ミスターシービーは日本の競走馬の馬名であり、日本競馬史において同名の競走馬が2頭存在する。本項では後者について記述する。1982年11月に競走馬としてデビュー。翌1983年に皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞を制し、1964年のシンザン以来19年振り・史上3頭目の中央競馬クラシック三冠を達成。翌1984年には天皇賞(秋)も制して四冠馬となったが、以降は一世代下に現れた三冠馬・シンボリルドルフとの対戦にことごとく敗れ、勝利のないまま1985年秋に故障で競走生活を退いた。その後は種牡馬となったが、期待されたほどの成績が上がらず、1999年に種牡馬も引退。翌2000年12月15日に蹄葉炎で死亡した。競走馬時代は吉永正人を主戦騎手とし、天衣無縫、常識破りと言われた追い込み戦法や、端正な容貌などから大きな人気を博した。中央競馬において1980年代を代表するアイドルホースとされる。デビューから引退まで終始同じ騎手が手綱を握った最初の三冠馬である(後にシンボリルドルフやディープインパクトも終始同じ騎手が手綱を取っている。)1980年4月、母シービークインの預託先であった北海道浦河町の岡本牧場で生まれる。父トウショウボーイは競走馬時代に「天馬」と称され一時代を築いた快速馬、母も重賞3勝を挙げた実力馬であり、両馬は競走馬時代に同じ新馬戦でデビューしている。出生後の幼名は特になく、競走名を付けられるまでは暫定的に「シービークインの1」とされた。トウショウボーイの産駒は総じて後躯の重心が安定せず、「腰が甘い」馬が多いと言われていたが、本馬の腰はしっかりとしており、「トウショウボーイの良いところだけを全てもらったような馬」と評判となった。その後岡本牧場で離乳を終え、翌1981年3月、シービークインの所有者・本馬の公の生産者である群馬県片品村の千明牧場に移動、育成調教が積まれた。競走年齢の3歳に達した1982年春、競走名「ミスターシービー」と名付けられ、茨城県美浦トレーニングセンターの松山康久厩舎に入る。馬名には前述の初代・本馬ともに、生産者である千明牧場 () を代表する馬という意味が込められていた。所属は初め、シービークインを管理していた松山吉三郎厩舎が予定されていたが、吉三郎の都合により息子の康久へと変更になったものである。11月16日、東京開催の新馬戦でデビューを迎える。鞍上は母の主戦騎手でもあった吉永正人が務め、以後引退まで一貫して吉永が騎乗した。この初戦は先行策から2着に5馬身差を付けて快勝し、初戦勝利を挙げる。しかし2戦目の黒松賞(400万下条件戦)では、スタートの出遅れから先行勢に追い付いていく展開となり、直線での先行馬との競り合いを制してのクビ差辛勝となる。そして年末に出走したひいらぎ賞(800万下条件戦)では、発走時に発馬機内で激しく暴れた末に、スタートで再び大きく出遅れた。前走では先行集団に追い付くまでに体力を消耗していたため、吉永は無理に前を追い掛けず、そのまま後方待機策を取った。結果、先行したウメノシンオーにクビ差届かず、ミスターシービーは初の敗戦を喫した。しかし最後の直線で鋭い追い込みを見せたことで「あいつのことが分かった気がするんだ」と吉永はご機嫌で妻に語ったという。以降ミスターシービーは追い込み馬となる。翌1983年は、2月13日の共同通信杯4歳ステークスから始動。後方待機から第3コーナーで位置を上げていくと、前走で敗れたウメノシンオーとの競り合いをアタマ差制して優勝、重賞初制覇を果たした。続く弥生賞では、レース後半に内埒沿いのコースから馬群の間を縫うように上がっていき、この時点で自己最速の上がり3ハロン35秒8を計時して快勝した。4月17日、クラシック初戦・皐月賞を迎える。当日の競走は降雨の中で、追い込み馬には不利とされる不良馬場での施行となった。シービーは道中16-17番手を進むと、向正面から先行馬を捉えに上がっていき、最終コーナーでは先頭を行っていたカツラギエースの直後に付けた。最後の直線に入ると早々に先頭に立ち、直後に追い込んできたメジロモンスニーを半馬身抑えて優勝。クラシック最初の一冠を獲得した。これは吉永にとっても初めてのクラシック制覇であり、松山にとっては開業9年目での八大競走初制覇となった。続く二冠目の東京優駿(日本ダービー)では、単勝オッズ1.9倍の圧倒的1番人気に支持された。競走前のパドックにおいて、シービーのトレードマークともなっていたハミ吊りが切れ、新馬戦以来のハミ吊りなしでの臨戦となった。20を優に越える頭数で行われていた当時のダービーには「10番手以内で第1コーナーを回らなければ勝てない」とされた「ダービーポジション」というジンクスがあった。しかしシービーはスタートで出遅れて最後方からの運びとなり、道中は先頭から20馬身程度離れた17番手を進んだ。その後、向正面出口から徐々に進出すると、第3コーナー出口の地点では先頭から6番手の位置まで押し上げた。