『グリム童話』(グリムどうわ、)は、ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が編纂したドイツのメルヘン集である。正式なタイトルは『子供たちと家庭の童話』()で、1812年に初版第1巻が、1815年に第2巻が刊行され、著者の生前から数度改訂されつつ版を重ねた。160以上の言語に翻訳されており、聖書に並ぶといわれるほど広く読まれたとされ、多くの芸術家にインスピレーションを与えている。また民話収集のモデルとして、他国の民話研究にも大きな影響を与えた。『グリム童話』が成立した背景には、フランス革命とそれに続くナポレオン・ボナパルトによるドイツ占領によって、ドイツにナショナリズム高揚の動きが広まっていたことがある。このような状況のもとで、それまで芸術家主義的に展開していたドイツ・ロマン主義運動は一転して土着の民衆文化に目を向けるようになり、その一環として民謡やメルヒェンの発掘収集を進めるようになった。こうした収集の先駆的業績としては、ロマン主義以前、シュトルム・ウント・ドランク運動の提唱者であったヘルダーによる『民謡集』(1778年–79年)があり、グリム兄弟以前には他にもムゼーウスの『ドイツ人の民間童話』(1782年)、ナウベルトの『ドイツ人の新しい民間童話』(1788年)、『グリム童話』の数ヶ月前に刊行されたビュッシングの『民間伝説、メルヘン、聖者伝』(1812年)など数種類の民話集が刊行されている。1808年にはグリム兄弟と同姓の(まったく血縁関係のない)A.L.グリムによる『子どもの童話』も出ているが、『グリム童話』が出た当時はこちらのグリムによる本もよく売れていたために、兄弟の生前はしばしば両者が混同された。こうした流れの中で1806年、ロマン派の詩人ブレンターノとアルニムによる民謡集『少年の魔法の角笛』が刊行された。この民謡集には恩師であるサヴィニーの仲介によってヤーコプ・グリムも収集の協力をしており、その後この民謡集の続編となるメルヒェン集が計画されると、ブレンターノ達はグリム兄弟にもメルヒェン収集の協力を依頼した。このとき兄弟はブレンターノから、画家のフィリップ・オットー・ルンゲが方言で書き留めた二つのメルヒェン「猟師とおかみ」と「ねずの木の話」を渡されており、兄弟のメルヒェン収集・編纂はこの二つのメルヒェンと、『少年の魔法の角笛』におけるブレンターノの再話法とによって方向付けられることになった。兄弟は口伝えと文献のふたつの方向からメルヒェン収集を進め、初期の成果である49篇をブレンターノに送った。しかしブレンターノから音沙汰がなくなったため、ブレンターノ達とは別に自分たちの童話集をつくることに決め、あらかじめ取っておいた写しをもとに『グリム童話』の編纂を進めていった。その後ブレンターノのほうの企画は立ち消えとなり、ブレンターノはグリムから送られた原稿も返却しないまま紛失してしまったが、この初期の原稿は19世紀末になって、アルザスのエーレンベルク修道院で発見されており(エーレンベルク稿)、今日グリムによって加筆修正された刊本と原型との比較研究のための基本資料となっている。アルニムから自分たちの童話集出版を後押しされたグリム兄弟は、アルニムの仲介でベルリンの出版者ゲオルク・ライマーを版元に決め、1812年のクリスマスに『子どもと家庭の童話』初版第1巻を刊行した。この巻には86篇のメルヒェンが収められ、それぞれに学問的注釈をつけた付録が施されていた。しかし、この子供向けの本と学問的資料との間のどっちつかずの体裁は、後に述べるように収録メルヒェンの内容・文体と合わせて批判を呼んだ。第1巻の売れ行きは好調とはいえなかったが、新たに70篇を集めて1815年に刊行された第2巻はさらに売れ行きが悪く、このため計画が持ち上がっていた第3巻は実現しなかった。1819年に刊行された第2版では、弟ルートヴィヒ・グリムによる2枚の銅版画が口絵に入り、また注釈も別冊として分離されより親しみやすいつくりに変えられている。