赤城山(あかぎさん、あかぎやま、後述)は、関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置する山。太平洋プレートがオホーツクプレートに沈み込んでできた島弧型火山である。また、赤城山は、カルデラ湖を伴うカルデラを持つ、関東地方で有数の複成火山である。榛名山、妙義山と並び、上毛三山の一つに数えられている。また、日本百名山、日本百景の一つにも選ばれている。中央のカルデラの周囲を、円頂を持つ1,200mから1,800mの峰々が取り囲み、その外側は標高にして約800mまでは広く緩やかな裾野の高原台地をなしている。。中央部のカルデラ内には、カルデラ湖の大沼(おおぬま、おの)や覚満淵(かくまんぶち)、火口湖の小沼(こぬま、この)がある。大沼の東岸、最高峰 黒檜山(くろびさん)の山麓に当たる場所に赤城神社があり、山麓各地に里宮があるほか、関東一円に末社約300社が分布している。中腹にパノラマ展望台がある。赤城山は一つの大きな火山体の名称であり、同名の峰は存在していない。赤城山の形成はいくつかの時期に分けられる。古期成層火山形成期、新期成層火山形成期、中央火口丘形成期である。約50万年前、足尾山地と古利根川の間の低湿地、柏崎千葉構造線の群馬県東部部分(利根川構造線)の割れ目で火山活動が開始される。安山岩質(Sio2 54 - 60%)の溶岩とスコリアから成る成層火山を形成した。最大時の標高は2,500m程度と推定される。約20万年前ごろから二酸化ケイ素の量が増えて溶岩がデイサイト質になり、それに伴い爆発的噴火が多発し、火砕流や山体崩壊による岩屑なだれが山麓に流下して現在の広い山麓を形成した。標高が1,500mほどになったとみられる。南西側へは赤城橘山岩屑なだれがあり、赤城西側にある孤立丘群(橘山・箱田山・十二山など)、上毛大橋東側にあるカール状地形を形成した。一説には、群馬県利根郡昭和村の岩神飛石や敷島公園のお艶が岩はこの岩屑なだれによるものだという。南東麓側では梨木泥流が発生している。山体崩落に伴う大規模な岩屑なだれであり、大胡・大間々方面へ流れ、伊勢崎市北部(権現山・華蔵寺周辺)まで到達した。その後、いったん火山活動は休止した。約15万年前(または13万年前)ごろ、大規模な爆発を伴って活動が活発化し、山頂部の崩落部を覆うように溶岩ドームが形成された。黒檜山・駒ヶ岳などの部分である。船ヶ丘山はこのときの流出溶岩が固まったものという。また小黒檜山・荒山・鍋割山・鈴ヶ岳、コフタ山といった溶岩ドームの側火山が形成された。鈴ヶ岳などの噴火では西北西へ火砕流が流れた(棚下火砕流)。この火砕流は子持山に止められる形で堆積、利根川を遮って古沼田湖を形成している。なお鈴ヶ岳北西から一帯の谷地域を深山カルデラとしてこの時期陥没したとする説もある。この説では鈴ヶ岳を地蔵岳・小沼火山と同時期に形成された深山カルデラの中央火口丘とみなしている。荒山・鍋割山の噴火は約7万5千年前で、南麓へ大胡火砕流が流れている。約4,5万年前には湯の口降下軽石を噴出し、山頂部が大きく陥没、現在の山頂カルデラを形成した。外輪山として残っているのは黒檜山をはじめ、駒ヶ岳、陣笠山、薬師岳、出張山、鍬柄山、鳥居峠である。また、正確な時期は不明だが、カルデラ内部にはカルデラ湖が形成された。3万年前には鹿沼降下軽石を噴出した。その後、地蔵岳溶岩ドームと小沼タフリング、見晴山が中央火口丘として形成された。これを最後に大規模なプリニー式噴火は途絶えている。中央火口丘の出現によりカルデラ湖は分割され、中央火口丘北東に大きく広がる古大沼、西側の新坂平湖、南側のオトギの森湖の3つになったが、古大沼・新坂平湖はこれを源流として北西に流れていた沼尾川の侵食によって縮小、新坂平湖は消失、古大沼は現存する大沼と覚満淵(湿原地帯)に分かれた。オトギの森湖も粕川の侵食で消失した。小沼タフリングには火口に水が溜まり小沼を形成した。当初は現在よりも大きかったが粕川の排水で現在の広さまで縮小している。「吾妻鏡」の中に「建長三年四月十九日(1251年5月11日)赤木嶽焼」とある(赤木嶽は当時の呼び名)。この記述を根拠に気象庁は活火山に指定しているが、噴火に相当する堆積物は見つかっていない。カルデラ内にある最新の火山活動地形(同時噴火で形成された小沼タフリング・血の池火口)は、約2万4000年前に形成されたと推定されており、それを榛名山が6世紀に起した噴火で降らせた、榛名伊香保降下軽石が表面を覆っていることから、吾妻鏡の記述は山火事を意味する可能性が高いとされる。