日髙 のり子(ひだか のりこ、1962年5月31日 - )は、日本の声優、女優、ナレーターであり、ラジオパーソナリティ。東京都千代田区九段出身。愛称は「ノン子(さん)」。本名の旧姓は伊東。名は範子。身長157cm。血液型はAB型。既婚。2009年1月19日に事務所「コンビネーション」を三ツ矢雄二と共に設立する。代表作に『タッチ』(浅倉南)、『となりのトトロ』(草壁サツキ)、『らんま1/2』(天道あかね)など。日本武道館の近くで、洋服の仕立屋「テーラー伊東」を営む両親の元で、三姉弟の長女として生まれる(下に弟が2人いる)。千代田区立富士見小学校、千代田区立九段中学校、頌栄女子学院高校出身。短大中退。様々な役柄を演じているが、特に活発な少年少女を演じることがある。結婚後の一時期、多忙なレギュラー業務から距離を置くようになったが、これは「家庭を優先させているため、あえて(拘束の弱い)仕事を選んでいる」ためである(三ツ矢雄二とのインターネットラジオにて発言)。将来は女優志望で、子供の頃から子役として活動。高校時代にはいとう のりこ名義でアニメ『ふたごのモンチッチ』の主題歌「ふた子のモンチッチのうた」を歌い、キャンペーンのお姉さんとして着ぐるみとともに全国を回ったこともある。「ふた子のモンチッチのうた」を発売したレコード会社の担当がアイドルセクションへ異動し、その担当からアイドルでのデビューを誘われる。当初は女優を目指していることを理由に一度断わったが、先にアイドルでデビューして名前を知ってもらった方がいいのではと言われ、自身でも納得してアイドルデビューを決意する。1979年2月から1980年1月まで放送された『バトルフィーバーJ』に中原ケイコ役で出演(伊東範子 名義)。1980年に「初恋サンシャイン」でアイドルデビュー。1日だけ「あいようこ」(漢字不明)の芸名だったが、本名の「のりこ」は残したいということで、現在の芸名に変更となった。香川の「仁尾太陽博」のキャンペーンガールを務める。NHK『レッツゴーヤング』において「サンデーズ」のメンバーになり、ある程度名は売れたものの、その後アイドルとしては失速して行き、苦労続きの日々を送ることになる。1984年時点では22歳になっていたが、芸能界で未だ一皮剥けない状況に、業を煮やした両親からは半ば引退勧告も突き付けられていたという。そんな中、当時担当していたラジオ番組で、リスナーから「声に特徴があるので声優に向いているのでは」と言われたことから声優を意識するようになり、後にテレビアニメ『超時空騎団サザンクロス』(ムジカ・ノヴァ役)で声優デビューを果たした。1985年からは『タッチ』でヒロイン・浅倉南役を担当し、声優としての知名度をあげる。その後『トップをねらえ!』・『ふしぎの海のナディア』・『らんま1/2』・『となりのトトロ』など知名度の高い作品に多く出演。また、1989年の『ピーターパンの冒険』では、レギュラーキャラクターでは初となる少年役を担当。この他にも年相応の役を増やすなど、役の幅を拡大させていった。2015年、山崎和佳奈と松井菜桜子とアイドルユニット「backdrops」を結成し、『Don't fly!』でデビュー。子役時代には東京宝映に所属していたが、アイドルデビュー後は当初CBSソニー預かり(マネージャー:森田)の後、河野プロモーションへ移籍。マネージャーは岡本が長く務めた後、大楽豊、寺岡理恵と変遷した。1996年春頃に事務所が廃業し、暫くフリーでの活動を行うが、81プロデュースのマネージャーを務める吉田理保子から誘いを受け、寺岡と共に移籍。長年在籍したが、2006年3月限りで81プロデュースを退社、その後、夫の個人事務所「BIG MOUNT」の所属扱いで活動していたが、2009年1月19日に新事務所「コンビネーション」を、タッチで共演以来の旧友である三ツ矢雄二と共に設立した。所属レコード会社は、アイドル時代の当初ソニーレコード・CBSソニーから、ポニーキャニオン、そしてメルダックと変遷したが、近年は歌手活動をしていない。明るい性格で知られ、島本和彦からは「便所の100W(無駄に明るい)」と言われたこともある。明けっぴろげな性格で、飲み会で酔っぱらい、ジーパンで股を開いて眠り惚けたエピソードを三ツ矢雄二に散々言いふらされたことがある。演じた役柄の中で一番日高の地に近いのは『らんま1/2』のヒロインである天道あかねだと語っている。父が空手道場の師範だったためか、日高も子供の頃に空手をやっていた事があったと述べており、2人の弟ともよく取っ組み合いの喧嘩をしていた事から、周囲の大人たちからは「まるで男の子みたい」と評されていたという。日高は井上喜久子に井上を表す代名詞となる「マンボウ」と名づけたのだが、日高自身がそのことを井上に指摘されるまで全く忘れており魚のマンボウを見ては「なぜ喜久子ちゃんはこんな平べったい魚の名前を付けたのだろう」と疑問に思っていた。後におそらく実物ではなくマンガチック化されたかわいいマンボウのイメージから名付けたのだろうと釈明している。ゴルフ経験がないのにいきなりゴルフ場に連れて行かれラウンドデビューする。