1820年にはデンマークとオランダで『グリム童話』抜粋の翻訳が出ており、1825年にはジョージ・テイラーによる英訳版のグリム童話選集『ドイツの民衆メルヒェン集』が、当時の人気画家ジョージ・クルックシャンクの挿絵をつけて刊行され大きな反響を呼んだ。同年、兄弟はこのイギリス版を手本として『グリム童話』の選集版『グリム童話名作選』(「小さい版」)を作り刊行した。これには『子供と家庭の童話』150篇あまりから、子供にふさわしい、特に重要なメルヒェンを50選んで収録しており、ルートヴィヒによる7枚の銅版画も挿絵として付けられている。この廉価な普及版はもとの二巻本よりもはるかに売れ行きがよく(グリムの生前1858年までの間に9版まで出ている)、グリム童話の普及に大きな意味を持った。『グリム童話』がはっきりした成功を収めたのは、1837年に、出版社をゲッティンゲンのディーテリヒス社に変えて出された第3版からである。その後『グリム童話』はいくつかの話を加えたり入れ替えたりしつつ、兄弟の生前に7版まで改訂された。収録話数の変遷は以下のようになる。『グリム童話』とそれまでのメルヒェン集との大きな違いは、後者がそれぞれの物語を大きく脚色して長い作品に仕立てていたのに対し、グリムのそれでは一つ一つが短く、比較的口承のままのかたちを保っていたことにあった。しかしそのために、文章が粗野である、話の内容・表現が子ども向きでない、あまりに飾り気がないといった批判を受け、以降の版ではこれらの点について改善が図られるようになった。具体的には、風景描写や心理描写、会話文が増やされ、また過度に残酷な描写や性的な部分が削除され、いくつかの収録作品は削除された。このような過程を経て『グリム童話』は、口承文芸の収集から兄弟の創作童話へと近づいていくことになった。なお兄弟のうち初期の収集にあたっては主にヤーコプが仕事の中心を担っていたのだが、後の版のこのような改筆に当たったのは主にヴィルヘルムであり、メルヒェン集に学問的性格をもとめていたヤーコプのほうは次第にこの仕事から手を引くようになった。ヴィルヘルムは加筆修正の際に、自身の物語観や当時の道徳観に合わせて記述を修正した。特にヴィルヘルムは物語から、妊娠などの性的な事柄をほのめかす記述を神経質なまでに排除している。また近親相姦に関わる記述も削除・修正されているほか、「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」など、子を虐待する実母が出てくる話が、子供への配慮から後の版で継母に変えられているものが相当数存在する。しかしこれらの書き換えに比べると、ヴィルヘルムは刑罰の場面などの残虐な描写については意外なほど寛容で、話によっては後の版のほうが却って残虐性が増しているようなものもある。このために『グリム童話』は子供への読み聞かせに適しているか、あるいはそのままの形で読み聞かせてよいのかどうか、といった点が、初版刊行時以来しばしば議論の的となっている。このほか、グリムが貞淑で忍耐強い女性という価値観に従い、物語内の少女から積極性・能動性を奪ったことや、人種差別的な偏見が見られることなどが指摘されている。『グリム童話』は長い間、グリム兄弟がドイツ中を歩き回って、古くから語り継がれてきた物語をドイツ生粋の素朴な民衆たちから直接聞き集め、それを口伝えのかたちのまま収録して出版されたものだと一般には考えられてきた。このように考えられてきたのは、一つにはグリム兄弟自身が童話集の序文でそのように宣言したためであったが、現実には「口伝えのかたちのまま」ではなく、兄弟の手によって少なからず手が加わっていることは前述したとおりである。取材源に関しても、『グリム童話』にはラテン語の書物などを含む文献から取られた話が一定数含まれており(初版では全体の四分の一程度、第7版では五分の一程度の話が文献から取られている)、すべてが口伝えの聞き取りによっているわけではない。