大阪教育大学附属天王寺小学校(おおさかきょういくだいがくふぞくてんのうじしょうがっこう)は、大阪市阿倍野区にある大阪教育大学附属の国立小学校。初等普通教育をおこなうとともに、大阪教育大学の附属学校として、教育の理論と実践に関する研究をおこなうことを目的としている。1学年の定員は120人。(2012(平成24)年度より105人)入学条件は、保護者と一緒に居住し、学校までの通学時間が徒歩もしくは公共交通機関(有料特急等を除く)で40分以内の場所に居住しているもの。なお、転居等で通学時間が40分を超えるようになったものは、原則として転校となる。大阪府師範学校(1874年教員伝習所として創設)は1877年6月、北区常安町(現在の北区中之島4丁目)に校舎を構えた。これに伴い1877年7月15日、大阪府師範学校内に附属演習学校を設置したことが学校の始まりとなっている。大阪府師範学校は1880年以降一時法円坂に移転し、当時東区にあった私立森小学校を附属演習学校とした。旧敷地は大阪府立中学校(大阪府立北野高等学校の前身)となった。大阪府師範学校は1881年に、中之島の旧敷地に再度移転して大阪府立中学校と合併している(後に再分離)。旧敷地復帰の際には公立田蓑小学校(のち中之島小学校)を附属演習学校とした。1882年9月には師範学校内に附属小学校を併設した。明治時代中期には中之島の校地が狭隘化したため、1901年に師範学校の男子部と女子部を分離し、それぞれ別の校地に移転することになった。師範学校男子部は1901年に南区天王寺南河堀町(現在の大阪教育大学天王寺キャンパス)へと移転している(1908年大阪府天王寺師範学校に改称)。その際に附属小学校も天王寺の師範学校校舎内に移転している。1941年には国民学校令により、大阪府天王寺師範学校附属国民学校となった。1943年には師範学校が官立に移管し、従来の大阪府天王寺師範学校は大阪府女子師範学校(かつての大阪府師範学校女子部)と合併した上で、大阪第一師範学校へと改編された。これに伴い附属国民学校も国立となり、大阪第一師範学校男子部附属国民学校へと改称した。太平洋戦争の戦局悪化により、1944年には初等科3年以上の児童を対象に南河内郡東条村(現在の富田林市)へ学童集団疎開を実施している。また高等科生徒については1945年、泉北郡信太村(現在の和泉市)へ勤労動員された。学制改革に伴い、1947年に新制小学校・大阪第一師範学校男子部附属小学校が発足した。高等科は廃止され、新設の附属中学校へと転用されている。なお学制改革に伴って師範学校が新制大阪学芸大学に移行したことに伴い、小学校の校名も大阪学芸大学大阪第一師範学校男子部附属小学校(1949年)・大阪学芸大学附属天王寺小学校(1951年)と短期間で変遷している。また新制大阪学芸大学の発足により大学設備の拡充が必要になったことから、従来師範学校および大学に同居していた附属小学校については別の敷地に移転する必要が生じた。1951年5月には3年生以上の児童について、浪速区・大阪市立敷津小学校の校舎を借りて仮移転した。1・2年生児童については天王寺の旧校舎に残っていた。1951年12月には現在地の校地の買収がおこなわれ、1953年3月に3年生以上の児童が敷津小学校から現在地の校舎へと移転している。その後1945年4月に2年生が天王寺から現在地に移転し、また1955年1月に1年生が天王寺から現在地に移転して完全移転となった。1967年には設置母体の名称変更により、大阪教育大学附属天王寺小学校へと改称した。また1973年には大阪教育大学教育学部附属天王寺小学校と改称し、2004年には独立行政法人化により大阪教育大学附属天王寺小学校へと再改称している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。