い号作戦(いごうさくせん)とは、日本海軍が1943年4月7日から15日にかけて第十一航空艦隊と第三艦隊所属の艦載機により、ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行った作戦である。ガダルカナル島で行われた空襲はフロリダ沖海戦と呼ばれる。日本海軍はケ号作戦後、1943年3月に発令された第三段作戦帝国海軍方針と、同時期に日本陸軍との間に取り決められた陸海軍中央協定で、春以降の作戦方針としてニューギニア方面を重視していくことを確認した。こうしたなか、ラエ、サラモア方面に対する増援作戦として3月3日に八一号作戦が実施されたが、輸送船団は連合軍の爆撃に遭い、増援の陸軍51師団は上陸前に大損害を受けてしまった(ビスマルク海海戦)。一方連合軍はガダルカナル島(以下ガ島と省略)及び東部ニューギニアのブナ地区を手中にし、これより発進する戦闘機と爆撃機は、ムンダ方面、ラエ、サラモア方面を連日のように空襲し、ソロモン諸島方面ではニュージョージア島より南、ニューギニア方面ではダンピール海峡地区より南の制空権を掌握するに至った。軍令部作戦課長山本親雄によれば「い号作戦について軍令部から指示した記憶はない。八十一号作戦ラエ輸送の全滅は「い」号作戦決行の一つの動機になったと思う」という。日本海軍はケ号作戦後も中部ソロモン地区強化の為、駆逐艦による輸送作戦を実施していたが、既に制空権は連合軍側に渡っていたため、その傘の元に連合軍艦艇の行動も活発化、その結果ニュージョージア島ムンダ地区、コロンバンガラ島は3月5日、連合軍艦船により艦砲射撃を受け、同日コロンバンガラ島へ輸送作戦を実施していた日本海軍駆逐艦村雨、峯雲は、メリル少将率いる第17任務部隊に襲撃され、全滅する事態となった(ビラ・スタンモーア夜戦)。この頃、南東方面の日本海軍基地航空部隊は練度低下、器材搭乗員の損耗共に激しく、夜間少数機で行っていた陸攻の夜間爆撃すら実施困難となり、十一航艦の水偵がそれを肩代わりする事態に陥っていた。2月14日にアメリカ陸軍航空隊や海兵隊航空隊の航空機からなる戦爆連合がブーゲンビル島のカヒリを攻撃し、日本海軍の航空隊が迎撃したが、日本軍は戦闘機一機の損害だったのに対してアメリカ軍は10機を被撃墜され、セントバレンタインデーの虐殺("Saint Valentine's Day Massacre")と呼ばれる被害を出した。4月3日、ニューアイルランド島・カビエン港がアメリカ軍の空襲を受け重巡洋艦青葉が大破・擱座するなどの被害が出た。連合艦隊が母艦飛行機隊を陸上基地で大規模に運用する構想については1943年1月の「ケ号作戦」後の連合艦隊の作戦指導構想の中にすでに見えている。ただしこの時点では投入兵力は一航戦のみであり、攻撃目標も敵機動部隊を想定していた。また、「い号作戦」そのものの構想が固められた時期について戦史叢書では、1月に大本営海軍部(軍令部)より提案された昭和18年度帝国海軍戦時編制案について、連合艦隊が2月25日に回答した中に次期作戦についての言及があり、この次期作戦が「い号作戦」を指すのではないかと推測、そこから遅くとも2月中旬頃には作戦に関する構想は固まっていたのではないかとしている。作戦を計画するにあたり、軍令部からの直接の作戦指導はなく、ろ号作戦時のような現地部隊からの増援要請も無く、連合艦隊が独自に立案し実行されたものだった。連合艦隊戦務参謀渡辺安次の回想によれば、「八一号作戦」以前から一度敵の出鼻を挫こうという考えがあり、同作戦の失敗によってその時期を繰り上げたという。また、この作戦は初めから荒ごなしのつもりであり、母艦飛行機隊保全の観点からそうなったという。戦務参謀である渡辺は「ケ号作戦」とニューギニア方面の輸送作戦を担当いていたが、い号作戦は航空参謀である樋端久利雄が担当した。第三艦隊作戦参謀長井純隆の回想によれば、「第三艦隊母艦機を南東方面に使うことについて連合艦隊と第三艦隊司令部幕僚間では、相当の論争があったように記憶している。三艦隊側は反対意見であった。しかしこの問題が司令部上層までに及んで論議されたことは聞いていない。