『ファイト・クラブ』("Fight Club")は、1999年製作のアメリカ映画。日本では1999年12月11日に20世紀フォックス配給により、日比谷映画他、全国東宝洋画系にて公開された。チャック・パラニュークの同名小説の映画化。物語は、「僕(I)」の視点で進行する。「僕」(エドワード・ノートン)は、自動車会社に勤務し、全米を飛び回りながら、リコールの調査をしている平凡な会社員である。高級コンドミニアムに、イケアのデザイン家具、職人手作りの食器、カルバン・クラインやアルマーニの高級ブランド衣類などを強迫観念に駆られるように買い揃え、雑誌に出てくるような完璧な生活空間を実現させ、物質的には何不自由ない生活を送っていた。一方で、僕の精神の方は一向に落ち着かず、不眠症という大きな悩みがあった。僕は、精神科の医者に苦しみを訴えるが、医者から「世の中にはもっと大きな苦しみを持ったものがいる」と言われ、睾丸ガン患者の集いを紹介される。そこで僕は、睾丸を失った男たちの悲痛な告白を聞くと、自然と感極まり、これを契機に不眠症は改善した。これが癖になった僕は、末期ガン患者や結核患者などの自助グループにニセの患者として通うようになり、そこで僕と同じく偽の患者としてさまざまな互助グループに現れる女・マーラ(ヘレナ・ボナム=カーター)と出会う。どう見ても不治の病を患っているように見えない彼女が、会に参加することで泣くことができなくなり、再び不眠症が悪化してしまう。そんなある日、出張中に自宅のコンドミニアムで爆発事故が起こり、買い揃えた家具もブランド衣服もすべてを失ってしまう。家の無くなった僕は、出張途中の機内で知り合った石鹸の行商人タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)に救いの手を求めた。バーで待ちあわせたタイラーは、僕とは正反対の性格で、ユーモアあふれる危険な男だった。タイラーは、バーを出た後、駐車場で僕にある頼みをする。「力いっぱい俺を殴ってくれ」。そして、僕と彼は、ふざけ合いながらも本気の殴り合いを始める。殴り合いでボロボロになった二人は、痛みの中で生きている実感を取り戻した気になった。以後、二人は、ときどき同様の殴り合いをするようになり、それを見ていた酔っ払いが殴りあいに参加し始め、やがて駐車場での殴り合いは毎晩のように行われるようになる。そのうち、場所を地下室に移し、大勢の男達が集まる1対1の「ファイト(喧嘩)」を行う秘密の集まりへと変わっていった。タイラーは、これをファイト・クラブと呼び、全員が公平に殴り合いに参加するためのルールを作っていった。「ファイト・クラブ ルールその1、ファイト・クラブのことを決して口外するな」。社会での地位と「ファイト・クラブ」での強さは、関係なかった。会社では“できない”男であっても、「ファイト・クラブ」では自分よりマッチョな男を殴り倒した。本来の「男」としての強さを持ったものでも、現代社会での立場は非常に弱いものだったのだ。僕は痣だらけの顔で会社に通っていたがもはや不眠は感じなかった。僕はタイラーの住む廃屋で二人暮らしをし、博識なタイラーから偽善に満ちた世の中の仕組みや誰でもできる簡単なテロの方法の話などを聞いて楽しみ、高級痩身クリニックから捨てられた人間の脂肪を盗み、脂肪から石鹸を作って売る副業を行った。ある日、マーラから僕に、薬の飲みすぎで死にそうだから助けてほしいという電話がかかってくるが、僕は無視して受話器を放置した。しかし、その受話器をタイラーが拾い、タイラーがマーラのところに向かったらしい。タイラーとマーラは親密になり、僕との不安定な三人暮らしが始まる。僕は、タイラーとマーラの猛烈なセックスの音と、タイラーが自分を置き去りにして「ファイト・クラブ」のメンバーたちとなにかを行っていることに苛立ちを感じ始める。タイラーは、「ファイト・クラブ」の男たちに対して、昼間の平凡人としての時間に、ケンカを売ってわざと負けろという「宿題」を出す。メンバーたちは町中で、店の客や通行人とケンカを始める。僕も「宿題」に取り組む。上司に会社のリコール隠しをばらしてやると静かながらも確かな恐喝を始め、彼の前で自分で自分を殴ってぼろぼろになり、物音を聞いて駆けつけた他の社員の前で上司に暴行されたと吹聴し、訴訟を恐れた会社から在宅勤務の権利を認められ自由の身になった。タイラーの「ファイト・クラブ」メンバーに対する試練、自己滅却への扇動はさらに続いていたが、僕は蚊帳の外になっていた。