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木村篤太郎

木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年(明治19年)2月7日 - 1982年(昭和57年)8月8日)は、日本の政治家、検察官、弁護士、剣道家。検事総長(第19代)、第一東京弁護士会会長(第16代)、法務大臣(初代)、保安庁長官(初代)、防衛庁長官(初代)、全日本剣道連盟会長(初代)等を歴任した。法曹としては帝国弁護士会理事長、検事総長、第一東京弁護士会会長を歴任した。長く在野法曹で活動していた木村であったが、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用、続く吉田茂首相では司法大臣として初入閣し、日本国憲法の署名に名を連ねた。その後公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして吉田内閣に法務府初代総裁として再入閣。さらに1953年の参院選で奈良県から参議院議員に当選し、2期務めた。法務総裁・法務大臣としては日本共産党による暴力革命への懸念から治安対策の立案の中心となり、自ら提出した破壊活動防止法案を成立させた。血のメーデー事件では不信任案が提出されるものの、否決されこれを切り抜けている。また警察予備隊から保安隊へと繋がる再軍備政策にも関与し、保安庁長官(自衛隊発足後は防衛庁長官)や隊友会会長を務めた。長官在任中の1954年に予備自衛官制度を制定。政界引退後は1967年10月に自由民主党の院外団「自由民主党同志会」会長に就任し、死去するまでその座にあった。加えて街商組合(的屋の寄り合い)顧問の繋がりから院外団の政治活動の裏幹事的立場にもあり、法務総裁だった当時には警察力を補うため全国の博徒、的屋、愚連隊を結集した反共抜刀隊計画を元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛に持ちかけた。この動きは梅津の死後森田政治に引き継がれ、日本国粋会の結成に繋がっている。高校では撃剣部(剣道部)に入部し北辰一刀流の小林定之に剣道を学んだ。勉学より剣道を優先し早朝から稽古に励んだという。2年生のとき、剣道部員7人と家を借り、寮を出て自炊生活を始める。大学でも撃剣部に属して木下寿徳、山里忠徳、中山博道の師範に学んだ。出稽古に訪れた学習院院長乃木希典の相手を務めたこともあった。1941年、大日本武徳会剣道部会長に就任。同年、中倉清ら剣道家が流派派閥を超えた剣道会を作りたいと木村に相談し、木村は快諾して論語から「思斉会」と名付け、自ら会長に就任した。思斉会は第二次大戦後の剣道復興に多大な貢献をもたらすこととなった。終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令によって大日本武徳会は解散し、剣道の組織的活動は禁止され、木村も公職追放されたが、剣道復興に尽力した。1952年、禁止令が解除。同年10月14日、全日本剣道連盟発足と同時に会長に就任した。1974年、会長を退き名誉会長に就任。後任の会長は元最高裁判所長官石田和外であった。1985年、奈良県の芳徳寺正木坂剣禅道場に「木村篤太郎翁像」が建立された。日本刀を蒐集し、国宝・重文級のものはすべて財団法人刀剣博物館に寄贈した。愛刀は長曽禰虎徹興正。高齢になっても居合の稽古を欠かさず、剣道大会で居合を演武したこともあった。木村の生家は現在も五條市の新町通りに残っており、「まちや館」として勉強部屋や遺品が公開されている。

出典:wikipedia

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