しかしクラブを変えることすらも分からずほとんどドライバーでプレーをしていたためにスコア180という驚異的な数字を叩きだし、それ以来ゴルフのクラブを握っていない。玉乗り、小森まなみの声真似が得意。芸名は本来異体字を用いて日髙のり子としているが、アイドル時代のごく初期を除いて「日高」と表記されることが多かった。だが、10年ほど前に字画の関係から声優の金丸淳一に勧められて、本来の異体字で表記するようになった。1991年、山寺宏一・関俊彦とともに芝居『@@ザ・スタースパングルド・ガール::』を公演。その後、山寺・関とユニット・バナナフリッターズを結成し、ラジオやCDリリース、舞台などで、1995年まで活動した。1992年5月の末(30歳になる前)にラジオの仕事で知り合った2歳年下のディレクターと結婚している。アイドル時代初期には、空手着姿のグラビアを撮影したことがあるが、「二度とやりたくない」と公言している。また「週刊ゴング」のリポーターを務めていた経験もある。日高がアシスタントを担当した『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』のメインパーソナリティー・笑福亭鶴光に、後任アシスタントの坂上とし恵、ゲストとしてよく出演していた浜田朱里とともに「がけっぷちトリオ」と命名されるほど、初期は苦労続きであった(鶴光の十八番である下ネタも苦手にしていた)。また、一応自分のコーナーとして「日高のりこのアップ・ルンルン」と題する時間帯を貰ってファンからの投稿に応えていたが、単独でDJとして生放送を行っている最中に、全部の照明を消されて真っ暗にされる、更に鶴光は当然ながら他の機器調整等の放送スタッフまで全員が姿を消して一人ぼっちにされる(その結果、怖さの余り本気で生放送中にもかかわらず号泣し、スタッフが戻りCMを入れて打ち切るまでそのまま全国に放送される)等の数々の悪戯が繰り返され、何事もない正常な放送を流せなかったことも度々であった。コーナー名自体が「日高はほっぺたがリンゴの様に赤い田舎者」だと揶揄する発言を鶴光が繰り返すものであり、鶴光の下ネタを始め当時のアイドルに必須な「清純可憐で爽やかなイメージ」を無理矢理に崩壊させる仕打ちを受けていた。ただそれでも番組降板時には「私はこの場所を離れたくない!」と絶叫したことを、『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』最終回で鶴光が明かしていた。アイドル時代のある日、温泉でのロケが入った日高が現地に着くと、そこには温泉に入浴しているクマがいた。実は、ロケの内容はクマと一緒に温泉に入る企画であった。恐る恐る入浴する日高だったが、突如、クマが日高の髪の毛に噛み付くアクシデントが発生。命からがら逃げ出した日高が、番組のディレクターに文句を言うと、ディレクターは「自分が入って大丈夫ならまたやろう」と自らクマと一緒に入浴。しかし、クマに腕を噛まれる結果となった(エッセイ本『のんこ』や『渋谷でチュッ!』ゲスト出演時に語っている)。前述の『超時空騎団サザンクロス』のオーディションと、当時レギュラーだったラジオ番組と時間が重なったため、当時の岡本マネージャーがラジオ持参でオーディション会場に駆け付け、声優デビューを果たした。しかし演技経験が少ないまま声優の世界に飛び込んだため、暫くはその演技力を酷評される時期が続いたが、スタッフが気遣って日高にその事を告げなかったため、自分が下手だという認識はなかったという。ただ、当時から先輩の島本須美にオーディションの最終選考で敗れる事がしばしばで、後には島本に対して「いつも自分の前を行っていた」・「オーディションで会うと諦めていた」・「敵わないと思った」等の発言を残している。『よろしくメカドック』の現場で「今度、こういうオーディションがあるから受けてね」と言われて受けた作品が『タッチ』だった。オーディションを経てメインスタッフの「下手だけどこの子に賭けてみよう」という育成目的も込めた意図でヒロイン・浅倉南役に抜擢される。監督を担当した杉井ギサブローによると「声質が南ちゃんのイメージに近かったこと。声優としてのキャリアが少なく、喋り方が声優っぽくなかったこと」を理由に挙げている。アフレコ現場では、共演していた林家こぶ平(現・林家正蔵)と共に上杉達也役の三ツ矢雄二を始めとする先輩声優や、音響監督の藤山房伸から毎回厳しい演技指導を受けていた。初期の日高の拙い演技に対しはじめは我慢していたが、耐えかねた三ツ矢が「下手糞!もっと僕の事を好きになってよ!(浅倉南が上杉達也を好きだという感情を、もっと上手に表現して欲しいの意)」と激怒し、日高は激しい衝撃を受けるも、そこで初めて自分の実力を知ったという。また、他の出演者の台詞はスムーズに進行する中、日高が一言喋るとフィルムが止まり、音響監督などの首脳陣が話し込んでいる様子を見て驚愕し、自身がキャストに加わったことでどれだけ迷惑をかけているかを肌で感じてしまい、プレッシャーに押し潰されそうになったと後年語っている(当時は映写機でフィルムを回していたため、1回止めると戻すのに手間がかかった)。