーの飛行中隊はしばしば作戦を共にし、フランダース上空での格闘戦ではフランス軍機に狙われたゲーリングの危機をレールツァーが救い、その後、逆にイギリス軍機に狙われたレールツァーの危機をゲーリングが救うといった場面が見られた。技量・戦意ともに認められて、ドイツ軍パイロットの最優秀人物の一人に数えられるようになり、「鉄人ヘルマン」の異名を取るようになった。個性が没却しやすい陸軍陸上部隊や海軍と比べて、航空隊のエースパイロット達はとにかく目立っていたので全ドイツ軍のスターであった。彼らのブロマイドがドイツ中に出回っていたが、1917年代からはゲーリングのブロマイドも出回るようになっていた。1917年10月にはプロイセン王国のホーエンツォレルン王家勲章剣付騎士十字章とバーデン大公国の騎士十字章を受章した。さらに1918年6月2日には18機撃墜の功により皇帝ヴィルヘルム2世から一般軍人の事実上の最高武勲章であるプール・ル・メリット勲章戦功章を授与されている。プール・ル・メリット勲章戦功章のパイロットの受章は一般に敵機25機撃墜が必要とされていたが、ゲーリングは特別に優秀なパイロットとみなされていたため、特例で早くに受章する事が認められたものだった。1918年7月7日には「リヒトホーフェン大隊」の名前で名高いの指揮官に任じられた。この大隊の初代指揮官マンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵は80機を落として連合国から恐れられていた伝説的人物であった。リヒトホーフェンが1918年4月21日に英軍機を低空で追撃中にオーストラリア第53砲兵中隊の軽機銃に撃墜されて戦死 し、その後任となったも7月3日にアドラーショフでの第二回戦闘競技会(新型飛行機の公開コンペ)でドルニエD-1型三葉機の空中分解で墜落死した。その次の指揮官として白羽の矢が立ったのがエースパイロットとして名声をあげていたゲーリングであった。しかしゲーリングはそれまでこの大隊に属していなかったうえ、この大隊にはゲーリング以上の撃墜スコアを持つエルンスト・ウーデットやなどのエースがいたため、これは意外な人選だった。ウーデットもこの人事を聞いた時、「なんてことだ。余所者が指揮官になるのか」と驚愕したという。ゲーリングが隊長に選ばれたのは、彼がパイロットたちの中でも先任の中尉であったこと、また組織統制能力に優れた指揮官と軍部が評価していたためといわれる。リヒトーホーフェン大隊は、ウーデット、レーヴェンハルト、ロタール・フォン・リヒトホーフェン(マンフレートの弟)ら有名なエースぞろいであったため、初めゲーリングを隊長と認めようとしない者も多かったが、ゲーリングは隊長として優れた指導力を発揮し、自分の撃墜スコアを伸ばそうと独自行動を取りやすいリヒトーホーフェン大隊の各パイロットを抑えてチームプレイを成功させた。とりわけゲーリングがイギリス軍編隊に突っ込み、四散させたところをウーデット、レーヴェンハルト、リヒトーホーフェンらに撃ち落とさせる戦法はプライドの高い部下たちの人心を掌握する上で役に立った。彼らは目標を発見するたびにそれを与えてくれたのが指揮官だと認識するようになったからである(その代わりゲーリング自身の撃墜スコアは伸び悩み、最終的に22機止まりだった)。1918年8月初め頃にはすっかり大隊の隊員達の信頼を勝ち得、初代隊長マンフレート・フォン・リヒトーホーフェン以上に人望のある隊長になっていたという。しかしながらドイツの戦況は悪化していた。大隊は休む暇もなく、あちこちの戦線の空で空中戦を展開したが、当然消耗も激しくなり、ついには中隊レベルにまで戦力が落ちたのでロベルト・リッター・フォン・グライムを隊長とする一個戦闘飛行団の補強を受けた。さらに作戦行動でもレールツァーを隊長とする第三戦隊と連携することが多くなった。一方連合軍はますます強力になりつつあった。ゲーリングは1918年9月1日に司令部への報告書の中で「敵複葉機は武装堅固にして、その多数機をもってする編隊行動は極めて緊密なり。