海部 俊樹(かいふ としき、1931年〈昭和6年〉1月2日 - )は、日本の政治家。勲等は桐花大綬章。衆議院議員(16期)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、内閣総理大臣(第76・77代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。国際天文学連合(IAU)会長の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、トヨタ自動車元副社長の小野茂勝の従弟である。初当選以来、三木派に所属し、三木武夫の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家として三木を尊敬し、「わかりやすく、きれいな政治」を信条としている。「理想の政治家は?」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答していたほどである。三木が総裁選で田中角栄に敗れた時には人目をはばからず号泣したという逸話もある。ただし、引退後の回想録『政治とカネ』で「三木もそれなりに買収工作をやっていた、金を貰った議員がみんな三木に入れていれば結果は変わっていた」と海部自ら暴露している。三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本敏夫を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名された。ニューリーダーの次を狙う政治家として橋本龍太郎、藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれた。早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」とも言われた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは」と囁かれたこともある。代表的な文教族であり、福田赳夫内閣と第2次中曽根内閣で2度文部大臣を務めている。文部大臣時代の業績として、「共通一次試験」の導入があげられる。また「青年海外協力隊」の生みの親のひとりとしても知られている。宇野宗佑が第15回参議院議員通常選挙の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。リクルート事件で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「時計の針を進めず、戻さず」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門会(早稲田大学)として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた(派閥の長である河本敏夫も総裁候補の一人だったが、高齢などのため見送られ、河本は海部を支える姿勢を明確にした)。自由民主党総裁選挙では海部の他に林義郎と石原慎太郎も出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自由民主党総裁に選ばれた。参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。首班指名選挙では、自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき両院協議会で協議されたが、両院の意見は一致せず、衆議院で指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。海部は初の昭和生まれの首相でもある。海部が首相に就任した頃は、いわゆるリクルート事件などによって国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家に代わり(リクルート・パージ)、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。第1次海部内閣発足直後、内閣官房長官山下徳夫の女性スキャンダルが発覚する。海部はすぐさま山下を更迭し、環境庁長官森山真弓を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させ(後任の環境庁長官は志賀節)、各種行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指した。結果、1990年の第39回衆議院議員総選挙で自民党を大勝に導く。党内基盤が脆弱であった海部は、自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなかった。石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた」と記され、自民党幹事長の小沢一郎からも「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と酷評され、金竹小が海部以上に強い影響力を持っていた。1991年、小沢主導により湾岸戦争の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供する。当初、戦後クウェートの新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が掲示されなかったが、その後改められた。この施策に関し、保守層からは「金だけだして人出さない」「似非国際貢献」「一国平和主義」などと罵られ、左派からも「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した」と強く批判されるなど、左右の知識人から強い批判を浴びた。停戦後、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、小選挙区導入反対派の加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の「YKK」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。六四天安門事件後、世界から孤立しかかった中国に天安門事件後の西側先進国首脳では初めて訪問して円借款を再開させた。海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に天安門広場で献花を行ったという。事実であれば、他国の現職首脳が訪中時に自由に行動できるわけもなく、海部による天安門事件の犠牲者追悼は中国政府による了承のもとの行為だったことになる。政策の目玉として取り組んだ政治改革関連法案が国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱がおこった(海部おろし)。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派親小沢勢力でさえ明確に解散不支持を表明したため、海部は結局解散に踏み切ることができなかった。また、それまで海部を支持してきた竹下派親小沢勢力が海部の不支持を表明し、宮澤喜一、三塚博、渡辺美智雄ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明した。これにより、海部を支持するのは自身の派閥である小派閥の河本派だけとなり、総裁選に再選できる道は閉ざされ、第2次海部改造内閣は内閣総辞職に追い込まれた。