LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ネオユニヴァース

ネオユニヴァース (2000年5月21日 - ) は日本の競走馬、種牡馬。2002年に中央競馬(JRA)でデビュー。2003年春、JRAが発行する短期免許で来日騎乗していたイタリア人騎手ミルコ・デムーロを鞍上に、皐月賞と東京優駿(日本ダービー)を制覇。秋には特例をもって再来日したデムーロと史上6頭目のクラシック三冠を懸けて菊花賞に臨んだが、3着と敗れこれを逃した。同年、JRA賞最優秀3歳牡馬に選出。2004年春に故障を生じ、同年秋に引退。通算13戦7勝。後にJRA所属騎手となるデムーロに、最初の中央GI勝利をもたらした馬である。2005年より種牡馬。GI・JpnI競走に優勝した産駒には、ドバイワールドカップなどGI競走3勝のヴィクトワールピサ、皐月賞と日本ダービーでそれぞれ本馬との父子制覇を達成しているアンライバルドとロジユニヴァースがいる。2000年、北海道千歳市の社台ファームに生まれる。父は1989年の全米年度代表馬であり、種牡馬として日本に輸入されて以降、リーディングサイアーの地位を占め続けていたサンデーサイレンス。母・ポインテッドパスはフランスで2戦0勝の成績だったが、日本への輸入前にカルヴァドス賞(G3)の勝利馬フェアリーパスを生んでいた。日本においてポインテッドパスはサンデーサイレンスとの交配が繰り返されていた。社台ファーム代表・吉田照哉によれば、幼駒の頃は馬体の形こそ良かったものの、脚長でひょろりとした頼りない姿であったという。兄のチョウカイリョウガ、アグネスプラネットがいずれも好馬体の持ち主だったこともあり、「馬体だけ比べるとどうしても見劣っていたネオユニヴァースが、それ以上の活躍をできるのかな、と思ってしまった」と回顧している。ただし誕生日が5月21日と遅生まれだったことから、やはり後年「成長が遅れていたわけだし、飛節の折りが深くて、やや腰が甘い感じに見えるのも、サンデーサイレンスそっくりの特徴だった」とも述べ、出生当時の自身の見立てが誤っていたとしている。調教を任されることになる瀬戸口勉は、細身ながら骨格があり、さらに動きに柔らかさもある様子を見て「そこそこ走ってくれるんじゃないか」という程度に考えたという。競走年齢の2歳に達した2002年、瀬戸口厩舎(栗東トレーニングセンター)に入る。僚馬には同世代の2歳王者となるエイシンチャンプがいた。調教ではエイシンチャンプともども後脚で立ち上がってしまうような面も見せていたが、調教騎乗を担当していた西谷誠は「乗り味が全然違う」とその素質を高く評価した。遅生まれだったこともあり、牧場では3歳でのデビューと見込んでいたが、調教は至極順調に進み、初戦は11月に迎えることになった。2002年11月9日、京都開催の新馬戦でデビュー。ネオユニヴァースは福永祐一を鞍上に1番人気の支持を受けると、2番手追走から抜け出し、2着に1馬身半差を付けて初勝利を挙げた。競走後、福永は検量室前で出迎えた瀬戸口らに「今までにこんな男馬に乗ったことがない。GI級ですよ」と語った。続く中京2歳ステークスでも1番人気に推されたが、最後の直線で2頭に交わされ、勝ち馬からタイム差なしの3着となる。しかし翌年1月の白梅賞では好位から抜け出して2勝目を挙げると、2月にはきさらぎ賞(GIII)で重賞に初出走。シンザン記念の2着馬マッキーマックス、同勝利馬のサイレントディールに次ぐ3番人気であったが、最終コーナーで先頭に立ってそのままゴールまで押しきり、サイレントディールを半馬身退けて勝利。福永は「まだデビュー戦の頃の出来には及ばない。もっと良くなる」と語った。この勝利でネオユニヴァースは春のクラシック戦線における有力馬の1頭となったが、前年12月に朝日杯フューチュリティステークス(GI)を制していた僚馬・エイシンチャンプも福永が騎手を務めており、福永の選択に注目が集まった。福永は瀬戸口とも相談のうえでエイシンチャンプに騎乗することになり、ネオユニヴァースには吉田照哉の推薦で、短期免許制度を利用して来日していたイタリア人騎手、ミルコ・デムーロが新たな鞍上として迎えられることになった。デムーロとの新コンビで迎えたスプリングステークス(GII)では、中団追走から第3~最終コーナーで先団に進出、1番人気のサクラプレジデントに1馬身4分の1差を付けて勝利した。この競走では15番枠から発走し、距離のロスになるとされる馬群の外側を終始回り続ける展開となっていたが、これは「中距離以上でスタミナがもつか」「騎手との折り合いを保てるか」という2点を確認するため、デムーロが意図して行ったものだった。