しかし、この厳しい環境により日高の演技力は短期間で向上し、以後息の長い活動を見せる事となった。その後も三ツ矢とは共同事務所を設立したり、テレビ番組で共演したりと、関係は非常に良好である。また、「現場で叩き上げられて成長した代表例」・「努力で這い上がった苦労人」と取り上げられる事もあり、日高本人も当時の『タッチ』関係者に自著で感謝の念を示している。後に山口勝平の新人時代の演技指導にも活かされ、今も山口は日高に頭が上がらないという。1987年3月、『タッチ』の放送が終了。これについて、「タッチが終わってすごく不安だったんです。でも、翌年の1988年に“トップをねらえ!”でオタクの方達から評価を頂きまして、さらに映画“となりのトトロ”のサツキ役をもらって、一般の方にも喜んでいただいて。なんとオタクの方達と一般人の両方から同時に称賛を受けるという快挙を達成しまして(笑)これで、なんとか声優でやっていけるかも?と思いました」と語っている。声優としてある程度有名になった時、事務所のマネージャー達に「『タッチ』はヒットしたねえ」「でもあれだけ大きな役でヒットしちゃうと、次が大変だね」と言われ、どうしたらよいのか考えた結果、これまでの代表作に女の子役が多かった自分がガラッとイメージを変えるには男の子役にチャレンジすることだと思い立ち、当初はヒロインのウェンディ役としてオファーを受けていた『ピーターパンの冒険』で、ピーターパン役を希望する。しかし、音響監督に面と向かって「(ピーターパン役のオーディションを)受けさせてください」と言う勇気がなかったため、音響監督とすれ違いざまに小さい声で「ピーターパンもやってみたいな」と囁いたところ、「何、やってみたいの?」とあっさり返され、すぐ声を録ることになり、結局ピーターパン役に決まったという。後に日高はこのことについて「当時の自身に付きまとっていた『浅倉南』のイメージを振り払うためだった」とも語っている。『ピーターパン』第1話のアフレコでは力みすぎて声を潰してしまい、その後OAされたものを見ながら「ここをこうすればいいかな」と少しずつ感じを掴んでいった。また、初の少年役ということでプレッシャーを感じて苦しんでいたが、ウェンディ役の松井菜桜子や共演していた島本須美に助けてもらって演じることが出来たという。フック船長役の大塚周夫とは、日高と2人で演じるシーンがかなりあり、大ベテランの大塚が相手役であるため、「精一杯の演技で返したい」という思いで、ずっと緊張感を持って演じていた。2つ目の本格的な少年役『ふしぎの海のナディア』のジャンは、ピーターパンのはつらつとした芝居と違い、抑える場面や日常的な会話の演技を求められ、「男の子の声になっているだろうか?」との不安を感じたという。また、発明家という設定から脚本のセリフに難しい漢字が多く、漢字が苦手な日高はその面でも苦労もあったと語っている。同作のナディア役で共演した鷹森淑乃とは現在も親交があり、家が近所ということもあって、一緒にランチを食べては教育問題を語り合う仲だという。なお、劇中でのナディアの性格については「自分がジャンの立場だったら“お前なんか勝手にしろ!”と思うシーンが沢山あった」とのことである。さらに劇場版では、17歳に成長した青年のジャンを演じることになり、やりがい・苦労ともに大きかったという。ジャン役以降は男性役での出演が増えるようになり、より演技の幅を広げる。その後『ドッジ弾平』で主役の一撃弾平を演じ、弾平の相棒である小仏珍念を担当した野沢雅子との共演を通して、少年役を演じる上での心構えや少年の色々な感情の演じ方を学んだ。太字はメインキャラクター。1984年1985年1986年1987年1988年1989年1990年1991年1992年1993年1994年1995年1996年1997年1998年1999年2000年2001年2002年2003年2004年2005年2006年2007年2008年2009年2010年2011年2012年2013年2014年2015年2016年2017年1988年1989年1990年1991年1992年1993年1994年1995年1996年1998年2003年2004年2010年2011年2012年1986年1987年1988年1989年1990年1991年1992年1994年1997年1998年2001年2002年2004年2005年2006年2007年2010年2011年2012年2013年2014年2015年2011年1991年1993年1994年1996年1997年1998年1999年2000年2001年2002年2003年2004年2005年2006年2007年2008年2009年2010年2011年2012年2013年2014年2015年2016年1979年2014年2015年ここでは代表的な番組を挙げる。
出典:wikipedia
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