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有馬正文

有馬 正文(ありま まさふみ、1895年(明治28)9月25日 - 1944年(昭和19)10月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。1895年9月25日、鹿児島県日置郡中伊集院村(現日置市伊集院地域)に生まれる。1902年4月1日鹿児島県立師範学校附属尋常小学校入学。1906年(明治39)4月1日伊集院村立伊集院尋常高等小学校入学。1908年(明治41)4月1日鹿児島県立第一鹿児島中学校入学。1912年(大正元)8月31日鹿児島県立第一鹿児島中学校の5年次に中途退学。9月9日海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第51位。同期生の高木惣吉を終始兄のように慕い、有馬の長女百合子の結婚(相手は後に第9代海上幕僚長となる石田捨雄)では、高木夫妻を半ば強引に口説き落とし仲人を依頼した。1915年12月16日96名中第33位の成績で卒業、任 海軍少尉候補生。装甲巡洋艦「磐手」乗組となり練習艦隊近海航海に出発。1916年(大正5)4月3日帰着。4月20日練習艦隊遠洋航海に出発。8月22日帰着。8月23日戦艦「敷島」乗組。12月1日海軍少尉。1917年(大正6)9月10日装甲巡洋艦「磐手」乗組。少尉候補生指導官附。11月24日練習艦隊近海航海に出発。1918年(大正7)2月8日帰着。3月2日練習艦隊遠洋航海出発。7月6日帰着。11月1日3等駆逐艦「卯月」乗組。12月1日海軍中尉。1919年(大正8)1月18日戦艦「周防」乗組。12月1日海軍水雷学校普通科学生。1920年(大正9)5月31日海軍砲術学校普通科学生。10月7日遠矢文子と結婚。12月1日巡洋戦艦「金剛」分隊長心得。1921年(大正10)12月1日海軍大尉昇進、海軍砲術学校高等科第21期学生。1922年(大正11)11月30日海軍砲術学校高等科修了。12月1日2等駆逐艦「葦」乗組。1923年(大正12)12月1日1等海防艦「出雲」分隊長。1925年(大正14)4月15日巡洋戦艦「比叡」分隊長。1926年(大正15)12月1日海軍大学校甲種第26期学生。1927年(昭和2)12月1日海軍少佐。1928年(昭和3)12月6日海軍大学校甲種卒業、卒業時成績順位22名中第11位。12月10日巡洋戦艦「榛名」副砲長兼分隊長。1929年(昭和4)9月5日佐世保鎮守府司令部砲術参謀。1931年(昭和6)8月20日海防艦「浅間」砲術長。1932年(昭和7)11月15日第3戦隊参謀。1933年(昭和8)5月20日第7戦隊参謀。11月15日海軍中佐。1934年(昭和9)11月15日海軍大学校教官。12月15日兼海軍経理学校教官。1937年(昭和12)7月11日第10戦隊参謀。10月20日第14戦隊参謀。12月1日海軍大佐、特設水上機母艦「神川丸」艦長。1938年(昭和13)9月1日佐世保海軍航空隊司令。12月15日木更津海軍航空隊司令。1939年(昭和14)11月15日横浜海軍航空隊司令。1941年(昭和16)4月17日横須賀海軍航空隊副長兼教頭。1941年12月太平洋戦争勃発。1942年(昭和17)5月10日横須賀鎮守府附。1942年5月25日航空母艦「翔鶴」艦長。航海中は艦橋公室やオフィスを使わず常に艦橋にあって、食事は畳一枚ほどの艦長休憩室でとっていた。兵や部下に対して「お疲れ様です」「お早う御座います」と丁寧な言葉遣いで接し、未だ帰還しない艦載機の為に艦の危険を顧みずサーチライトの照射を命じ自らも双眼鏡を抱えて艦橋を離れなかった、戦死した部下の家族に欠かさず自筆の手紙を書き送っていたという。第2次ソロモン海戦に参加。南太平洋海戦に参加。南太平洋海戦ではSBDドーントレス急降下爆撃機の爆撃により爆弾4発が命中・大破した「翔鶴」を囮とし敵の攻撃を誘引せよと第三艦隊司令長官南雲忠一中将に進言しているが、草鹿龍之介参謀長に「飛行甲板が大破した空母で戦えるのか」と一喝され、却下された。1943年2月16日、海軍省航空本部教育部長。軍令部作戦部長中澤佑少将によれば、有馬は黒木剛一大佐とともに必死戦法の反対意見を述べたという。5月1日海軍少将。1944年3月15日、海軍省航空本部出仕。4月1日、中部太平洋方面艦隊司令部附。4月9日第26航空戦隊司令官。あ号作戦を前に第26航空戦隊司令官に就任し、フィリピン、ミンダナオ島ダバオに将旗を揚げたが、上級管理司令部たる第1航空艦隊が所在地テニアンで玉砕したため、一時期指揮系統が混乱するに至る。この時ダバオで有馬に面会した日辻常雄(空技廠飛行実験部)によれば、有馬は潜水艦の支援を受けた二式飛行艇によるパナマ運河空襲を計画していたという。捷一号作戦を前に第1航空艦隊司令部は再建されフィリピン諸島防衛が任務とされたが、第26航空戦隊は第1航空艦隊が直接指揮する事になった。10月台湾沖航空戦発生。有馬少将は台湾沖航空戦で大本営からもたらされる大戦果の情報を信じておらず、従軍記者に対して「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と述べ、1944年10月15日に、参謀や副官が止めるのも聞かず司令自ら一式陸攻に搭乗した。自ら出撃したのは有馬少将が常日頃から「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は老人から死ぬべきだ」と言っており、一身を犠牲にして手本を示そうとしたためと言われる。少将は出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた司令官という文字を削り取った。特攻できたのかどうかについては異論もあり、米軍の記録には有馬機による被害報告はない。また、有馬機が敵艦に突入したところを目撃した僚機もない。この体当たりは大西瀧治郎についで特攻開始に影響を与えた。クラーク基地で作戦中の陸軍第二飛行師団参謀の野々垣四郎中佐によれば「これは大きなショックを感じ、その後の特攻へ踏み切る動機となった」という。1945年(昭和20)1月7日戦死公報を以って海軍中将に特別昇進。享年49.墓所は鹿児島県日置市広済寺に所在。

出典:wikipedia

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