おそらく山本長官自ら発案し、小澤第三艦隊司令長官に直接了解を得られたものと思う。」という。また、軍令部第一部第一課員の佐薙毅は、軍令部総長が「ケ号作戦」後「ガ島攻撃を実施する」と発言した事を天皇が取り上げ、その後一向にやらんではないかと問われており、その事が少なからず作戦の実施に影響を与えたのではないかと推測している。このように作戦立案に関する経緯が現在も不透明な部分が多いのは、作戦終了後、作戦立案の中心的人物であった山本五十六が戦死していることや、当時連合艦隊参謀長であった宇垣纒の記した『戦藻録』の1943年1月1日~4月2日までの記述が戦後紛失してしまっていることも影響している。宇垣纏の口述書によれば、作戦を決意したのは3月の中旬であり、その目的は以下のようであった。作戦の実施時期については内地において訓練中だった第二航空戦隊のトラック進出を待って開始された。また、作戦指揮に関して第三艦隊と基地航空部隊である第十一航空艦隊を統一して指揮する必要があり、これまでの慣例では先任にあたる十一航艦の草鹿任一が統一指揮をとることになるのだが、母艦飛行機隊の指揮を基地航空部隊の指揮官に任せて必要以上に消耗させたくないという第三艦隊の意向もあり、連合艦隊司令長官である山本五十六が統一指揮をとることになった。戦史叢書では作戦の概要は以下のようなものだったと推測している。作戦目的 1 敵の反攻企図を撃砕、妨圧 2 補給輸送を促進し、第1線戦力の充実を促進する 3 現地陸海軍部隊の作戦指導強化作戦期間参加兵力参加兵力の詳細な内訳さらに作戦要領として、敵艦船の攻撃は艦上爆撃機を主用、戦闘機はその掩護にあたるほか制空隊により敵機の制圧、陸上攻撃機隊は敵航空基地攻撃に主用する、などとしている。この基本計画に従って攻撃予定地や参加部隊などが決められた。当初4月5日実施予定であったが天候不良により二度延期され、この間ポートモレスビーに攻撃目標を変更することも検討されたが準備不足のため結局実施はされず、その稚拙な対応ぶりに宇垣は「度々云ふ事乍ら如何にも計画が一本筋のみの薄ペラなり事にぶつかって始めて変更を考ふ」と日記に記している。攻撃は結局7日に実施され、部隊編成および発進基地は以下の様になった。6日の敵通信情報によればガ島付近には艦船約35隻の所在が確認され、同夜ガ島を爆撃した陸攻からも北東海面に北上する巡洋艦3隻、駆逐艦6隻の発見報告があり、7日朝に実施された二五三空の百式司偵による偵察でもツラギ港に巡洋艦2隻、駆逐艦6隻、大型輸送船2隻などを確認、その他ルンガ岬沖、サボ島付近にも敵艦船の存在を認め、前日の敵通信情報が裏付けられた。攻撃隊は午前9時45分から11時にかけて次々と各飛行場を発進、攻撃隊ごとに空中で合同し目標上空を目指した。午前11時25分頃、第一制空隊ガ島上空に突入、続いて15分遅れて発進した第二制空隊もガ島上空に到着、午後12時30分、五八二空の零戦隊が敵戦闘機と空戦に入る。その後おおよそ午後1時前後に第一~第四攻撃隊が相次いでガ島上空に到着、第一、第二攻撃隊はツラギ港在泊艦船を攻撃、第三攻撃隊は付近の輸送船を攻撃、第四攻撃隊はルンガ岬付近の艦船を攻撃した。その直後から制空隊、直掩隊の零戦は迎撃に上がった連合軍のF4F、P-39戦闘機76機と空戦に入り、おおよそ午後1時40分頃にすべての部隊が戦場を後にした。また、この攻撃で飛鷹艦爆隊の操縦員として参加していた作家の豊田穣の乗機は撃墜され、その後米軍に救助され、捕虜になったという。その後豊田中尉は「大谷中尉」の偽名を名乗り、ハワイの収容所でリーダー役を務めた後、昭和19年4月頃ウィスコンシン州マッコイ収容所に移送され、さらに昭和20年6月24日、テキサス州ケネディ収容所に移りそこで終戦を迎えた。攻撃終了後午後3時~午後5時までの間に各部隊は発進基地へ帰着したが、飛鷹艦爆隊の内3機、隼鷹艦爆隊の内1機はコロンバンガラ基地に、隼鷹艦爆隊の内6機はムンダ基地に帰投した。また、連合軍は航空機の写真偵察により日本海軍機の集結を事前に察知しており、これに対応するために使用可能な戦闘機の全てがガ島に集められ、当日は76機の戦闘機がサボ島周辺で日本軍の攻撃隊を迎えうち、爆撃機は全て事前にガ島南西端上空へ避退していた。