この件について海部は後に、「重大な意思で臨む」を何者かにより「重大な決意で臨む」に置き換えられたと語り、意図的に海部を総理の座から引きずり降ろす動きがあったことを暗に示唆している。在任中は竹下派に手足を縛られ、思い通りの政権運営はままならなかったが、決定的な失政があったわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった。首相在任日数818日間は、日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して離党した。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。その数日後正式に離党し、自由改革連合を結成して代表に就任、新進党を結党して初代党首となる。新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。保守新党に改組して臨んだ2003年に第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣河本派の後継である高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。自民党復党の折には自民党幹事長安倍晋三から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で岡本充功に敗れた。信念から重複立候補をしなかったため落選し、同日、政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされる。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲以来46年振り、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップだった。このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところであった。政界引退後は、世界連邦運動協会会長、日本ソフトテニス連盟会長、大正琴協会理事長、日本ティーボール協会会長などを務める。また、三木睦子が理事を務める中央政策研究所では最高顧問を務める。2010年には回想録『政治とカネ』を新潮新書から出版した。2011年、桐花大綬章、名誉愛知県民章を受章。2012年3月、中華民国の国立中央大学より名誉博士称号を授与される。同年9月、自民党総裁選に立候補した町村信孝の表敬訪問を受け、激励した。2014年からは中日新聞県内版(愛知県向け紙面)に『海部俊樹回想録』を連載している。南京事件については「大虐殺説」肯定論者である。2010年に中国の招待で訪中した際に南京大虐殺論争に触れ、「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行った。水玉模様のネクタイがトレードマークである。これは、三木内閣の官房副長官時代、スト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬ事から、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていた事を視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである(討論番組そのものでは当時公共企業体等労働組合協議会事務局長であった富塚三夫に対して一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった)。首相時代には水玉模様のネクタイばかり600本以上も持っていたと語っており、広島と長崎の平和記念式典にも黒地に黒の水玉模様のネクタイをして出席していたほどの徹底ぶりであった(表向きは喪服用の黒いネクタイだが、明るい場所で見ると仄かに水玉模様が見える)。また、昭和天皇の大喪の礼でも同じく黒地に黒の水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。旧制東海中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、旧制中央大学専門部法科入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍。同大学卒業後、一旦は法務省に事務官として入省するも退職し、同郷の代議士河野金昇の書生(議員秘書)を務め、河野の母校でもある早稲田大学第二法学部法律学科へ編入学し、早稲田大学雄弁会に所属。早大在学中は雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りに勤しんだ。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった早稲田大学総長の時子山常三郎から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されている。同年代の雄弁会仲間には渡部恒三などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となって、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となった。1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬して一期務めた未亡人河野孝子の後継者として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し当選した。この時29歳であったことから「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していたためこの言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会などの挨拶におけるネタにしていた。ところが、初当選から29年後の1989年、諸々の条件が重なり、偶然ではあるものの、海部は公言通り総理大臣に就任した。1990年、アメリカ・ヒューストンで開催された第16回先進国首脳会議における首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、アメリカ合衆国大統領ブッシュ、イギリス首相サッチャー、カナダ首相マルルーニーが爆笑している場面の写真が全世界に配信された。海部によれば、以下のようなやり取りが合ったという。首相就任中の1991年に放映されたテレビアニメ『ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え』に登場するゲストキャラクター「海辺(うみべ)首相」のモデルとなっている。ちなみに、海辺首相の口癖は「幹事長とも相談しますが」であり、当時の自民党幹事長小沢一郎との力関係を揶揄したパロディとなっている。首相退任後、バラエティ番組『三枝の愛ラブ!爆笑クリニック』に夫婦で出演した。若年の頃から三木武夫を政治家として尊敬して親交を持ち、三木睦子からは息子のように可愛がられた。睦子から「俊樹ちゃん」と呼ばれている姿がテレビなどで報じられるうち、いつしか視聴者の間でも「俊樹ちゃん」が愛称として定着した。記録的な長寿で話題となった双子姉妹、成田きんと蟹江ぎんは生前、「尊敬する政治家」として海部の名を挙げていた。長渕の曲「親知らず」の歌詞の中に、ミハイル・ゴルバチョフ、サッダーム・フセイン、ジョージ・H・W・ブッシュと共に登場する。
出典:wikipedia
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