メンバーの中から黒い服を着た「スペース・モンキーズ」と称する集団が現れ、僕らの住む廃屋の地下で作業を開始した。モンキーズはみな自分の名前を捨てており、僕にすらも自分たちに与えられた目的を明かさなかった。疎外された僕にはタイラーの居場所もわからなくなっていた。やがて「ファイト・クラブ」は、現代の社会構造や物質至上主義・消費主義に疑問を持つ男たちの集まりへと徐々に姿を変えてゆき、タイラーの発案した「騒乱計画(プロジェクト・メイヘム)」、すなわち社会的権威に対する破壊工作を実行するためのテロリスト集団に変貌していった。「騒乱計画 ルールその1、騒乱計画について質問するな」。僕はこのルールにより騒乱計画が具体的にどのようなものか知ることができなかった。最初は大資本によるファストフード・チェーン店や都心に鎮座するパブリック・アートなどに対するいたずらじみた行為であったが、破壊活動中に「スペース・モンキーズ」の中から死者も出ることになる。これに対し警察は、社会秩序を不安に陥れる破壊行為と戦う対策を発表しようとするが、直前に会見場に乗り込んだタイラーとモンキーズは警察首脳を拉致・脅迫して対策発表を辞めさせた。僕はタイラーと再会するが彼は狂信者たちに囲まれており、タイラーの持つ死とすれすれの危険な自己破壊衝動は確実に強まっていた。僕は、タイラーの去った部屋から全米を飛び回った跡のある使用済み航空券を見つけ、彼の足取りをたどる。タイラーは全米のどの大都市にも「ファイト・クラブ」を作っており、どこでも「騒乱計画」の犠牲者は聖者として讃えられていた。そんな中、ファイト・クラブのメンバーのいた店で、見知らぬ店主に話しかけられた僕が、自分は誰なのかと問うと、店主は「あなたはダーデンさんです」と答えた。僕が慌ててマーラに電話で自分の正体を確認してみると、再びタイラーが目の前に現れた。タイラーは自らの正体を「『僕』にとっての理想の姿、もう一つの人格(オルター・エゴ)」だと明かした。僕が夜中に不眠症になっていたのは、別人格のタイラーとして映画館やレストランで働いていたからであり、爆発事故の真相は、雑誌や流行に踊らされて買った品物ばかりの虚飾に満ちた部屋をタイラーとしての僕が破壊したのであり、タイラーと僕との殴りあいも僕が自分で自分にパンチを浴びせていただけであり、マーラとのセックスも「騒乱計画」の指令もすべてタイラーとしての僕が行っていたことだった。僕はこれを聞いて意識を失ってしまう。気が付くとタイラーはおらず、「スペース・モンキーズ」も地下室から忽然と消えていた。僕は彼らの残したメモから市内各所にある銀行・クレジットカードなど、資本主義システムを司り全米の個人のローンや資産を管理する大企業各社のビルに対する同時爆破テロが計画されていることを知る。強い衝撃と後悔に見舞われた僕は警察へ自首するが、応対した警官までもが騒乱計画の一員であり「邪魔するものはタイラー本人であろうと排除せよ」というタイラーの命令に従い襲ってくる。辛くも警察から逃れた僕は単身、爆破を止めるため街中を駆け抜け、計画の証拠資料を頼りに深夜のビル街へと辿り着いた。
ビルの地下駐車場で爆弾の在処のひとつを突き止めた僕は「タイラーが、つまり自分が仕掛けた爆弾なら自分で解除できるはずだ」と気づき一旦は爆弾の停止に成功するものの、その場に現れたタイラーは妨害を許さず僕との仲は遂に決裂、彼との「殴りあい」に敗れ僕は意識を失い、それによりタイラーに身体の支配を奪われ爆弾は再セットされた。
意識が戻るとそこは無人のビルの高層階で、タイラーは僕の口内に銃を突きつけていた。さらに、僕は窓からマーラがスペース・モンキーズに捕まり、連れて来られるのを目撃する。もはや僕に勝ち目は無いと思われたが、僕は「タイラーが銃を持っているということは、僕が銃を持っていることだ」と気づく。そう気づくと銃は僕の手に握られており、僕は自分で自分ののどを撃ち抜いた。弾丸は急所をそれ、僕は死ななかったが別人格タイラーは消えうせた。僕はスペース・モンキーズに連れて来られたマーラと抱き合うが、既にテロ決行までの時間はなかった。二人は手をつなぎ、金融会社の高層ビルが次々と崩壊する様をただ見つめていた。本作は、小説、映画とも主人公の一人称視点で進行するが、主人公の名前は終盤まで明らかにされない。作品の映画版のクレジットでは「ナレーター(Narrator)」と表記されている。便宜上、映画版で主人公が朗読する古本に書かれている人物の名を取って「ジャック」と呼ぶ場合がある。