さらに当日の日本軍の攻撃隊の発進もコーストウォッチャーにより逐一動静をつかんでいた。また、この方面には当時第18任務部隊の軽巡ホノルル、ヘレナ、セントルイス、駆逐艦6隻も在泊していたが、日本軍の接近を察知し、当日予定されていたムンダへの砲撃をキャンセルし海峡を南下し避退していた。9日、大本営海軍部は現地からの報告を元に戦果を発表した。なお、この戦闘を大本営海軍部は「フロリダ沖海戦」と呼称した。予定では4月10日にY攻撃実施となっていたが、前日よりニューブリテン島、スタンレー山脈方面の天候悪化のため、これを延期し、10日以降Y1、Y2攻撃を実施するとし、整備の為1日間をおいて11日ブナ方面(オロ湾)攻撃であるY2攻撃が実施された。部隊編成は以下のようになった。また艦爆隊は各機60キロ爆弾2発装備で出撃した。午前8時30分から9時にかけてラバウルを発進した攻撃隊は、午前11時25分から40分にかけてオロ湾及びその南のポートハーヴェイ上空に到着、艦爆隊は在伯中の輸送船を攻撃し、イギリス商船「ハンヤン」に直撃弾2発を与え、他に護衛のオーストラリア海軍の掃海艇「パイリー」と小型の輸送船にも命中弾を与えた。この攻撃に対しP-38及びP-40戦闘機約50機が日本軍を迎え撃ったが、当日迎撃に上がった米陸軍の第8、第49戦闘航空群の戦闘機隊は日本の陸軍航空隊との連日の空戦を経験しているため練度が高く、日本海軍機は撃墜戦果を果たすことができなかった。その後攻撃隊は午後2時から2時40分にかけて帰着した。連合艦隊は11日の天候予想の結果に基づき、12日にY攻撃を実施することを決めた。攻撃直前の偵察も2回に渡り実施し、2回目は進撃路上空の天候偵察に重点が置かれた。これはニューギニア特有の変化の激しい天候と、オーエンスタンレー山脈を越える際の危険性に配慮したものだった。部隊編成は以下のようになった。今回はラバウル上空で全飛行隊が集合、第一攻撃隊と第二攻撃隊は約1000メートルの間隔を空けて編隊を組み、その上空500メートルに制空隊を配備して進攻した。攻撃隊は午前9時ごろポートモレスビー上空の手前から連合軍機44機の邀撃を受け、その後午前9時25分頃から爆撃開始、おおよそ午後12時30分頃に帰着した。また、瑞鶴隊の一部はいったんニューブリテン島西部のスルミ基地に着陸し、燃料を補給した後午後1時15分ラバウルに帰着した。この日ミルン湾及びラビに対する基地航空部隊の攻撃(Y1攻撃)と、同じく母艦飛行機隊の攻撃(Y2攻撃)が実施された。部隊編成は以下の通りであった。Y1攻撃隊Y2攻撃隊攻撃隊は午前11時35分~11時50分にかけミルン湾在泊の敵艦船及びを爆撃した。Y1攻撃隊の七五一空の陸攻は泊地を爆撃したが、有効弾は与えられなかった。また、七〇二空の陸攻隊は敵戦闘機の邀撃を受け隊形が乱れ、泊地攻撃の予定を変更し、ラビ東飛行場を爆撃、数カ所を炎上させた。隼鷹、飛鷹の艦爆隊は湾内の艦船の攻撃に成功、オランダ商船ヴァン・ヘームスケルクを至近弾により火災を生じさせ、その結果同船の貨物室は大爆発を起こし、オーストラリア掃海艇ワガの消火作業も実らず、遂に放棄されその後沈没した。その他ヴァン・オウツフールン、ゴーゴンの2隻の商船にも損害を与え、攻撃隊は午後3時頃に帰投した。ラビ付近の敵対空砲火は比較的少なく、連合軍のP-40、P-38戦闘約40機が日本海軍の攻撃隊を迎え撃ったが、その妨害行動もあまり執拗ではなかったという。4月15日、予定計画に基づき各飛行隊は翌日のブナ攻撃の準備に入った。16日早朝、東部ニューギニア北岸への偵察を実施したところ、ブナ方面に敵艦船は見られなかった。このため山本長官はブナ攻撃を中止し、これをもってい号作戦の終結を下令した。また同日、連合艦隊は第二期作戦の戦果並びに被害を報告、「ガ島方面攻撃に相次ぎニューギニア方面航空作戦に敵の意表を衝き甚大なる打撃を与え敵の反撃企図を相当防遏し得たるものと認む」と所見を出し、概ね作戦目的を達しえたものと判断した。しかし、米軍側は、日々の偵察機により逐次日本軍の兵力配備の把握に努め邀撃戦力の準備を進め、レーダーやコーストウォッチャーにより攻撃を事前に予測し、当日は爆撃機や在泊艦船を避退させ、被害を極限した。