我が単座戦闘機の数機同時攻撃をもってしても如何ともしがたい。編隊を突き崩すことは不可能なり。敵機は概ね防弾または防火を施した燃料タンクを装備している。第7軍及び第2軍正面において敵気球を攻撃する経験によれば、うち数件は全然発火せざるを確認」とその苦戦を訴えている。同月、ゲーリングの副官カール・ボーデンシャッツは日誌に「このような緊張は、ゲーリング中尉の顔にも表れるようになった。彼は痩せて厳しい顔つきになった。我々も全員が、厳しい表情になっている。」と書いている。連合軍の優位は数字上でも露わになり始めた。10月30日の戦闘では大隊は67機の犠牲を払いながら、41機の敵機しか撃墜できなかった。ゲーリングは大隊を率いて最後まで戦い抜いたが、11月初めにキールの水兵の反乱をきっかけに全ドイツに反乱が広がり(ドイツ革命)、皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダへ亡命、11月11日にはドイツ社会民主党の共和国政府がパリのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定の調印を行った。休戦協定の後、リヒトーホーフェン大隊は飛行機をストラスブールのフランス軍に引き渡すよう命令を受けたが、ゲーリングは隊員たちとも相談の上、この命令を無視して大隊をドイツのダルムシュタットへと飛ばせた。しかし悪天候だったため、大隊の隊員の一部はマンハイムに緊急着陸した。革命を起こしてマンハイムを実効支配していたマンハイム労兵委員会はこの隊員たちから武器を奪った。隊員たちはダルムシュタットにトラックで向かい、ゲーリングにこのことを報告した。激怒したゲーリングは大隊の機体を率いてマンハイムへ出撃し、マンハイムの労兵委員会に武器を返還させ、謝罪文を書かせている。この後、ダルムシュタットに着陸する際にゲーリングたちはわざと着陸を失敗させて大隊の機体を次々と壊した。彼らにできる連合軍への最後の抵抗だった。リヒトーホーフェン大隊の解散を悼む席でゲーリングは「今日のドイツにおいてのみ、その名は泥にまみれ、その記録は忘れ去られ、将校は嘲笑されている。しかし自由と正義、そして道徳の力が究極的には勝利をおさめるだろう。我々は我々を隷属させようとする勢力と闘い、最後には勝利をおさめるだろう。リヒトーホーフェン大隊を輝かしき物とした資質は、戦時中においても平和時においてもその力を発揮するだろう。我々の時代はまたやってくる。諸君、私は乾杯したい。祖国に対し、リヒトーホーフェン大隊に対して。」と挨拶し、グラスを一気に飲み干してグラスを床にたたきつけた。隊員たちもゲーリングに倣った。ゲーリングも隊員たちも涙を流していたという。リヒトホーフェン大隊で戦った戦友たちをゲーリングは生涯忘れることはなかった。1943年にルーターというリヒトホーフェン大隊で一緒に戦ったユダヤ人が逮捕されるとゲーリングはゲシュタポに圧力をかけて彼の釈放に尽力し、その後個人的保護下に置いている。またこの大隊の隊員だったウーデットやボーデンシャッツなどは後にドイツ空軍の幹部に取り立てられている。1918年12月に母のいるミュンヘンへ戻った。同じく家族がミュンヘンにいるウーデットが同行した。しかし母の生活はかなり貧しくなっていた。代父エーペンシュタインはオーストリアに移住していて連絡はつかなかった。当面の生活費に困ったゲーリングとウーデットだったが、ミュンヘンに派遣されていたイギリス空軍将校フランク・ボーモント大尉と再会し、彼から資金援助を受けた。彼は一次大戦中にイギリス空軍のパイロットだったが、ドイツ軍に撃墜されて捕虜となり、その時にゲーリングがしばらく保護したことがあった。革命以来、ミュンヘンはクルト・アイスナーを中心とした多数・独立の両派社民党の社会主義政権に支配されていた。ゲーリングは反アイスナーの政治協会にいくつか参加している。アイスナーが右翼青年将校に暗殺された後、共産党が革命を起こして「バイエルン・レーテ共和国」が樹立された。