さらにほかの口伝えの情報源に関しても、ドイツの中世文学者ハインツ・レレケによる比較的近年の研究によって、上記の「ドイツ生粋の素朴な民衆から聞き取った」という通説が事実とは大きく異なっていたことが明らかになっている。実際には兄弟の聞き取りの取材源のほとんどが中・上流階級の家庭であり、その中にはフランスなどをルーツとする人物が少なからず含まれていたのである。グリム兄弟自身は生前メルヒェンの取材源を公にしなかった。唯一の例外がカッセル地方の仕立て屋の妻であった「フィーマンおばさん」ことであり、グリム兄弟は第2版の序文で、多数のメルヒェンを提供した彼女の貢献を称え、弟のルートヴィヒ・グリムが書いた彼女の肖像を掲載したため、彼女は昔話の理想的な語り手として読者から親しまれきた。しかしこの人物は、実際には旧姓をピアソンという、フランスから逃れてきたユグノーの家庭の出で、普段はフランス語を話し『ペロー童話集』などもよく知っている教養ある婦人であったことがレレケの研究によって明らかになっている。グリム兄弟の没後、ヴィルヘルムの息子のヘルマン・グリムは、兄弟による取材源のメモを公表した。この際にヘルマンは、メモのなかにある「マリー」という女性について、これは自分の母(ヴィルヘルムの妻となったドルトヒェン・ヴィルト)の実家に住んでいた戦争未亡人のおばあさんで、昔話をよく知っていたと証言している。そのためにこの「マリーおばさん」は、先述の「フィーマンおばさん」と並び『グリム童話』に貢献した昔話の語り手と信じられるようになった。ところがこれも1975年に発表されたレレケによる研究で、このマリーとは実際には戦争未亡人の老婆「マリーおばさん」などではなく、ヘッセンの高官の家庭であるハッセンプフルーク家の令嬢マリー()のことであり、その母親はフランス出身のユグノーであったことが明らかにされた。レレケはこのほかにも、グリムへ童話を提供した人物の詳細な調査を行い、特に初期の重要なメルヒェン提供者の多くが身分ある家庭の夫人や令嬢であったことを突き止めている。総じてグリム兄弟は(一般に信じられていたように)農村を歩き回って民衆から話を聞き取ったりはせず、中流以上の裕福で教養ある若い女性に自分のところまで来てもらって話の提供を受けていたのである。ただしレレケは、メルヒェンの提供者が教養ある人物であったことは、必ずしもそれらが上流階級の間でのみ語られていたことを意味しないということに注意を促してもいる。読み書きができ、話もうまいこれら上流階級の女性は下層階級(下僕や女中など)から聞いた話を仲介する役割も担っており、下層階級の人々にとってもそのような仲介は必要なことであった。番号は第7版での通し番号(KHM番号、KHMは "Kinder- und Hausmärchen" の略)を示している。『グリム童話』の出版を軸として、グリム兄弟はメルヒェンの体系的な収集と研究(その範囲はヨーロッパを超えアメリカ大陸や東洋にも及んでいる)によってメルヒェン学を樹立した。その業績は他国の民話収集や研究に広い範囲で影響を与えている。イギリスでは1879年、グリムとウォルター・スコットに触発された人々によって英国フォークロア協会が設立され、その会員J.ジェイコブズによって1890年に『イギリス民話集』が刊行された。ロシアでは19世紀なかばからグリム研究が開始され、アファナーシェフがグリムを範として『ロシア民話集』(1855年-1864年)を編纂し、ウラジミール・プロップがこれを受けて徹底的なグリム研究に基づくメルヘン学を確立した。プロップの主著『昔話の形態学』(1928年)はまたフランス構造主義を先駆けた著作としても評価される。フランスではP.ドラリュがグリム研究を踏まえて『フランス民話集』(1957年)を、イタリアではイタロ・カルヴィーノが『イタリア民話集』(1956年)を刊行している。