後にデムーロはこの競走を回顧し、「調教と同様にレースでも折り合いの不安がなく、素晴らしい瞬発力と持久力を合わせもっていることが確認できた」と述べている。またこの頃には厩舎でシャンポンという装具を着けられたことで立ち上がる癖が矯正され、それまで余分な負担が掛かっていた後躯が強化されつつあったという。4月20日、クラシック三冠初戦・皐月賞(GI)を迎える。「混戦」という下馬評のなか、ネオユニヴァースはオッズ3.6倍の1番人気に支持された。レースは前半1000mが61秒7というスローペースで流れ、そのなかでネオユニヴァースは中団を追走。最終コーナーでは馬群の中で進路を失いかけたが、わずかに開いた隙間を突いて一気に抜け出すと、最後はサクラプレジデント(2番人気)との競り合いをアタマ差制しての優勝を果たした。ゴール直後には、デムーロが嬉しさのあまり、真横で俯く田中勝春(サクラプレジデント騎乗)の頭を叩いてしまうという場面もあった。この行動は物議を醸したが、デムーロに悪気はなく、田中が「ちょっと寂しそうな、悲しそうな顔」をしていたのをみて励ましたつもりであったという。なお、さらに3馬身半差の3着にはエイシンチャンプが入った。競走後、デムーロは「4コーナーでは前が横一線で入る隙がなく、このまま脚を余して負けるんじゃないかと思ったが、ラッキーなことに1頭分開いたので、迷わず突っ込みました。僕の馬は根性があるから、叩き合いなら負けないと信じていた。こんな大きなレースを勝てるなんて、最高のプレゼントをしてくださった神様に感謝したいです」と語った。また瀬戸口は、塞がった進路に隙間ができたこと、最後の競り合いに勝てたことについて「運があった」としつつ、デムーロの騎乗について「一瞬の判断というか、ひらめきというか、もの凄く良いものをもっている」と称えた。皐月賞のあとデムーロはイタリアに帰国。本国ではブルーノ・グリツェッティ厩舎と騎乗契約を結んでおり、グリツェッティの意向によっては続く東京優駿(日本ダービー)に騎乗できない可能性もあった。しかし吉田照哉が同厩舎に所有馬を預けていた縁もあり、デムーロは再びイタリアを離れ、日本で騎乗することを許される。そして6月1日、ネオユニヴァースとデムーロは日本ダービーへ出走。前日には台風の影響から大雨が降り、当日の馬場状態は「重」となった。ネオユニヴァースは単勝2.6倍で1番人気、サクラプレジデントが3.6倍の2番人気で、この2頭が「二強」とみられ、3番人気には皐月賞不出走で青葉賞(GII)を制してきたゼンノロブロイが入った。スタートが切られるとゼンノロブロイ、サクラプレジデントはいずれも先行し、ネオユニヴァースは後方につける。ネオユニヴァースは、状態が悪いため他馬が避けていた内寄りのコースを通って第3コーナーから先団へ進出。最後の直線では先に抜け出したゼンノロブロイを楽にかわして優勝を果たした。着差は半馬身であったが、デムーロがゴール前でガッツポーズを取ったほど余裕のある勝利であった。皐月賞、ダービーの二冠制覇は6年ぶり19頭目、外国人騎手のダービー制覇は史上初の記録となった。観客からは「デムーロ」コールが送られ、デムーロは感泣した姿をみせた。デムーロは後に「その喜びは自国のダービーを制したときに比べても、勝るとも劣らないものだった。これだけ多くのファンに見守られ、大きな声援を送ってもらえる競馬なんてそうはない。まして今回は、その舞台がダービーだったわけだから。僕はまるで自分がサッカーのナカタになったような錯覚に陥った」と感想を述べた。また、瀬戸口もダービー初勝利であり、「ダービーは競馬人の夢。その頂点に立つことができて本当に嬉しい」などと語った。なお10着となったエイシンチャンプの福永は後年「ネオユニヴァースには大きなポテンシャルを感じていたし、やっぱりああいう馬がダービーに勝つんだなと思った。でも、自分ひとりの力で上がってきたジョッキーではないので、あの選択はまちがってなかったと思うし、後悔もしていない」と述べている。日本ダービーの優勝馬は休養に入り秋に備えるという路線が常道となっていたが、6月16日、ネオユニヴァースが春のグランプリ・宝塚記念に出走することが決まり、翌日一斉に報じられた。同年のクラシック優勝馬が宝塚記念に出走するのは初めてのことであった。吉田照哉によれば、ダービー後も体調が良いことに加え、年長の4歳以上馬とは負担重量で5kgの差があるということが出走に踏み切った最大の理由だったという。