共産党はさっそく保守・右翼の逮捕・処刑を開始した。ゲーリングは自分も赤色委員会の処刑者リストに載ったと考え、ボーモント大尉の助けを借りてミュンヘンを脱出し、ベルリン中央政府(フリードリヒ・エーベルトの社民党政権)の命を受けてミュンヘンに攻めのぼらんと進軍中のドイツ義勇軍の一部隊の保護を受けた。義勇軍はこの後ミュンヘンへ攻め込み、レーテ共和国を打倒し、ミュンヘン市内で共産党員虐殺を行った。ゲーリングは右翼と左翼の殺し合いばかりになったドイツの未来にすっかり絶望した。この後、航空会社フォッカーからフォッカー F.VIIのデンマーク・コペンハーゲンの展示会での飛行依頼が来た。ゲーリングはこれを引き受け、デンマークに活動の場を移すことにした。彼の曲芸飛行は観客から大好評となり、フォッカーはその後もゲーリングに飛行機を貸した。その後、スウェーデンでも曲芸飛行を行うようになり、一次大戦のヒーローの経歴もあってデンマークやスウェーデンで大変な人気者になった。リヒトーホーフェン大隊の仲間たちもしばしば呼んで一緒に曲芸飛行した。客を乗せての遊覧飛行やエアー・タクシーの業務も行い、希望は常時殺到していた。ゲーリングのもとにはたちまちに大金が転がり込んだ。ボーデンシャッツはこの頃のゲーリングを「まるでボクシングのチャンピオンのように暮らしていた。彼は必要以上に金を持っており、望みのままに女たちを手に入れた。」「一晩中をシャンパンの風呂の中で過ごしたと手紙に書いていた。」と回想している。1920年2月20日にエアータクシー業務で伯爵を彼の居城へ送り届けた際、伯爵の義妹にあたるカリン・フォン・カンツォフ(旧姓フォン・フォック(von Fock))と出会い、二人はすぐに恋に落ちた。カリンにはすでに夫と子供があったが、ゲーリングと夫婦になる決意を固めて離婚し、二人はドイツに帰国した後の1923年2月3日にミュンヘンで挙式した。曲芸飛行は一時的に彼に大金をもたらしたものの、一定の季節しかできないし、命の危険が大きいので長く安定して出来る仕事ではなかった。より安全で恒久的な稼ぎが必要と判断したゲーリングは、スウェーデンのスヴェンスク・ルフトトラフィーク社に飛行士として入社したい希望届を出し、欠員が出来たら採用する待機者リストに載せられた。しかしやがて新聞報道を通じて祖国ドイツへの関心を取り戻し、ドイツにいる母の尽力でミュンヘン大学への入学が許可されたこともあって、ドイツに帰国する決意を固めた。1921年夏にドイツへ帰国し、1922年から1923年にかけてミュンヘン大学に在学し、経済学と歴史学を学んだ。国家主義者の教授の授業を受け、ナショナリズムに傾倒していった。1922年11月のミュンヘン・の政治集会で初めてアドルフ・ヒトラーの姿を見た。演説後にはヒトラーと個別に会見する機会も得た。ヴェルサイユ条約の打破や「ドイツが敗戦国にされたのは、戦いに負けたからではなく、ユダヤ人と共産主義者の裏切りのせい」という背後の一突き説を熱く語るヒトラーに魅了された。ゲーリングはこの2年後の回顧で「彼の姿を見、声を聞いた最初の瞬間から私は彼にぞっこんまいってしまった」と語っている。ヒトラーの方もプール・ル・メリット勲章を受章したこの空の英雄に利用価値を見た。当時ヒトラーの周りに上流階級の出自を持った男はエルンスト・ハンフシュテングルしかいなかったのでゲーリングは貴重な人材だったという。翌12月に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党(この際の党員番号は不詳。1928年に党員番号23が与えられている)。入党間もないにもかかわらず、1923年3月には突撃隊 (SA) の最高指導者に任じられている。ゲーリングはこの際にヒトラーに対して「良い時も悪い時も、私は貴方に運命を委ねよう。それが例え私の命を賭けることになっても」と誓いを立てた。ゲーリングは短期間で突撃隊に訓練を積ませて統制のとれた軍隊に仕立て上げた。