しかし最終コーナーに入った地点で、外に斜行してきたタケノヒエンを回避した際、さらに外を走っていたキクノフラッシュと衝突した上、後方から進出してきたニシノスキーの進路を横切る形となった。ミスターシービーはそこから体勢を立て直して先行勢を追走すると、内で粘るビンゴカンタを一気に交わし、そのままゴールまで駆け抜けて1位で入線した。皐月賞に続き、2着にも追い込んだメジロモンスニーが入った。競走後、第4コーナーにおけるキクノフラッシュとの衝突、ニシノスキーへの進路妨害に対する審議が行われた。この結果、ミスターシービーの優勝に変更はなかったが、吉永には開催4日間の騎乗停止と、優勝トロフィーの剥奪という処分が下された。競走後はクラシック最後の一冠・菊花賞に備え、夏場を休養に充てた。放牧には出されず、美浦に留まっての休養であったが、この最中に挫石を起こして蹄を痛め、さらに夏の暑さと痛みのストレスから夏風邪に罹った。これを受け、秋緒戦に予定されていたセントライト記念を断念、前哨戦は関西に移動しての京都新聞杯に切り替えられた。10月23日に迎えた復帰戦は単勝オッズ1.7倍の1番人気となるも、前走から12kg増と太め残りで、精気も乏しかった。レースの流れも先行馬有利のスローペースで推移し、勝ったカツラギエースから7馬身以上離されての4着と、初めて連対(2着以内)を外す結果となった。しかし調整途上で一定の走りを見せたことで、松山は体調が良化したと判断し、クラシック最終戦へ向けて厳しい調教を課していった。三冠が懸かった菊花賞では1番人気に支持されたが、スタミナ豊富とは言えず、本競走にも敗れていた父の印象から、3000mという長距離に対する不安説も出ていた。スタートが切られると、道中は1000m通過59秒4という速めのペースの中、最後方を進んだ。しかし周回2周目の第3コーナー上り坂から先行馬を次々と交わしていくと、ゆっくり下ることがセオリーとされる最終コーナーの下り坂を、加速しながら先頭に立った。このレース運びに観客スタンドからは大きなどよめきが起こり、また関係者からも驚きの反応が出た。しかしシービーは大きなリードを保ち続けて最後の直線を逃げ切り、1964年のシンザン以来19年振りとなる、史上3頭目の中央競馬クラシック三冠を達成した。父内国産馬が三冠馬となったのは、日本競馬史上初めてのことである。また、デビュー戦から三冠達成まで全て一番人気に支持されており、こちらも史上初である。ゴールの後、民放テレビの中継アナウンスを務めた杉本清は、「驚いた、もの凄い競馬をしました。ダービーに次いでもの凄い競馬をしました。坂の下りで先頭で立った9番のミスターシービー」と驚きを露わにした。後に吉永はレース運びについて、「ぼつぼつ行くつもりだったんだけど、シービーが全速力で行っちゃった。僕はただ捕まってるだけでしたよ」と語っている。競走後も好調を維持していたが、11月末の国際招待競走ジャパンカップは回避。さらに年末のグランプリ競走有馬記念も、千明牧場の意向により回避した。このローテーションには批判もあり、ジャパンカップの競走前に行われた記者会見では、英紙スポーティング・ライフ記者のジョン・マクリリックが「今年はミスターシービーという三冠馬が出たと聞いているが、出走していないのはなぜか。日本で一番強い馬が出ていないのはどういうことか」と、招待者である日本側の姿勢を問い質す場面もあった。また、競馬評論家の石川ワタルは当時を回想し、休養を優先した陣営の心情に理解を示しつつも「正直なところ、失望した」と述べている。ちなみに有馬記念は菊花賞で4着に破った同期のリードホーユーが制し、2着にも同期のテュデナムキングが入線したことで、シービー世代の評価が高まった。翌1984年初戦にはアメリカジョッキークラブカップ出走を予定していたが、施行馬場が降雪によりダートに変更される可能性が高くなり、出走を取りやめた。この頃より蹄の状態が再び悪化し、次走予定の中山記念も回避し、春シーズンは全休となった。10月初旬に毎日王冠で復帰したが、ほぼ一年ぶりの実戦、かつ追い切りで格下の馬に大いに遅れたためもあって、初めて1番人気を公営・大井競馬から中央に移籍してきたサンオーイに譲った。しかし、レースでは後方待機からカツラギエースを捉えきれず2着に敗れたものの、当時としては破格の上がり3ハロン33秒7(推定)を計時した。なお、この前日から東京競馬場に初めて「大型映像ディスプレイ(ターフビジョン)」が設置され、後方を進むシービーがスクリーンに映った瞬間には、スタンドから大きな歓声が上がった。このレースで健在を印象付け、次走天皇賞(秋)(10月28日)では、単勝オッズは1.7倍という圧倒的な1番人気に支持された。この回から3200mから2000mになった秋の天皇賞。レースは縦長となった隊列の最後方を進み、一時先頭から約20馬身の位置に置かれる形となる。しかし第3コーナーからスパートを掛け始めると、直線では最後方大外から全馬を抜き去って優勝し、四冠馬となった。走破タイム1分59秒3はコースレコード。また、この勝利によりシンザン以降続いていた天皇賞(秋)の1番人気連敗記録を19で止めた。