S-75()は、ソビエト連邦が開発した高高度防空ミサイル・システム。歴史上最も多く配備され使用された地対空ミサイルである。NATOコードネームではSA-2 ガイドライン()と呼ばれており、日本や西側諸国では一般にこちらの方が通りが良い。S-75の開発は、ラボーチキン設計局が担当し、1953年に始まった。そのコンセプトは、戦略爆撃機のような大型で機動性が重視されない敵機を目標とする中型地対空ミサイルであった。ソ連は既に(NATOコードネーム:SA-1 ギルド)を開発していたが、S-75はより高度なシステムを用い、かつ全国配備を目指していた。1957年には早くも部隊配備が始まり、これにあわせて国土防空軍も地対空ミサイル部隊を発足させている。同年行われた赤の広場での革命記念パレードにおいて初めて一般(および西側関係者)の知るところとなった。ミサイル中央部には4枚の安定翼、後端部に4枚の大型制動翼が付けられ、先端部と中央安定翼の後ろには小型の補助翼がある。ミサイルは2段式で、まず固体燃料ロケット・ブースタ-(燃焼時間4.5秒)により発射し、ブースター切り離し後は液体燃料ロケット・モーターで推進する。ミサイルの最大射程は30km(一部の型は43km)、最大射高は28,000mである。ミサイルは専用のトレーラーに乗せてトラックで牽引される。発射には専用の発射架を用いる。敵機の探索には(NATOコードネーム: (スプーンレスト))警戒レーダーが担当した。スプーンレストは約275km先まで探知することができた。初期の警戒レーダーは(NATOコードネーム: (ナイフレストA))や(NATOコードネーム: (ナイフレストB))が使用されたが、もちろんスプーンレストよりやや能力が劣る。ベトナム戦争で北ベトナムが用いたのは主にナイフレストであった。連隊規模ではこの他に(NATOコードネーム: (フラットフェイスA))」警戒レーダー(探知範囲250km)や(NATOコードネーム:(サイドネット))高角測定レーダー(探知範囲180km)と呼ばれるレーダーも使用される。S-75の誘導に直接関わるのは(NATOコードネーム: (ファンソング))追尾・である。上記の警戒レーダーが目標を探知すると、その情報は地対空ミサイル中隊のファンソングに有線あるいは無線を通じて送られる。ファンソングは目標を捕捉すると敵機のデータを大隊の射撃管制装置に送る。この際ファンソングは最大6目標までの同時追尾とそのうち1目標との交戦が可能である。ファンソングは交戦目標に対しUHFビームを照射し、発射後のミサイルはこのビームに沿って飛行する。ファンソングはこの間も敵機の追尾を続けており、その情報はミサイルの翼についたアンテナに送られ、最終的に敵機に命中するよう誘導される。この「ビームライディング」方式の欠点は、たとえ有効射程内であってもレーダーが低空領域をカバーしていない以上、低空(S-75の場合高度3,000m以下)を飛ぶ敵機に対して効果が薄いことである。また、ミサイルの命中率はお世辞にもいいとは言えず、CEP(半数必中界:ミサイルが50%の割合で必ず到達する目標からの距離)は70mを超える。一方、弾頭には195kgの高性能炸薬が詰めてあるが、これがもたらす危害半径は20m以下である。後には危害半径を増大させるため、弾頭に15ktの核を選択的に搭載できるようになったタイプもある。西側の関係者にS-75を強く印象づけたのは、1960年5月1日に起こったU-2撃墜事件である。超高高度からソ連上空へ領空侵犯するアメリカ空軍のU-2 偵察機に対し、ソ連防空軍は戦闘機で迎撃を試みたが、成果は上がらなかった。この状況を変えたのがS-75である。1960年5月1日、フランシス・ゲーリー・パワーズの操縦するU-2は、ソ連側の警戒レーダーによって捕捉された。次に要撃機が発進し、最終的に14発のS-75発射によってU-2は撃墜された。この他中国、キューバでもS-75によるU-2撃墜が記録されている。戦闘における初のS-75使用は、1965年に勃発した第二次印パ戦争である。インド軍のS-75が、パキスタン空軍機1機を撃墜し、その後のパキスタン空軍の作戦行動に重大な影響を与えている。S-75が大規模に投入されたのはベトナム戦争である。北ベトナム(当時)へのS-75の配備は1965年半ばに開始され、同年7月には初撃墜を記録した(被撃墜機はF-4 ファントムII 戦闘機)。しかし、本来大型航空機を目標に開発されたS-75で戦闘機に対処することは困難で、加えてアメリカ軍がECM(電磁妨害装置)を使用するようになると撃墜率はさらに低下した。1965年の段階で5.7%(11機撃墜/194発)、1968年には0.9%(3/322)となっている。ベトナム戦争におけるS-75の評価は直接的な撃墜だけはでなく、システムの一部として捉える必要がある。S-75によってアメリカ軍は航空戦力の一部をワイルド・ウィーゼル(SAM制圧任務)に割く必要が生じた。ミサイルを回避する機動は多量の燃料を消費するので、それを利用して米軍機にミッションを放棄させる戦術(ミッションキル)も多用された。ミサイルによって米軍機を低高度に追い込み、対空砲で撃墜する戦術もよく知られている。ベトナム戦争終結までに4,000発以上のソ連製対空ミサイル(1972年からはS-125 ネヴァー(NATOコードネーム:SA-3 ゴア)も投入されている)が発射され、これによって撃墜された米軍機は100機近くにのぼっている。ベトナム戦争中、S-75は1972年に一度だけ設計意図であった戦略爆撃機迎撃に用いられた。ハノイ爆撃に出撃したB-52は、密集隊形を組み相互にECMでカバーしていたが、北ベトナム側は爆撃後、帰還のための旋回で密集体系が崩れる瞬間を待っていた。北ベトナム側は電子妨害を受けながらも、B-52の旋回ポイントに向けて無誘導のまま大量のS-75を撃ち込んだ。ミサイルは、彼らの期待通り旋回の瞬間に到達し、最終的に14機のB-52が撃墜された。S-75は、インド、ベトナムのほかにもソ連と関係の深かった勢力に輸出され、一部はライセンス生産されている(中国のHQ-2など)。また、輸出先で行われた中東戦争、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、ユーゴスラビア紛争など様々な戦争で使用され「世界一多くの実戦を経験したSAM」「史上最も多く発射されたSAM」と呼ばれる。輸出されたS-75の一部は地対地ミサイルとして使われ、中国はこれを元に射程150km程度の地対地ミサイル(NATOコード:CSS-8)を開発している。また、ソ連では1960年代にS-75の艦載型(NATOコード:SA-N-2A)を開発したが、採用には至らなかった。開発から半世紀を経たS-75は、ロシアを含め多くの国で退役しているが、一部は現役である。軍事評論家の江畑謙介によれば、北朝鮮が開発した弾道ミサイル、テポドン1号の弾頭切り離し時に使用するキック・モーターには同国で使用されているS-75のブースターが使用されているとされる。長らくキット化されなかったが、2003年に中国の模型メーカートランペッターから1/35スケールでトラック牽引状態(エジプト/ソビエト連邦軍および中国人民解放軍のHQ-2の2種)と発射架に載せられたバージョンの合計3つのラインナップで発売された。このほか、グラン(Gran)他1社から1/72模型が発売されている。
出典:wikipedia
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