規律正しくなった突撃隊の行進は多くの通行人から拍手を送られるようになったという。ヒトラーも「私は、ゲーリングに規律のないヤジ馬連中を与えたところ、彼はそれをあっという間に1万1000人の師団にまで仕立てあげてしまったのだ。」と後に語っている。しかしゲーリングが魅了されていたのはあくまでヒトラー個人であったため、ナチ党の活動や綱領にほとんど関心を払わず、ルドルフ・ヘスやアルフレート・ローゼンベルクなどヒトラー以外の党の同志を見下していたという。1923年8月末に母フランツィスカがミュンヘンで死去した。父ハインリヒと同じくミュンヘンのヴェストフリートホーフ墓地に葬られた。1923年9月26日にグスタフ・フォン・カールがバイエルン州総督となった。彼はナチ党はじめバイエルンの各右翼勢力と連携してバイエルン独立とベルリン進軍を狙っていたが、中央政府の圧力でやがてベルリン進軍を抑制するようになり、特にベルリン進軍を強硬に主張したナチ党との連携を排除するようになった。不満に思ったヒトラーはミュンヘン一揆を計画し、カール達の身柄を抑えて自分に協力させ、ベルリン進軍を行わせることを企図した。1923年11月8日夜、ヒトラーはゲーリング以下突撃隊を率いてカールが演説をしていた「ビュルガーブロイケラー」へ突入し、ピストルを撃って威嚇してその場を制圧するとカール達の身柄を抑えた。ヒトラーがカールの協力をとりつけるため奥の控室で説得にあたっている間、ゲーリングは聴衆が心配した様子であるのを見て「心配するな。我々は友達だ。ビールでも飲もう。」と声をかけたという。11月9日朝、ヒトラーとエーリヒ・ルーデンドルフ将軍に率いられてゲーリング以下突撃隊は、ミュンヘンの中心部オデオン広場へ行進を開始した。先頭を進むのはヒトラー、ルーデンドルフ、そして突撃隊司令官ゲーリングであった。しかしオデオン広場のフェルトヘルンハレまで数メートルというところで警官隊から銃撃を受けた。この時にゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れた。突撃隊員は彼を抱えてその場を離れると、近くの民家に飛び込んだ。その家にはイルゼ・バーリンというユダヤ人家具商の夫人が暮らしていたが、彼女は日没までゲーリングを匿ってくれたうえ、元看護婦だったので応急処置をしてくれたゲーリングはこのときのイルゼ・バーリンの献身を忘れなかった。ナチ党の政権掌握後、ユダヤ人の彼女を庇護し、アルゼンチン亡命の手助けをしている。ユダヤ人の国外亡命は財産没収を伴うのが通常だったが、ゲーリングの庇護を受ける彼女は財産を奪われなかった。その後、ナチ党シンパの医師がいる病院へ担ぎ込まれ、知らせを受けたカリン夫人がこの病院に駆け付けた。警察の追跡を振り切るため、カリンの友達がいるガルミッシュ=パルテンキルヒェンへ移り、さらにその後、オーストリアのインスブルックへ国外逃亡した。ゲーリングはインスブルックの病院で治療を受けることとなった。オーストリアのナチ党支持者から讃えられて、応援の電報や見舞金がたくさん届いた。ゲーリングのための募金活動もはじめられた。しかし傷は深刻だった。銃弾は深くまで食い込んでおり、右腰と右足の手術が必要だった。このとき麻酔のためにモルヒネが使用された。傷が治癒した後も長く依存症に苦しみ、モルヒネ中毒者になった。ドイツ国内ではヒトラーやルーデンドルフなど一揆指導者が逮捕されて裁判にかけられ、ヒトラーはランツベルク刑務所に投獄された。ゲーリングもバイエルン州警察から手配書を出されており、ドイツへの帰国ができなかった。ドイツ国内の財産もすでに警察に差し押さえられていた。しかも早期に釈放されたエルンスト・レームが突撃隊の偽装組織を作って再建を開始し、突撃隊の指揮権は彼に移っていった。1924年4月、妻カリンがランツベルク刑務所に服役するヒトラーと面会し、彼女を通じてヒトラーからイタリアへ行くよう命じられた。ベニト・ムッソリーニに頼んでイタリア政府がナチ党に資金援助を行うよう仕向ける任務だった。