街路樹(がいろじゅ)とは、街路に沿って植えられた樹木のこと。街路樹とは街路(市街地の道路)に沿って植えられた樹木のことである。街路樹は主に高木のことをいうが、低木・地被植物についてもいう。日本語には、並(なら)んで立っている木々を指す「並木(なみき)」という表現があり、街路樹の多くは市街地の道路に沿って複数並んで立っていることが多いので、そうした街路樹群を市街並木(しがいなみき)と呼ぶこともある。都市の美観の向上や道路環境の保全、歩行者等に日陰を提供することなどが目的である。一般に、歩道の車道寄りや中央分離帯に植えられる。街路には多くの制約があり、必ずしも等間隔で木が並んでいるわけではない。道の左右において非対称であることも多い。道の片側にしかない場合もある。古くは今から3000年ほど前に、インド・カルカッタからアフガニスタンまでを結ぶグランド・トランクに街路樹が設けられたという。(→歴史)街路樹の法的な位置付けは国ごとに異なる。管理の程度やその方法も国ごとに様々である。パリなどでは、街路樹に適する大きさについても判断しており、適切な大きさの木へ植え替えが行われていることが多い。日本では、大きくなりすぎても植え変えないことが多い。世界で最も古い街路樹は、約3000年前にヒマラヤ山麓に造られた街路、グランド・トランク()に列植された樹木とされる。グランド・トランクは、インドのカルカッタ(コルカタ)からアフガニスタン国境につながる幹線街路で、一部に石が敷かれ、道の左右と中央に樹木が列植された。また、中国でも約2500年前の周代には、すでに壮大な街路樹や並木が造られていた。日本では、6世紀後半の敏達天皇の治世に、難波の市にクワの並木を作ったとされ、8世紀半ばの聖武天皇の治世には、平城京にタチバナとヤナギの並木が作られた。また、光明皇后は貧しい人が飢えないよう、都大路にモモとナシの木を植えて並木道にしたと言われる。さらに、754年(天平勝宝6年)に帰朝した遣唐使の僧・普照は、唐の諸制度とともに、並木・街路樹の状況も奏上した。普照の奏状には、「道路は百姓が絶えず行き来しているから、樹があればその傍らで休息することができ、夏は暑さを避け、飢えれば果樹の実を採って食べることができる」と記された。これを受けて、759年(天平宝字3年)、太政官符で畿内七道諸国駅路の両辺に果樹となる並木・街路樹の植栽を決めた。これが日本における行政主導の街路樹のはじめである。8世紀後半の桓武天皇の治世には、平安京にヤナギとエンジュが約17メートル間隔に植えられ、地方にも果樹の並木が植栽された。鎌倉時代にはサクラ、ウメ、スギ、ヤナギの並木が植えられた。戦国時代には、織田信長が旅人の安全、快適な交通を確保するために並木道を作ったと言われる。江戸時代には、街道網が整備され、マツ、スギ、ケヤキなどが植えられた。街道には並木が作られるとともに、1里(約4キロメートル)ごとに一里塚が造られ、距離の目印、休憩場所として利用されるようになった。また市街地の川沿いの道などにはヤナギやマツが植えられた。開国後には、1867年(慶応3年)、横浜市の馬車道にヤナギとマツが植えられた(1979年、横浜市は馬車道に石碑「近代街路樹発祥之地」を建てた。これに対し、近代の定義が曖昧な事に疑問を呈する人々もいる)。東京の都市緑化事業での街路樹は、1874年(明治7年)、銀座通りにサクラとクロマツが植えられたのが始まりである。しかし、木の成長が悪く、1884年(明治17年)にシダレヤナギに植え替えられた。1906年(明治39年)に長岡安平が林学博士・白沢保美と子爵・福羽逸人(ふくばいつせん)に計画依頼し、街路樹の改良計画が急速に進展した。1907年(明治40年)、両者により街路樹の改良計画が立てられる。10樹種が街路樹として選定・植栽され、現在の街路樹の元となり、今まで継承される樹種の基本となった。スズカケノキ、イチョウ、ユリノキ、アオギリ、トチノキ、トウカエデ、エンジュ、ミズキ、トネリコ、アカメガシワ(以上10種)街路は木にとって楽な環境ではない。自動車の排気ガスを浴びることが障害の筆頭で、植えられる土が狭く固い場合(そうならない方が例外である)には、それも問題になる。これらには耐性が強い樹種と弱い樹種がある。20世紀後半から各地で街路樹に夜間の電飾をかけるようになったが、これも木にとっては負担要素である。成長すると、信号や標識の視認を確保するため、枝を払う必要が出てくるが、これにも耐性の違いがある。さらに気候の適性があり、木の寿命の長さも考慮の要素である。以上のように様々な要素が組み合わさるが、結果として現代では落葉樹、広葉樹が好まれている。