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雁風呂

雁風呂(がんぶろ)とは、青森県津軽地方に伝わる、入浴を勧める風習の一つ。またそれにまつわる伝説。雁供養ともいう。日本に秋に飛来する雁は、木片を口にくわえ、または足でつかんで運んでくると信じられていた。渡りの途中、海上にて水面に木片を浮かべ、その上で休息するためであるという。日本の海岸まで来ると海上で休息する必要はなくなるため、不要となった木片はそこで一旦落とされる。そして春になると、再び落としておいた木片をくわえて海を渡って帰っていくのだと考えられていた。旅立ちの季節が終わりもう雁が来なくなっても海岸にまだ残っている木片があると、それは日本で死んだ雁のものであるとして、供養のために、旅人などに流木で焚いた風呂を振る舞ったという。渡りの際に雁が木片・小枝をくわえて渡ってくるという事象は見受けられず、伝説的な民話のようである。海岸に打ち寄せられた流木、木片を見て津軽の人々が想いを馳せたとも、遠く都の人々が雁の渡りのことを考えて創造した話ともされるが、出所ははっきりしない。また木片を落とす場所も函館の一つ松付近という説と津軽の海岸という説が見受けられる。該当する地方にこの雁風呂の風習がいつ頃あったのか、またそもそもそういった風習が存在したのか疑問の声もある。雁風呂に関する記述では『柳樽』に「雁風呂の長湯あとのがさきになり」とある。古句に「念仏にとる風呂蓋や雁供養 冬葉」、「雁風呂やあはれ幾羽のあたたかみ 文岱」など。また『採薬使記』(宝暦8年成る)なる文献に記述がある(世界大百科事典)。古典落語にはこの伝説を主題とした話がある。サゲがつく形式は上方のもので、桂三木助 (2代目)から三遊亭圓生 (6代目)に伝えられた。演者により細部が異なる。水戸黄門が江戸から上方へのお忍び旅の道中、昼食に訪れた掛川宿の飯屋に、「松に雁」、松の下に何やらが積んである不思議な絵の屏風があった。通りすがりの浪人者は、土佐将監(しょうげん)光信とあるが、松には鶴、雁には月を描くもので、光信ともあろう絵師がこの様な絵を描く筈はなく偽物だという。店の主も、購入した父親は家宝と言うが、この様なものを出してと店の者を叱り、売り付けた道具屋の愚痴を言う。黄門様はその絵の筆致は確かに光信と分かったが、やはり松に雁という図がよく分からない。訝しんでいる所に、江戸へ向かう二人連れの商人が到着し、昼食を注文する。ふと旦那の方が件の屏風に眼をやり、これは結構なものを見せて貰った、光信の絵だ、という。供の方も「雁風呂」と画題を見抜く。しかしこの絵を理解出来る者は少なかろうと旦那は嘆じる。「フシ穴」にされてしまった黄門様は、この商人の旦那に絵解きを依頼する。水戸黄門と知り恐縮しながらも、旦那は「雁風呂」の話を解説する。成程佳い話を聞かせて貰ったと喜ぶ黄門様。そして並みの商人ではないと思い名を訊ねると、旦那は大坂で一代で莫大な身上を築いた淀屋辰五郎の息子(二代目)であると身を明かす。かつて大坂一の金持ちで、淀屋橋を一建立で造るなどしたものの、奢りが過ぎて家を取り潰され、多くの奉公人らが路頭に迷っている。彼らのために大名を回り、以前貸した金の幾らかでも返して貰える様にお願いして歩いているが、咎人が何を申すかと取り付く島もないと歎く。僭上の沙汰ありとは全くの難癖、実際は金を借りるだけ借りて返済に困った大名達が、逃れるために権力を以て淀屋を潰したという実態を知っている黄門様は不憫に思う。一番の大口が柳沢美濃守の三千両であると知ると、ならばと黄門様は一筆したため、便宜を図ってやる。お墨付きを貰った淀屋は大層感謝する。黄門様が出発した後、お供の者が「旦那、上手いこといきましたなぁ。雁風呂の講釈をしただけで、もう諦めていました貸し金(かしがね)が、取れる訳でございますから」と言うと、淀屋「そらそうや、雁(かりがね)の講釈をしたんや」(お供「雁風呂の話一つで三千両とは、旦那、高い雁ですな」淀屋「その筈じゃ、貸し金を取りに行くのじゃ」)

出典:wikipedia

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