ゲーリングはヒトラーへの影響力を喪失させぬため、無理をしてでもカリンとともにイタリアを訪問したが、成果は何も得られなかった。落胆したゲーリングは、カリンの実家フォック家を頼ってスウェーデンに戻った。負傷した傷の痛みから逃れるためにモルヒネを打ち続け、禁断症状に苦しんだ。一度は自殺未遂も起こした。またこの時期に急速に肥満し、美男だった容姿を劣化させた。モルヒネか傷が原因でホルモンバランスを崩したのが肥満の原因と言われる。薬物中毒から抜けるためにカリンの父に治療費を出してもらって精神病院に入り、一時的にモルヒネを断ったこともあったが、1925年10月の退院後にはまたモルヒネ依存に戻ってしまった。ヒトラーは1924年12月20日に仮釈放され、1925年1月からナチ党再建に乗り出していた。しかしドイツに戻ることができないゲーリングはそれに参加することはできず、モルヒネ漬けの亡命生活を続けねばならなかった。ゲーリングの失望の時期であった。1927年秋にドイツ国会で全ての政治犯・政治的亡命者の釈放・恩赦を求める請願が提出された。右翼勢力が同志の救済のために提出した動議だったが、同じく大量の政治犯・政治的亡命者を抱えていた共産党がこれに賛成したため、ヴィルヘルム・マルクス政府の意思に反して同法案は可決成立した。これによりゲーリングも帰国できた。ナチ党での政治活動を再開しようとしたが、すぐには受け入れてもらえなかった。ゲーリングの立場は1922年の入党時とは異なっていた。あの頃はまだナチ党が小政党だったため、一次大戦の英雄という経歴だけで重用されたが、この1927年にはすでにナチ党はある程度の規模の政党に成長しており、ゲーリング以外にも立派な経歴・軍歴の人々が参加しはじめていた。ヒトラー自身も裁判と刑務所への投獄により政治的殉教者として称賛される存在になっていた。今やゲーリングにかつてほどの希少価値はなくなっていた。そのため4年ぶりに再会したヒトラーはそっけなく、次のように言いわたした。「党との連絡を絶やさないようにしたまえ。定職を見つけて自分の生活を安定させたまえ。それから何とか考えることにしよう」。この後しばらく職を探して悶々とする生活を送った。一時的にBMW(当時は航空機関連の企業だった)のベルリン支社で販売代理人にしてもらったりしたものの、一生の仕事にできそうな仕事は見つけられずにいた。ところが1928年春になるとヒトラーに心境の変化があり、ゲーリングを再び側近として使うことを考えるようになった。ヒトラーがベルリンを訪問した際にゲーリングはサンスーシ・ホテル(Hotel Sanssouci)でヒトラーと会見する機会を与えられた。この会談でヒトラーはゲーリングを1928年5月20日の国会議員選挙で党の候補者にすることを決定したという。ヴァイマル共和政下のドイツの選挙制度は比例代表制であり、ゲーリングは党の候補者名簿の最上位に載せられた。この選挙戦でナチ党は敵を激しく攻撃する戦術をとり、ゲーリングも連合国(特に対独強硬派のフランス)、ポーランド、ユダヤ人、共産主義者、資本家などを激しく批判し、インフレ・失業・飢餓の恐怖を煽る演説を盛んに行った。ゲーリングの演説は短く荒っぽいところはあったものの、うまい方だったという。選挙そのものは左翼の圧勝に終わり、ナチ党は12議席しか取れなかったが、ゲーリングは当選を果たしている。国会議員になったゲーリングは、上流階級出身者であること、一次大戦のエースパイロットであること、プール・ル・メリット勲章の受章者であること、ユーモラスな話術、洗練されたマナー、美人で気品ある妻カリンなど持てるすべてを利用して社交界で活発に運動した。下層階級出身者の多いナチ党幹部には近づき難かった上流社会・財界人と接触し、人脈の構築に尽力した。ナチ党の最大のパトロンだったルール地方の鋼鉄王フリッツ・ティッセンもゲーリングが捕まえたパトロンである。フリッツ・ティッセンはゲーリングとの出会いについて次のように語っている。「ある日、私の石炭採掘会社の取締役の一人、テンゲルマンの息子が私のところへやってきた。