南麓の寺の火事のことではないかという説もあり、山火事とすると「概ね過去1万年以内に噴火した火山」と定義されている活火山には該当しない。一方、建長3年の噴火について吾妻鏡以外にも言及する史料が発見されている。三夜沢赤城神社の神官家に伝来した古文書「赤城神社伝来記」のなかに、「建長三年頃、当於呂嶽、春より焼け始め、四月十九日焼出、、石砂をふらす事夥しけれ共、当所は無難なり、今赤石平是なり」(於呂嶽は荒山、赤石平は現在の小麦沢)とある。峰岸純夫は、赤城の大穴(大穴川の源頭の沢、3~4万前の水蒸気爆発の火口跡と推)で小規模な水蒸気爆発がこの建長3年にあった可能性を示している。冬期の関東平野に吹く特有の北風「空っ風」を、群馬県平地部や埼玉県北西部では赤城颪(あかぎおろし)と呼ぶ。この語源は赤城山の方角から吹くため。上毛かるたの読み札には『雷(らい)と空風(からっかぜ) 義理人情』とあり、群馬県を語る上で空っ風の存在は外せない。日光市・男体山の北西麓の戦場ヶ原には、男体山の神と赤城山の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめた、という伝説がある。赤城山の北にある老神温泉の地名は、このとき落ち延びた神が追われてやってきたことに由来するといわれ、「アカギ」という山名も神が流した血で赤く染まったことから「赤き」が転じたという説もある。戦場ヶ原で負けた赤城山の神は老神温泉で傷を癒した後に男体山の神を追い返したという。また、開湯伝説では、赤城山の神が大蛇、男体山の神が大ムカデとなっており、大蛇が勝利したという説になっている。江戸川沿いにある千葉県流山市には、赤城神社の祀られた小山があり、大洪水の際に赤城山の山体の一部が流れてきたものだ、という伝説がある。「流山」という地名はこれに由来するという。赤城山といえば、上州の侠客・国定忠治で有名であり、明治、大正、昭和初期に講談や新国劇の題材として大人気だった。国定忠治の一節「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い乾分(こぶん)の手前(てめえ) たちとも、別れ別れになる首途(かどで)だ。」の台詞で、この山の名前が全国に広がった。忠治に因んでか赤城山の岩穴で賭場が開帳された時代があったが、明治時代に取り締まりの強化で一掃されている。「赤城山」の読みは「あかぎさん」・「あかぎやま」の2通りがあり、いくつかの事典・辞書では2通りの読みを併記している。1947年(昭和22年)に誕生した群馬県の郷土かるたである「上毛かるた」の読み札に『裾野は長し赤城山(あかぎやま)』とあるように、群馬県民の間では「あかぎやま」と呼ばれ、親しまれている。地元の道路案内標識での表記は「赤城山Mt.Akagi」のほかは、「赤城山Akagiyama」または「赤城山Mt.Akagiyama」である。また、昭和時代の郷土力士である赤城山晃(藤岡市出身)の四股名の読み方も「あかぎやま」である。赤城山は国土地理院の地図ではあかぎさんと記載されていた。これは「山」を「さん」と読む規定によるものであるが、群馬県、特に前橋市周辺であかぎやまと呼ばれて親しまれていたため、群馬側がこれに異議を申し立て、あかぎやまへの改称を求めた。国土地理院はこれを受け入れ、現在発行の地図はあかぎやまとなっている。一方、国土地理院ウェブサイト内「日本の主な山岳標高」の山の紹介では「あかぎさん」を第一とし、「あかぎやま」は備考として扱われている。また、気象庁ウェブサイト内にある赤城山のページにおいても、振り仮名は「あかぎさん」である。古い時代の文献としては赤城神社の社務所が1911年(明治44年)に発行した旅行ガイドブック『[ 赤城山名勝案内]』がある。その第2版として1912年(明治45年)に発行した『[ 赤城山案内]』では、「あかぎさん」と振り仮名を振っていた。赤城山周辺にいくつかある「赤城山」という地名は、江戸時代の入会地が宮内庁管轄の御料地を経て1950年代頃に大字となったとき初めて付けられたもので、すべて「あかぎさん」と読む。地名の呼び方は「やま」と「さん」が混在しているともされる。このほか、日本酒の銘柄である「赤城山」は、。なお、蔵元である近藤酒造のウェブサイトを参照すると、ウェブサイトおよびメールアドレスのドメイン名は「akagisan」となっている。講談社発行の『日本酒・本格焼酎・泡盛銘柄コレクション』では「あかぎさん」と振り仮名が振られている。複数の山頂に登るため登山コースがいくつかある。などカルデラ内への連絡道路
出典:wikipedia
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