この翌週に行われた菊花賞で、一世代下のシンボリルドルフがシービーに続くクラシック三冠を達成。シービーが次走に選択したジャパンカップに同馬も出走を表明したため、日本競馬史上初めてとなる三冠馬同士の対戦が実現した。ルドルフは菊花賞より中一週という強行軍、かつ初の古馬との対戦ということもあって、当日はシービーが1番人気、ルドルフは4番人気という順となったが、現在の評価に反して、純粋にシービーのほうが強い(と思う)という評価も多かった。しかしシービーは終始後方のまま10着と大敗。ルドルフも3着に終わった。レースは10番人気という低評価を受けていたカツラギエースが優勝し、日本勢として初めてのジャパンカップ制覇を果たした。この競走でシービーは闘争心を発揮しなかったといい、また「シービーは、バテて下がってくる先行馬を見たら行く気を出したのだが、さすがにジャパンカップではバテる馬がいなかった」とも述べ、後に「先行策を採るべきだった」と、自身の騎乗ミスを口にしている。年末に迎えた有馬記念では、出走馬選定のファン投票で第1位に選出されたが、当日の単勝人気はシンボリルドルフに次ぐ2番人気となった。松山の「馬群に入って戦え」という指示もあってか、珍しくスタート直後から手綱がしごかれたが、やっと2頭をかわしただけで、スタンド前では逃げるカツラギエースからは15馬身後方の位置取りとなった。残り1000mで早めにスパートするも、インコースに突っ込んで前がふさがったため、早めに抜け出したシンボリルドルフ、さらに逃げ粘ったカツラギエースも捉えきれず、3着に終わった。競走生活最後の年となった1985年は、3月31日の大阪杯から始動。当日1番人気に支持されるも、格下と見られたステートジャガーに競り負け、2着に敗れた。迎えた天皇賞(春)で三度シンボリルドルフと対戦。この競走では松山の指示により新馬戦以来となる先行策を採る作戦だったが、実際は菊花賞と同じ二週目の坂で後方から一気にまくって出た。スズカコバンと並んで最終コーナーは先頭で回ったものの、そこで力つきたところを、ルドルフに楽々とかわされ、同馬から10馬身以上離された5着に終わった。これは作戦ではなく暴走だといわれているが、実は「後半から暴走させる」というのがシービーの戦法だったことが露呈したレースだった。その後脚部不安を生じて休養、夏に函館競馬場に入って調教を再開したものの、直後に骨膜炎を発症して復帰を断念し、引退。同年10月6日に東京競馬場で引退式が雨の中で執り行われた。翌1986年、四冠が評価される形で顕彰馬に選出。1984年に父トウショウボーイも選出されていたため、史上初の父子顕彰馬となった。※1984年、グレード制導入引退後は種牡馬となり、内国産種牡馬として初めて社台スタリオンステーションに繋養された。名種牡馬トウショウボーイの後継、またトウショウボーイと交配できない生産者に対する代用的な存在として期待を集めると、初年度産駒からヤマニングローバル、スイートミトゥーナ、メイショウビトリアと3頭の重賞勝利馬を輩出。1989年度の新種牡馬ランキングで1位を獲得した。2年目にもシャコーグレイドがクラシック戦線で活躍すると、シービーの種牡馬としての人気は改めて高まり、日本がバブル景気だったこともあり、種付け権利の市場取引価格に2001万円という当時の史上最高額が付けられた。しかしその後は成績が振るわず、1994年にレックススタッドに移動。1999年には種牡馬生活からも退いた。種牡馬総合ランキングの最高位は、1996年の12位だった。種牡馬としては失敗という評価が定着している。社台スタリオンステーションの徳武英介は、ランキング成績などから鑑みて、本来はもっと評価を受けるべき種牡馬とした上で、「初年度にわあっと産駒が走ったことが、結果的にシービーを苦しめ」、これが招いた種付け料の高騰が「普通に走っていても走らないと思われて」しまった要因とし、「シービーは可哀想だった」と述べている。また、ライターの村本浩平も、やはり2000万円という交配権の取引価格が「種牡馬ミスターシービーの名誉であり、躓きだったという気がする」と評している。後継種牡馬として、ヤマニングローバルが種牡馬となるも、配合相手に恵まれず、ミスターシービーの直系は絶えている。以降は千明牧場三里塚分場で功労馬として余生を過ごした。放牧地は同じく功労馬として繋養されていた母シービークインの隣に設けられ、通常、離乳以降は二度と再会することがない母仔が、互いの姿が見える空間で過ごすという珍しい光景となった。2000年12月15日、父トウショウボーイと同じく蹄葉炎により死亡。三里塚分場内に墓が建てられている。死亡から4年後の2004年、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として、「ミスターシービーメモリアル」がダービー施行日の東京競馬場の最終レースに施行された。なおこの年の1月、母・シービークインが亡くなっている。
出典:wikipedia
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