彼は言った。『ベルリンにはゲーリング氏という人がいます。彼はドイツ国民のためになることをしようとしていますが、ドイツの工業家側からは少しも支持を受けていないのです。彼と知り合いになる気持ちはありませんか?』そこで私は彼と会ってみることにした。当時彼はごく小さいアパートで暮らしており、体面を保つためにそれを拡張したがっていた。私はその改造費用を支払ってあげた。その頃のゲーリングは極めて気持ちのいい人間のように思えた。政治に関することでは彼は常に思慮分別のある態度だった。私はまた彼の夫人カリンとも知り合ったが、彼女の生まれはスウェーデン貴族だった。彼女はきわめて魅力に富んだ女性で、彼女が死ぬ前にその生活を暗いものとした精神錯乱の兆候は何一つ見えなかった。ゲーリングは彼女を崇拝せんばかりで、まるで彼が若者であるかのように、彼を導いていける唯一の女性だった。」。ティッセン以外にもクルップやメッサーシュミット、ドイツ銀行、BMW、ルフトハンザ、ハインケルのような大企業が党に献金するようになり、それまで空っぽだった党の金庫は献金でいっぱいになった。特にハインケルやBMWは、ゲーリングを会社の「コンサルタント」にしており、給料も支払っていた。またルフトハンザもゲーリングに事務所と秘書を提供している。後にゲーリングが空軍で重用するエアハルト・ミルヒはこの頃ルフトハンザの重役でこの時期のゲーリングの社交界での活躍で知り合っている。さらに製鉄業界からもベルリンのバデンシェシュトラーセに豪華なアパートをもらっている。王侯・貴族層とも親交を深め、特にヴィクトル・ツー・ヴィート公爵夫妻やアウグスト・ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム2世の息子)とは親密な関係を持った。ヒンデンブルク大統領とヒトラーの初会談をお膳立てしたのもゲーリングだった。一次大戦でドイツ軍参謀総長だったヒンデンブルクは「ボヘミア人伍長」ヒトラーのことは軽蔑していたが、大戦の英雄だったゲーリングには好意を寄せており、彼とよく会合を持っていたのだった。しかしナチス左派の党幹部オットー・シュトラッサーは、ゲーリングの大企業・王侯貴族との蜜月を国家社会主義の理念とかけ離れていると批判した。これに激怒したゲーリングはヒトラーに「オットー・シュトラッサーが左翼偏向演説を行って工場のサボタージュを煽るせいで、せっかく支持表明してくれた大企業や王侯貴族が尻込みしてしまう」と苦情を申し立てた。党の宣伝全国指導者ゲッベルスも「オットー・シュトラッサーの赤化報道は自分の宣伝方針を無視している」という見解を示した。二人の訴えを受けてヒトラーはオットーと対決する決意をし、1930年5月に彼と激論したものの説得に失敗。結局オットーは党から除名されることになった。総選挙直前の1930年8月12日、国会議員候補者名簿に突撃隊員をもっと加えるよう要求して拒否されたことを不満に思っていた突撃隊最高指導者フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが辞職した。ヒトラー自らが突撃隊最高指導者に就任したが、誰かを突撃隊幕僚長に任じて突撃隊の日常的実務を委ねる必要があった。かつて突撃隊最高指導者だったゲーリングはこの地位を狙って策動したものの、ヒトラーはこれを認めず、ボリビアの軍事顧問をしていたレームを呼び戻して彼を突撃隊幕僚長に任じている。ゲーリングがかき集めた企業献金のおかげで選挙資金が豊富になっていたナチ党は、強力な選挙運動を展開できた。特にヤング案反対闘争に力を入れて、国民の共感を勝ち得た。その結果、1930年9月14日の総選挙でナチ党は107議席を獲得し、143議席の社民党に次ぐ第二党の地位を確立した。ゲーリングはこの107人のナチ党議員団のトップとなった。このナチ党の躍進を予想していたのは党内でもゲーリング一人であったという。1931年10月17日、カリン夫人を亡くす。