宝塚記念には過去7頭の3歳馬が出走し、前年に同馬主のローエングリンがはじめて馬券配当圏内の3着に入っていた。宝塚記念の出走馬を選定するファン投票では6位、当日は前年度代表馬のシンボリクリスエスに次ぐ2番人気となった。吉田は競走前「出した甲斐があった。去年の年度代表馬とダービー馬の対決をお客さんが見たいと思っていることの証。ゴール前の一騎討ちがあれば最高だと思う」と語った。ほか、春の天皇賞を制してきたヒシミラクル、国内外でGI競走6勝のアグネスデジタル、前年度優勝馬ダンツフレーム、GI競走2勝のイーグルカフェら、ファン投票上位の多くが顔を揃えた。スタートが切られると、ネオユニヴァースは出遅れて後方からのレースとなる。道中は馬群の外目から位置を上げていき、最後の直線で追い込みを図るも伸びきれず、勝ったヒシミラクルから0秒3差の4着となった。シンボリクリスエスは中団からレースを進めるも、ネオユニヴァースからさらにクビ差の5着となっている。デムーロは「出遅れたことと、そのあと他の馬にぶつかったことが痛かった。後ろから行ったことは仕方ないし悪くはなかったが、道中ずっと外を回らされたのが、最後の伸びのなさにつながったのかな」と語り、瀬戸口は「スタートで後手を踏んだこともあるが、それは結果論。よく走ったんじゃないか。力負けとは思っていない」と語った。宝塚記念のあとは社台ファームで夏を過ごし、系列の山元トレーニングセンターでの調整を経て8月28日に栗東に帰厩。秋は史上6頭目のクラシック三冠達成が懸かる菊花賞を目標に、神戸新聞杯(GII)から始動した。デムーロの短期免許期間が春で満了していたことから、鞍上には半年ぶりに福永祐一を迎えた。この競走にはサクラプレジデント、ゼンノロブロイといった春の有力馬も顔を揃え、夏の札幌記念(GII)で古馬(4歳以上馬)を破っていたサクラプレジデントが1番人気、ネオユニヴァースはそれに次ぐ2番人気となる。道中ではゼンノロブロイと並ぶ形で中団を進んだが、後方からのまくりをかけたサクラプレジデント、さらに同馬を一気に抜き去ったゼンノロブロイに後れをとり、約4馬身差の3着となった。このときネオユニヴァースは歯替わりの最中で、操縦性に影響するハミ受けの具合が悪く、敗因が明らかであることから陣営はこの敗戦を大きく捉えることはなかったという。次走、ネオユニヴァースが菊花賞へ臨むに当たり、日本中央競馬会は外国人騎手の取り扱いについて、「同一馬に騎乗して同一年にJRAのGIを2勝以上した場合、その年のGIで当該馬に騎乗する場合に限り、そのGI当日のみ免許を発行する」という特例措置を発表。これにより、菊花賞は再びデムーロを鞍上にしての出走が叶うこととなった。なお10月19日、菊花賞に先立って行われた牝馬三冠最終戦・秋華賞では、春の桜花賞、優駿牝馬(オークス)を制したスティルインラブが17年ぶりの「牝馬三冠」を達成した。10月26日、菊花賞を迎え、ネオユニヴァースは単勝オッズ2.3倍の1番人気に支持される。2番人気には2.5倍でゼンノロブロイ、3番人気には6.1倍でサクラプレジデントが続いた。スタートが切られると、ネオユニヴァースは道中で12番手を追走。周回2周目の第3コーナーから5番人気のザッツザプレンティが一気にスパートを掛けて先頭に立ち、ネオユニヴァースもこれを追い2番手で最後の直線に入った。直線ではザッツザプレンティが逃げ粘り、ネオユニヴァースは差を詰められず徐々に失速。残り100メートルでは後方から追い込んだリンカーンにもかわされ、勝ったザッツザプレンティから1馬身弱の差の3着に終わり、三冠を逃した。競走後、デムーロは「大きく外を回されることもなかったし、ごちゃつかずに運べたので外枠は良かった。状態も良かった」、「距離が微妙に長かった」と、淡々と語るにとどめた。菊花賞の後はデムーロとのコンビで国際競走・ジャパンカップ(GI)に出走。前走、天皇賞(秋)をレコード勝ちしたシンボリクリスエスがオッズ1.9倍と突出した1番人気となり、ネオユニヴァースはそれに次ぐ2番人気(7倍)となった。なお、前日から雨が降り続き、当日はジャパンカップでは11年ぶりの重馬場で行われた。道中、ネオユニヴァースは13番手前後を追走して最後の直線に入ったが、後続に終始大きな差を付けて逃げ続けたタップダンスシチーが競走史上最大の9馬身差を付けて逃げきり、ネオユニヴァースはさらにザッツザプレンティ、シンボリクリスエスに後れての4着に終わった。年末のグランプリ・有馬記念に向けたファン投票では9万8926票を集め、シンボリクリスエスに次ぐ2位で選出されたが、出走せず休養に入った。