ドイツの民間伝承の背景として成立したグリム童話は、ときに民族主義的思想とのつながりが指摘されることもある。実際に第二次大戦下のドイツでは、ワイマール共和国時代に削除されていたグリム童話の残酷な部分が再度取り入れられ、闘争の理想化や権力の賞賛、人種政策の正当化のために利用されたと指摘されることもある。。戦後まもない時期には、グリム童話の持つ残虐性の要素が収容所を生んだという極端な主張もなされ、1948年8月にイギリス占領軍によって、西ドイツ国内での昔話集の出版が一時禁止される事態となった。1975年、グリム兄弟の故郷ハーナウから、「ブレーメンの音楽隊」の舞台ブレーメンまでを結ぶ600キロの街道が、ドイツ観光街道のひとつドイツ・メルヘン街道として整備された。グリムゆかりの地や「いばら姫」の城があるザバブルクなどメルヒェン発祥の街70以上が参加する観光ルートとなっている。『グリム童話』の日本における最初の紹介は、1887年(明治20年)に出た桐南居士(菅了法)による『西洋古事神仙叢話』の11篇で、「灰かぶり」「蜂の女王」「十二人の兄弟」などが道具立てを日本のものに置き換えて翻案されている。英語版をもとにしたと考えられるもので、グリムの名はどこにも示されていない。同年9月には統計学者でもあった呉文聰により「西洋昔噺第一号」として、「狼と七匹の子ヤギ」が「八ツ山羊」の題で絵本にされており、ここではなぜか子ヤギの数が8匹に変えられている。1889年(明治22年)には国語学者の上田万年による同じ話の翻案『おほかみ』を刊行しており、1895年(明示28年)には巌谷小波が「狼と七匹の子ヤギ」を「子猫の仇」の題で猫の話に置き換えた翻案も出ている。明治期には主に児童向けの教訓話を意図したものとして、主として『小国民』『幼年雑誌』『少年世界』などの、当時次々と創刊されていた児童雑誌でグリム童話が多く紹介された。その数は雑誌、単行本を合わせて240を数える。このように明治期にグリム童話の紹介が進められた背景には、当時日本でも影響力のあったヘルバルト学派の童話教育論が受け入れられていたためと考えられる。また明治期に日本風に書き換えられたグリムの翻案は、その後口承化し日本の昔話のようにして伝えられた事例もある。『死神の名付け親』のように、翻案されて落語に取り入れられた例すらある。1919年(大正7年)創刊の『赤い鳥』では、久保田万太郎がグリムを素材とする童話劇を多く書いており、久保田は児童への配慮から、原作の陰鬱さや残虐性を自作から意識して退けている。一方で大正期には、童話研究が進むとともに国民教育的な受容からの脱却もはじまっており、中島孤島による原著に忠実な訳『グリムお伽話』(1916年)、『続グリムお伽話』(1924年)は広く読まれた。1925年(大正13年)には金田鬼一による初の全訳が出ている(現在岩波文庫に収録)。第二次大戦期は政府の出版統制によってグリムの翻訳は一時下火となるが、戦後ふたたび注目され、以後原著に忠実な翻訳と教育的配慮から改変した訳との二つの系統で、途切れることなく翻訳・再話が出続けている。1980年代以降は第7版の訳だけでなく、小澤俊夫によるエーレンベルク稿の訳(1989年)や第2版の全訳(1995年)、 吉原高志・吉原素子による初版の全訳(1997年)なども出版された。また日本では1990年半ばから、グリム童話の「残酷性」に焦点をあてた解説書やアンソロジーの類が相次いで出版され、桐生操『本当は恐ろしいグリム童話』(1998年)などがベストセラーを記録するというブームが起きている。特定の物語を題材にしているものは各物語の個別項目を参照。またグリム童話に限らずお伽噺・昔話全般を広く題材としている作品は、表題にグリムの表記があっても以下には含めていない。文学・絵本映像漫画コンピュータゲーム音楽
出典:wikipedia
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