同年11月10日にヒトラーはゲーリングを連れてヒンデンブルク大統領と会見したが、会談は不調だった。ヒトラーは姪ゲリ・ラウバルの自殺、ゲーリングはカリン夫人の死があって気分が塞ぎこんでいた。後にゲーリングが語ったところによれば、ヒトラーはこの会談で自分が大政党の党首として丁重に迎え入れられるだろうと思っていたところ、ヒンデンブルクの態度が酷くよそよそしいのでヒトラーが長々しい非難攻撃をはじめてしまい、それでヒンデンブルクの印象を悪くしたという。一方レームは国軍の実力者クルト・フォン・シュライヒャー中将と交渉し、突撃隊が武装蜂起するなら国軍はそれに協力するという約束を取り付けていた。しかしヒトラーとゲーリングは流血を無意味と判断して突撃隊蜂起案を拒否した。ゲーリングの働きで今や大工業家はこぞってナチ党支持を表明しており、選挙戦になれば活発な選挙運動を打てるナチ党が有利なのは明らかだった。事実、1932年夏の選挙戦でゲーリングの演説にはいつも4万人以上の聴衆が集まり、ヒトラーの演説にはそれ以上の数の人が集まっていた。1932年7月31日の総選挙でナチ党は230議席を掌握し、社民党を抜いて第一党となった。ナチ党は総得票の38%を獲得しており、この数字は社民党(第2党)と共産党(第3党)を合わせた得票率より高かった。いまやルール地方の大企業家も労働者も、地主も農業労働者も、プチブルも、軍の将校も兵士もこぞってナチ党を支持していた。この選挙後、ヒンデンブルクの首相フランツ・フォン・パーペンはヒトラーに副首相、ゲーリングにプロイセン内相のポストをそれぞれ提示した。首班としての組閣は確実と思っていたヒトラーとゲーリングはこれを聞いてあっけに取られた。ゲーリングは「ヒトラーが副首相だって?今まで一度だって『副』の字が付いたことのないあの人が?」と述べたという。ヒトラーは、突撃隊が蜂起命令を待っていることをパーペンに思い出させるとともに首相以外のポストは一切受けないことを言明した。8月13日にはヒンデンブルク自らがヒトラーを引見し、副首相職を受けるよう説諭したが、ヒトラーは首相ポストにこだわり、会談は決裂した。大統領との会談を終えた日の夜、ヒトラーはゲーリング、ゲッベルス、レームら党幹部を召集し、党のとるべき対応を話しあった。レームはヒトラーに突撃隊武装蜂起を提案したが、ゲーリングとゲッベルスはそれに反対した。ゲーリングは「今はいったん失望の念を抑えて性急な行動は慎むべきである」とヒトラーを説得した。レームはしぶしぶ突撃隊に待機解除の命令を下すことになった。そしてヒトラーは来る新国会でパーペン政府に野党として徹底的に挑むことを宣言した。本国会召集前の1932年8月30日に国会議長選挙が行われた。第一党のナチ党議員団の他、中央党議員団(パーペン内閣に強く反対していた)の支持も得てゲーリングが国会議長に選出された。右翼政党も中道政党も左翼政党もすべてパーペン政権を拒否しており、このまま国会が開かれては政権運営できないと考えたパーペンは左翼を叩き潰して右翼の共感を得ることを目指し、プロイセン警察に共産党ベルリン本部を強襲させた。そして反逆計画書が見つかったとして赤色戦線戦士同盟を禁止する法令の起草を開始した。しかし法令の発令には国会議長(ゲーリング)の署名が必要だった。ゲーリングは共産党議員団のトップであるを議長室に呼び出し、テーブルに置いた法令を身振りで示しながら「私はここに君の戦力を一掃できる手段を持っている。これは赤色戦線戦士同盟の解散命令書だ」と告げた。トルグラーは忌々しげに「フォン・パーペンめ。マムシのように油断のならない奴だ。だがそいつを発令したら次は君たちの突撃隊がやられる番だろう?」と述べた。それに対してゲーリングは「分かっている。だから私はこいつに署名しないつもりなのだ」と答えたという。ヒトラーとゲーリングはともにパーペンを信じていなかった。パーペンの狙いはナチスとの連携ではなくクーデタによる自分の独裁政権樹立であることをゲーリングは見抜いていた。一方でゲーリングはヒトラーが抱いていたヒンデンブルクに対する敵意は持たなかった。