ただ、樹種選択のせいで直ちに失敗する例は少なく、たいていの木はある程度の負荷に耐えうる。また、いずれにせよ樹木とて不老不死ではない。そこで、不利な種を厳しく排除することなく、様々な街路樹を認める考えがある。21世紀初めには、その土地に昔から自生してきた樹種を優先しようという考えも登場している。また、後述のように街路樹には効果と弊害が存在する。効果自体が、裏返せば、弊害そのものであることもある(例:風を防ぐ→風通しが悪くなる→汚れた空気・においがこもる、熱がこもり暑くなる)。従って、効果を大義名分に樹種を選択し植栽すると、後に大きな弊害をもたらし、各種公共事業で批判されているように、効果以上の多大な弊害、税金の無駄遣い、維持費不足などの問題が発生する恐れがある。そのため、将来を見据え弊害を回避した選択・植栽を心がけることは、その木が効果を本当に発揮することにもつながる。街路樹の主な効果を以下に挙げる。これら効果の中には、国・地域などに特有のものや、落葉樹で葉がない時期には効果が低減する場合がある。街路樹による二酸化炭素の吸収の検討は、植栽及び維持、管理によって排出される分を考慮しなければ意味が無い。国土技術政策総合研究所の委託による資料によると、樹高3.5mのケヤキを50年間植える事により、消費される燃料と比較すると、正味での吸収が期待される。しかし、同資料では、焼却による排出は含まれていない。街路樹は毎年剪定される事も珍しくなく、発生する材の処分方法として焼却は極めて普通である。また、樹木はいつかは枯れる(街路樹では事故や道路整備により、撤去に至る事もある)。もしも全ての発生材を焼却した時は、当然、維持のために排出した二酸化炭素が、正味の排出となる。なお、同資料は随意契約によって作られ、契約金額は約500万円である。モータリゼーションの発達した都市の道路沿い(道路上)という自然界の木とは全く異なる特殊な環境に人為的に植えられた現代の街路樹は、森林や公園などの木々とは異なり、それらの木々では起こりにくい都市機能や生活環境に支障をきたす様々な弊害(環境負荷・公害)を生み出している。街路樹を植えることにより、景観を良くするつもりが、かえって悪化してしまったり、道路公害に苦しむ道路沿いに住む人々を助けるつもりが、さらに痛めつけることになってしまったり、ただでさえ危険の多い道路に、さらに事故などの原因となりうる危険な木を植えることにより、ますます危険になってしまったりと、税金で苦痛や災いを作るような結果になってしまっていることが多々ある。日本では、将来のことをよく考えずに、行政など一部の人間の決定によって、半ば強制的に植えられた街路樹が市民の苦痛や災いの原因になっている事例など、各地で様々な問題が生じているが、景観・緑化・環境(環境問題)などの名のもとの植栽意見により、街路樹は植栽され続けている。しかし、災害時などに街路樹は人命を奪う凶器となることもある。日本は台風や地震が多く気候も異なるのでパリやニューヨークなどと同じように街路樹を植えると、より多くの弊害が発生してしまう恐れがある。そのため、むやみやたらと木を植えればよい訳ではなく、その土地の気候・地形・町並み・交通安全・住環境・防犯・災害時の危険性・弊害に直接さらされる道路沿いに住む人々の生活・意見などを十分に考慮し、特定の住民に大きな不利益をもたらしたり、事故を誘発したりすることがないように、その土地に適した樹木を選び、適度な間隔で適当な本数を適切な箇所に植栽する(場合によっては植栽しない)ことが望ましい。そして、植えられた街路樹については管理を怠らず定期的な点検・剪定・清掃などのメンテナンスをしっかりと行い、異常や危険などの問題が発見された際は素早く治療・移植・伐採除去などの適切な対応をとり、事前に事故などの被害を回避することが求められる。そのためには、すべてのことを行政任せにせず、市民も日頃から身近な道路・街路樹に対して関心を持つことも大切である。そして、それらのことを達成するためには街路樹(苗木)が植栽されて数十年後、大きく成長した際にはどのような弊害が発生するのかをあらかじめ想定し、よく理解しておくことが重要である。想定される主な街路樹の弊害を以下に挙げる。これら弊害の中には、国・地域などに特有のものや、落葉樹で葉がない時期には弊害が低減するものもある(街路樹の弊害は、同じように道路上に存在する電柱の弊害と共通するものも多い)。
出典:wikipedia
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