LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

真田信繁

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍した。特に大坂夏の陣において3,500の兵を率いて徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な武者振りの話が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作された。さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。「真田幸村」の名が広く知られているが、諱は「信繁」が正しい。直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無く、幸村と署名された古文書が二通現存しているものの、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならず、真田左衛門佐の諱は信繁であったと判断できるからである。「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であるとされる。『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている。しかし「幸村」という名前に説得力があった。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字であり、「村」についても徳川家に仇なす妖刀村正が由来に利用された。俗伝で幸村の佩刀であったとか介錯に村正を用いられたという話があり、すべて誤伝であるのだが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた。このため国学者でもある徳川光圀がわざわざ「幸村というのはあやまり也」と書き記したほどである。時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが初めて否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する。永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)の次男として生まれた。母は正室の山手殿。通称は、長男の信幸が源三郎を称し、信繁は源二郎を称した。真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸綱(幸隆)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸綱の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。幸綱は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模国の後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、信繁は関東管領として厩橋城に入城した滝川一益のもとに人質として赴く。同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、越後国の上杉氏、相模の後北条氏、三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した。真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。この際に信繁は上杉氏のもとに人質として置かれ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたという。慶長5年以前の信繁領は上田市西塩田の前山村で、上田領全体で千貫以上を所持していた。織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸は豊臣政権に帰属し、独立した大名として扱われる。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えている。天正18年の小田原征伐に際しては父昌幸と共に従軍し、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参戦したと伝えられる。『大鋒院殿御事跡稿』によれば、文禄の役においては、昌幸・信幸とともに肥前名護屋に在陣している。文禄3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される。この信繁の立身には、岳父の吉継とその母である東殿の意向が反映されていた。豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も史料自体はあるものの、さらに確認するための別の史料による裏付けは困難でもある。ただし、近年の研究によって信繁が秀吉の馬廻衆であり、昌幸とは別に1万9000石の知行を有していたことがわかっている。信繁は豊臣政権から伏見城の普請役を課され、大坂・伏見に屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されていたが、一方で知行地の支配については原昌貞ら昌幸の家臣に任せていた。秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。東軍のうち、徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、秀忠の大軍を城に立て籠もって迎え撃った(第二次上田合戦)。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った。また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。三成率いる西軍は、9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千の兵の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を命じられるにとどまった。蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈った。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して子の大助幸昌と共に大坂城に入った。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたという。慶長19年(1614年)に開戦した大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に真っ向から反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる。大坂城への籠城策が決定すると、信繁は真っ先に豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の最弱部であったとされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(半円形)を築いたが、千田嘉博によると大坂城の実際の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであるとされる。信繁は、地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくしたのである。さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している。さらに半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博により、不定形の形の城であったことが判明した。戦闘では鉄砲隊を用いて、先鋒隊に打撃を与えた。徳川勢は撤退に至った。この戦闘で真田信繁は、初めてその武名を天下に知らしめることとなる(真田丸の戦い)。なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、警戒していた。冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、承知をするならば、本多正純から誓詞を与えると寝返るように説得している 。信繁が秀頼には恩があると言ってこれを断ると、正純から再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出たが、これを聞いた信繁は「信濃一国どころか、日本国中の半分をいただけるとしても、わたしの気持ちはかわりません」と立腹して対面をしなかったという。慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。しかし豊臣方はここまでに後藤基次や木村重成などの主だった武将が相次いで討死し、疲弊していった。真田信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣あるのみと直訴したが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた(5月7日)。5月7日、信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し、射撃戦を始めた。信繁は、かねての作戦計画に齟齬をきたすため、毛利隊に射撃中止の伝令を遣わし、勝永自身も中止を促したが、射撃戦は激しくなるばかりで、本格的な戦闘へと突入したが合図を待たずに射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なくなった。これを受けて信繁は、軍目付の伊木遠雄に向かって武運拙きことを嘆き、己の死を覚悟したという 、この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は壊乱して総崩れの観を呈するに至った。信繁率いる真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、後方の家康本陣に向かって突撃。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙、家康本陣に突入した。家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。しかし数度に渡る突撃で部隊は消耗し、兵力で勝る徳川勢に押し返されて、真田勢は敗れ、信繁も追い詰められた。ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、信繁は「わしの首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。享年49。一方で、越前松平家に伝わる『松平文庫』では、西尾は相手を知らずに馬上の信繁に声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、後に家臣が陣中見舞いに来て信繁の首と判明したと異なる経緯で記述されている。上記以外にも真田信繁(幸村)の活躍は後世、伝承として各大名家などの文書に記録され、「武勲にあやかろうとした諸将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合いお守りにした」と言われる。真田信繁の墓所(正確には供養墓・供養塔)は、以下の複数が確認されている。また、逃亡伝説に基づいた墓所も全国に点在する。信繁には多くの子供がいたが、九度山へ幽閉される以前は女児しかおらず、嫡男の大助(真田幸昌)は幽閉地で生まれた。幸昌は大坂城にて子を残さぬまま自害したため、真田氏におけるこの系統は絶えたとされる。三男の三好幸信が生まれたのは慶長20年の7月であり、信繁はこの2か月前に討ち死にしている。ただし庶流には以後も系譜があった。次男の大八(真田守信)は石投げで死亡したという記録もあるが、伊達家重臣で後に三女阿梅の夫となる片倉重長の元で姉達と共に保護され、後に元服し片倉守信となった。これが仙台真田家として現在も続く事となる。慶長20年(1615年)5月7日、享年49で死去したものとされるが、『真田三代記』には信繁の影武者が7人も居たとの伝承があり、そのため大坂城が落ちるのを眺めつつ、豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたという俗説がある。「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」という京童に歌われたという。当時の人々の心情が流行り歌になったのだろうとも見られる。『真田三代記』は江戸中期〜末期に成立した、真田幸隆・昌幸・幸村の三代が徳川を相手に奮闘する物語である。後に生まれる真田十勇士の内、穴山小助・三好清海入道・三好為三入道・根津甚八といった武将が登場する。これが十勇士の原型とみられ、幸村を題材にした講談の流布とともに真田人気に繋がった。土橋治重による現代語訳・抄訳がPHP文庫から刊行されている。真田幸村の10人の忠臣として著名な「真田十勇士」は、『難波戦記』や『真田三代記』を底本し、大正時代に一世を風靡した立川文庫の中の一冊『猿飛佐助』が大好評を博し、その。類似したケースに「尼子十勇士」がある。ただし、資料によって若干のばらつきが見られる。主に挙がる名前は、猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八、由利鎌之助、筧十蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、海野六郎、穴山小介。いわゆる現在の幸村伝説と、彼をとりまく十勇士の顔ぶれが確立したのは、明治末から大正初期にかけて子どもの人気を集めた立川文庫からである。真田領の近くに、忍びの里として有名な「戸隠の里」がある。真田信繁(幸村)が主人公として登場する小説は、池波正太郎『真田太平記』(1974年-1982年、全12巻)、柴田錬三郎『真田幸村』などがある。また、歌謡浪曲では三波春夫の『長編歌謡浪曲 真田軍記 沼田城物語』や『長編歌謡浪曲 続・沼田城物語 関ケ原前夜』で登場する。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。