ゲーリングは一次大戦の時からヒンデンブルクと知り合いで彼を尊敬していた。またどうにせよヒトラーが首相になるためにはヒンデンブルクの任命が必要だった。そのためゲーリングは国会議長として定期的にヒンデンブルクの別荘がある東プロイセン・を訪問し、ヒンデンブルクのヒトラーへの反感を和らげることに尽力した。ゲーリングはヒンデンブルクと自分の関係について次のように語っている。「不信任投票の成立によって内閣が倒された場合、各政党との協議の末、新しい連立政権の可能性についての私の意見をドイツ国大統領に進言するわけである。このため大統領は常にこれらの件に関し、議長権限を持つこの私を迎えなくてはならないわけである。このため私は大統領との間にかなり密接な関係を持つことができるようになった。しかしここで強調しておきたいのは、この関係はすでに前からあったという点である。もしも私が要求すれば、フォン・ヒンデンブルク元帥は常に私を迎えてくれたことはもちろんである。なぜなら彼は一次大戦中に私を知っていたからだ」。9月9日に本国会が召集され、9月12日から開会された。共産党のトルグラーが早速パーペン内閣不信任案を提出した。ナチ党、社民党、中央党などほとんどの政党がこれに賛成した。この採決が行われている間、パーペンは大統領府に解散命令書を取り行かせ、間に合うように国会議長ゲーリングにそれを提出した。ところがゲーリングはこれに気づかないふりをして不信任案採決を優先させ、不信任案は賛成513、反対32という大差で可決された。その後になってゲーリングは解散命令書を確認したが、「たった今不信任案可決により解任された首相の署名のある解散命令書は無効である」と宣言した。議場はパーペンへの嘲笑に包まれた。ただし、この理論は憲法上無理があったので国会は通常通り解散された。召集されたばかりの国会が直ちに解散され、再び選挙戦に突入した。しかし今度の選挙はナチ党も苦戦を強いられた。1932年には大統領選挙、各州の地方選挙、国会選挙が立てつづけにあり、ナチ党の選挙資金はすでに枯渇していたのである。加えて8月13日の入閣交渉の失敗が支持者から失望されていたし、またゲッベルスが独断で共産党と共闘してストライキを行ったことも資本家の支持者を動揺させていた。こうしたことに不満を抱いた者は他の右翼政党国家人民党や人民党に支持を移したのである。そのため11月6日の選挙ではナチ党は7月の総選挙より200万票も得票を減らして196議席に後退した。第一党の地位はなんとか維持したので、ゲーリングは再び国会議長に選出された。パーペンは12月1日に大統領に提案したクーデタによる憲法改正計画への協力を国防相シュライヒャー中将に拒否されたことで失脚し、代わって12月2日にシュライヒャー内閣が成立。シュライヒャーはナチ党組織全国指導者グレゴール・シュトラッサーに目を付け、彼を自分の内閣に引き入れることを狙っていた。ナチ党の金欠と選挙運動の縮小は続き、12月6日に行われたチューリンゲン州議会選挙ではナチ党は40%もの得票を失うという先の総選挙を越える大惨敗を喫した。もしシュライヒャーが国会を解散すれば、金欠で選挙運動を打てないナチスは今度こそおしまいだった。そのためシュトラッサーは今すぐ与党になって総選挙を防ぐ必要があると判断し、独断でシュライヒャー内閣への入閣に同意した。惨敗続きで弱気になっていたヒトラーも初めシュトラッサーの入閣を追認しかけた(自分自身は首相以外は受けないという非妥協路線を貫きながら、シュトラッサーを入閣させれば、屈服したというイメージを避けつつ政府に党への便宜を図らせることができると考えていた)。しかしその案にはゲーリングとゲッベルスが強く反対し、二人でヒトラーを説得して彼を非妥協路線に戻した。そして12月5日と12月7日のでの論争でシュトラッサーはヒトラーから「裏切り者」と激しく非難され、失脚し

出典:wikipedia

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