映画ではサブリミナルでタイラーのイメージが挿入されている部分がある。これらは主人公がタイラーに出会う前、オフィスや空港での日常シーンで不意に数コマタイラーの姿が挿入されたり、よく見ると主人公とすれ違う人物の中にタイラーがいる、ホテルのCM中に勢ぞろいした従業員の中にタイラーがいる、といった具合である。また、この映画の根底に流れる男性性にダメ押しをするかのように、ラストシーンにほんの数コマペニスが写っている。Blu-ray版では、公開当時やDVD版で規制の問題でカットされていたサブリミナルカットが復活しており、ラストシーンのペニスのコマが無修正で収録されている。この映画の舞台は、アメリカのどこにでもありそうな大都市のひとつであるが、具体的にウィルミントンではないかと指摘する声もある。ウィルミントンは多くの大資本、とりわけクレジットカード会社などが本拠を置く金融都市である。映画中に登場する郵便番号はウィルミントンのものであり、劇中で言及されるニューキャッスル、デラウェアシティ、ペンズグローブといった街はウィルミントンの近くにある。主人公の住むコンドミニアムに書いてあるモットー「A Place To Be Somebody(大人物になるための場所)」はウィルミントン市のモットーと同じである。またラスト近くに出てくる街路の名もウィルミントンに実在する(金融エリアを実際に通っているわけではない)。映画製作にあたり、ウィルミントンでのロケが意図されていたが、市当局は模倣犯が出るのを恐れ撮影を拒絶した。このためほとんどのシーンはロサンゼルスとその近郊で撮られている。小説版との違いは多い。小説の膨大なセリフ(特に主人公の独白)は、映画版では発言の主がタイラーほか数人の登場人物に変更されている。また小説版では主人公とタイラーとの出会いの場がヌードビーチである点、小説版では主人公は騒乱計画に積極的に関わっており、疎外されている描写はないなどの違いがある。飛行機の中や借家のキッチンの場面でタイラーの口から語られる手製爆弾の製法を説明するセリフも、原作とは変更されている。またロバート・ポールセン(ボブ)が騒乱計画の途中殺された経緯も変更されている。小説版ではATMにドリルで穴を開けて中身をどろどろしたもので満たそうとしていたところ、巡回中の警官に見つかり無線ドリルを銃と誤認されて射殺されたというものである。騒乱計画の目的について、映画版では主人公が推測するだけであるが、究極的な目的は小説版では描かれている。これは新しい暗黒時代をつくりだすことで人類の技術の進歩を遅らせることにある。また、主人公が属するジェネレーションXの不満を代表して行う歴史の消去も計画の目的の一つである。ビルを爆破する目的は、小説版ではビルを横倒しにして隣にある国立美術館を押し潰すことにある。2001年のアメリカ同時多発テロを、欧米先進国の資本主義社会・グローバリズムにあえぐ市民の立場から、予見した作品。実際、同時多発テロ直後の、実行犯が特定されていない段階においてのマスコミの論調でも、反グローバリズム活動家とイスラム過激派、双方の犯行の可能性が語られていた。アメリカでは反響を呼び、余り注目されていなかった小説版とその作家に脚光があたるきっかけになった。評論家からは(映画内で死んでいるのは一人にもかかわらず)あまりにも暴力的だと非難された上、公開当初は製作費を回収できずフォックス重役が何人も解雇される事態となった。ロジャー・イーバートはこの映画をいみじくも「マッチョ・ポルノ」と評している。2012年現在ではIMDbで『時計じかけのオレンジ』、『タクシー・ドライバー』などの名作を抑えて、ベスト20位台をキープしている。2008年に英国最大の映画雑誌『エンパイア』が、読者1万人、ハリウッドの映画関係者150人、映画評論家50人を対象に「過去最高の映画」に関するアンケート調査を行い「歴代最高の映画ランキング500(The 500 Greatest Movies of All Time)」を発表した。その結果、『ファイト・クラブ』が10位にランクインした。また、同年に同誌が「最高の映画キャラクター100人(The 100 Greatest Movie Characters)」の調査を行ったところ、栄えある1位に輝いたのは、『ファイト・クラブ』でブラット・ピットが演じたタイラー・ダーデンだった。
出典:wikipedia
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