種茂 雅之(たねも まさゆき、1938年2月13日 - )は、静岡県磐田市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。静岡高校では1年生からレギュラーを務め、の夏の甲子園に出場。主将として臨んだが、1回戦で城東に敗退。高校卒業後は立教大学へ進学し、東京六大学リーグでは5度優勝したほか、日本選手権2連覇( - )を経験。4年生から正捕手となり(1年上に片岡宏雄がいたため)、春季リーグでベストナインを受賞。リーグ通算29試合出場、93打数18安打、打率.194、1本塁打。大学の2年先輩に杉浦忠・本屋敷錦吾・長嶋茂雄・稲川誠、同期には森滝義巳・浜中祥和・高林恒夫がいる。大学卒業後は丸善石油に入社し、から都市対抗に2年連続で出場(は東邦レーヨン徳島の補強選手)。1961年シーズン途中に東映フライヤーズへ入団し、同年9月23日の近鉄戦(日生)で初出場。には球団初のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでは胴上げ投手となった土橋正幸と共に史上唯一のダブルMVPを受賞。その後も安藤順三・白仁天との併用が続いていたが、には正捕手の座を掴み、オールスターゲームにも出場。規定打席にも到達し、打率も自己最高の.291(ベストテン5位)を記録。は不調もあって鈴木悳夫との併用となったが、まで正捕手の座を守った。には岡村浩二・阪本敏三との正捕手ー正遊撃手同士での交換トレードで、大橋穣と共に阪急ブレーブスへ電撃移籍。同年のリーグ優勝に貢献し、創設初年度のダイヤモンドグラブ賞を受賞。限りで現役を引退。引退後は阪急・オリックスで二軍バッテリーコーチ( - )・スコアラー( - )・スカウト( - )、古巣・日本ハムで一軍バッテリーコーチ( - )・二軍監督( - , - )・ファームディレクター( - )を務めた。その後は日本ティーボール協会で理事や顧問を務め、首都圏の小・中学校などで普及活動を展開した。現在は参与。1960年代 - 1970年代を代表する「イケメン選手」で、マスクを被るのがもったいないと言われていた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。