そのため、日本軍が認識していたよりも米軍の被害は大幅に少ないものだった。作戦終了後の17日、連合艦隊はラバウルで「い号作戦」研究会を行なった。ここでは連合軍の増勢遮断と前線航空基地の整備を主題として取り上げ、山本も航空戦の成否が勝敗を決するという趣旨の訓示を行なった。また、宇垣は航空作戦に関して、偵察を徹底すること、小目標であってもこまめに攻撃すること、大型機に対する対処法や、新たな攻撃法に対する研究の促進などを希望として述べた。当時第二航空戦隊の航空参謀として作戦参加していた奥宮正武は、短期間で終了したにも関わらず50機以上の損害を出してしまったことに注目し、その一因となった搭乗員の練度低下を危惧している。また外山三郎は『図説 太平洋海戦史3』において「連合軍の損害そのものは決して小さなものではなかった」としながらも「連合軍の戦力勢に影響を与えるものではなかった」とし、艦爆等の被害の多さから一航戦を内地に帰投させる結果となったことも概ね予測できたとし、山本五十六の決戦主義による「いささか我意に偏したもの」と断じている。また佐藤和正は『太平洋海戦3 決戦編』において、作戦後母艦飛行機隊の戦力を大きく低下させてしまったことを指摘し、「山本長官が強行したい号作戦は多少の成果はあげ得たものの、ほぼ失敗だったといってよい」と結論づけている。梅本弘は彼我の戦死者に注目し、戦闘機搭乗員のみの比較でも日本側の15名に対し連合軍側は3名と少なく、日本海軍にとってまったく引き合わない作戦であったと記している。この時のアメリカ太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツは後年の著書の中でこの作戦を次のように評価している。また歴史家のはその著書の中で日本海軍機の練度の低下を指摘、ニミッツと同様に母艦飛行機隊の損耗について「日本軍は陸上目標を防御するために、艦隊航空機を使って艦隊そのものを弱めていたのである」と述べている。こうした、大規模な攻撃にも関わらずそれに見合った結果が得られなかった日本軍の攻撃について、マッカーサーの伝記を執筆したチャールズ・ウィロビーは「広く分散していた三つの目標に飛行隊を分けた結果、その攻撃は徹底さを欠いていた」と記している。その一方、戦後GHQによって作成された「マッカーサー・レポート」には「航空攻撃の非常に有効な結果にも関わらず、日本海軍航空隊は大規模な航空攻撃を継続する能力を持っていなかった」というように、ニミッツと同様に攻撃そのものには一定の評価をしている。サミュエル・エリオット・モリソンは自身が編纂した戦史の中で、4月7日のX攻撃については「アメリカ軍の攻勢準備のスケジュールを約10日間遅滞せしめた」と記し、また11日以降に始まるY攻撃に関しては「艦砲射撃のない航空戦力は航空支援のない艦艇と同様に効果がないことを証明した」と両航空作戦を評価している。宇垣の日記にはい号作戦参加機の消耗度が記載されており、それは以下のような数字であった。母艦飛行機隊は一度損耗すると再建に時間がかかるという理由からい号作戦は短期間で終了したものの、母艦飛行機隊の航空機は艦戦14機、艦爆16機を自爆、未帰還で失い、艦戦6機、艦爆17機が被弾した。特に母艦飛行機隊の艦爆の損耗率は三割に達し、被弾した物を加えると六割を超えており、結局一航戦は機材と搭乗員の一部を二航戦に移し、飛行機隊再建のため五月に内地へ帰投することとなった。このため5月12日にはじまるアッツ島の戦いや6月30日に始まる連合軍の中部ソロモン地域に対する反攻(ニュージョージア島の戦い)に対して機動部隊を活用することができなかった。また、基地航空部隊も、作戦直後の偵察により、ガ島周辺および東部ニューギニア北岸地域に多数の航空機、艦船の集結を認め、今後もい号作戦のような大規模な航空作戦の必要性を感じていたが、二十一航戦、二十六航戦ともにい号作戦の消耗から回復しつつ、小規模な攻撃を実施する程度で、大規模な攻勢作戦は5月の二十五航戦の再進出まで待たねばならなかった。