当年のJRA賞(年度表彰)においては、最優秀3歳牡馬に選出。また、仮定の斤量数値で馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションでは、Iコラム(1900~2199メートル)117ポンドで3歳馬の首位に据えられた。一方この数値は、策定方法が統一された1997年以降の首位3歳馬としては、アグネスフライトを1ポンド上回ったのみの平年以下の評価ともなった。2004年、4歳となったネオユニヴァースは休養を終え、4月4日の大阪杯(GII)から始動。重賞4勝のバランスオブゲーム、エリザベス女王杯優勝馬アドマイヤグルーヴといった実績馬が揃い、また負担重量は59kgとはじめて経験するものだったが、単勝1.8倍の1番人気に支持される。レースでは直線入口で2番手と積極的にレースを進め、逃げ粘るマグナーテンをゴール前でアタマ差競り落としてダービー以来の勝利を挙げた。5月2日に迎えた天皇賞(春)(GI)では、前年の3歳クラシックで鎬を削った4歳馬が人気上位を占め、前哨戦の阪神大賞典を制したリンカーンが1番人気、ネオユニヴァース2番人気、ザッツザプレンティ3番人気、ゼンノロブロイ4番人気という順となった。しかしレースでは大逃げを打った5歳馬イングランディーレが2着ゼンノロブロイに7馬身差をつけて逃げきり、その後方でネオユニヴァースは10着と大敗を喫した。その後は前年も出走した宝塚記念へ向けて調整されていたが、その過程で右前脚に浅屈腱炎および球節亀裂骨折を生じていることが判明し、放牧に出される。骨折については天皇賞の競走中に生じた可能性が高く、担当厩務員の松久月広は「痛みをもっていることに気づいていれば、屈腱炎を併発することはなかったかもしれない」と悔いたという。以後治療に専念していたが、9月に引退・種牡馬入りが発表され、同月20日に札幌競馬場で引退式が行われた。総額12億円のシンジケートが組まれ、北海道勇払郡早来町(現・安平町)にある社台スタリオンステーションで種牡馬となる。交配頭数は初年度から228頭、247頭と推移し、3年目には国内最多の251頭との種付けをこなした。初年度産駒は2008年にデビュー、9月にロジユニヴァースが札幌2歳ステークスを制し、産駒が重賞初勝利を挙げる。当年の2歳種牡馬ランキングでは、同じく新種牡馬のキングカメハメハに次ぐ2位となった。翌2008年にはアンライバルドが皐月賞を制し、JRA・GI(JpnI)で初勝利を挙げると同時に皐月賞史上6例目の父子制覇を達成。さらに日本ダービーでは、ロジユニヴァースがやはり競走史上6例目の父子制覇を果たした。2010年にはヴィクトワールピサが皐月賞と有馬記念を制覇。有馬記念ではデムーロが騎乗しており、競走後には「ネオユニヴァースが素晴らしいクリスマスプレゼントをくれました。2頭はそれぞれ違う個性を持っていますが、いいハートを持っているところは共通しています」と語った。また2011年、ヴィクトワールピサとデムーロのコンビは世界最高賞金競走・ドバイワールドカップを日本調教馬として初制覇した。2015年12月、ネオユニヴァースは社台スタリオンステーションを離れ、新ひだか町のレックススタッドへ移動。2016年より同所で種牡馬生活を送る。ミルコ・デムーロによれば、ネオユニヴァースの長所は身体的な素質の高さもさることながら、「騎手なんて必要ないくらい」の頭の良さにあったという。課題点は「彼が人間の言葉を喋れないこと」のみだとした。調教師の瀬戸口勉、厩務員の松久月広は、いずれも「無事ならばもっとGIを勝てたはずの馬」だと評している。なおデムーロは2005年に行われたインタビューの中で、ネオユニヴァースについて「"夢の馬"です。これまでの騎手人生の中でナンバーワンの存在です」と語り、それと同時に将来的には日本を主戦場としたいという希望を述べていた。デムーロは2015年にその希望を叶えて日本中央競馬会の騎手となり、同年ドゥラメンテで皐月賞と日本ダービーを制した。デムーロは同馬について「ネオユニヴァースによく似ている。馬体がそっくり。それから頭、考え方みたいなものもよく似ている」と評している。太字はGI級競走中・長距離で活躍したサンデーサイレンス産駒によく見られた、母系にスタミナ色の濃いヨーロッパ系の血統をもつ1頭である。近親にはアイリッシュオークスの優勝馬ヘレンストリートや、その産駒であるストリートクライ、ジョッケクルブ賞(フランスダービー)優勝馬シャマルダルがいる。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。