また、草加任一の回想によれば、17日の研究会において戦闘機の実力が開戦時に比べ相当落ちていることが取り上げられており、過大な戦果報告と空戦能力の低下は、徐々に日本軍の航空作戦に暗い影を落とし始めていた。こうした犠牲を払いながらも、今回の作戦により連合軍側も7日のX攻撃によって連合軍の北上作戦が10日間延期されており、一時的にせよその作戦目的は果たされている。また、上記のマッカーサーレポートにあるように、作戦の成否よりはむしろその継続性に連合軍側は批判の目を向けている。「い号作戦」の間、山本長官は、トラック島の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を直接指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。作戦終了後、山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された。これは前線視察を兼ねて現地将兵の士気高揚を狙ったものであったが、同時にガ島奪回作戦以来、苦闘を続ける陸軍第17軍に対し参謀長の宇垣は司令部を訪問しその戦功を労いたいと以前から考えており、山本もそれを望んでいたことも理由の一つであった。前線視察に関しては第三艦隊の小沢治三郎らから反対されたが、視察は予定通り決行された。4月18日午前6時5分、司令部一行は2機の一式陸攻に分乗し、護衛の零戦6機をともなってラバウル東飛行場を発進した。7時40分頃、米陸軍のP-38戦闘機16機と空戦になり、一式陸攻は2機とも撃墜され、山本は20日捜索隊によって死亡が確認された(海軍甲事件)。この後21日に古賀峯一が連合艦隊司令長官に任命されたが、参謀長の宇垣以下司令部員も多くが戦死、負傷しており、その結果、3月に軍令部より打ち出された第三段帝国海軍作戦方針に基づき、直ちに発令されるべき連合艦隊第三段作戦命令の発令が8月になり、日本海軍の作戦指導に影響を与えた。今回の作戦についての連絡は、現地の第8方面軍には3月12日に、参謀本部には同18日に正式に伝えられていたが、海軍の航空作戦に呼応して、積極的な航空作戦や大規模な船団輸送を実施するような機運にはならず、中央も現地も傍観的な態度であったという。これに関して4月11日、天皇からもい号作戦に関連して陸軍の作戦指導に関する質問がなされた。そのため参謀本部では現地第8方面軍に対して、12日には補給の現状と今後の見通しについての問い合わせが、14日には海軍の航空作戦に呼応して積極的に輸送作戦を実施するよう督促が発せられたが、もとより現地の第8方面軍では、ニューギニア方面の輸送計画に関して海軍側と困難な折衝を続けていたいきさつもあり、方面軍参謀の井本熊雄はそれまでの中央の現地に対する無理解への不満も相まって、中央からの神経質な干渉に相当な苛立ちを感じていた。ただ現実問題として、当時積極的な航空作戦を実施できるほど陸軍の航空戦力が充実していなかったことは井本自身も認めており、当時の南東方面はもはや航空援護無しに輸送作戦を実施することはありえない情勢であったため、事は簡単ではなかった。また、この当時の南東方面に展開していた陸軍航空部隊である第6飛行師団の3月20日頃の実働戦力は、一式戦闘機50機、九九式双発軽爆撃機16機、九七式重爆撃機17機、一〇〇式司令部偵察機3機の合計87機であり、これは部隊定数の60%に過ぎず、この頃の第六飛行師団はもっぱらブナ、オロ湾方面への夜間爆撃と、輸送部隊の船団護衛に従事する程度の活動に甘んじていた。それでもこの作戦中にソロモン方面、ニューギニア方面への輸送は数回実施されており、X攻撃直後の4月8日のムンダ輸送は連合軍の妨害を受けることなく成功し、この後始まる中部ソロモンの防衛の一助となった。第8方面軍もい号作戦によってムンダ、サラモア方面の連合軍の活動が低下したことを認めている。とはいえ、作戦実施期間の関係でその効果が現れた期間は短く、陸軍側には物足りないという思いが残った。
出典:wikipedia
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