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奴隷

奴隷(どれい)とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。1948年に国連で採択された世界人権宣言では、奴隷制について次のように宣言している。奴隷はあらゆる地域、時代の文献からも広範にその存在が確認され、その様態もさまざまである。奴隷の定義は古代から議論の対象となっており、アリストテレスは「生命ある道具」と奴隷制を擁護し、ソフィストの奴隷制批判に反論した。マルクス主義においてはスターリンの定義が最もよく知られている。しかし福本勝清によれば多くの奴隷制は生産と必ずしも結びついていないか、生産様式や生産関係を規定づけるほど主要なものではなく、本質的には「自己の勢力を増やす手段であった」とする。パターソンによれば「生まれながらに疎外され、全体として名誉を喪失し…永続的かつ暴力的に支配される(人間の)こと」。人種差別、性差別、幼児売買などは奴隷に固有のものではないが、多くの場合密接に関係していた。暴力と恐怖による支配が社会階層におよぶ場合農奴制や奴隷労働者の階級が形成された。有史以来、人が人を所有する奴隷制度は世界中で普遍的に見られたが、風土・慣習・伝統の違いによる地域差が大きい。戦争の勝者が捕虜や被征服民族を奴隷とすることは、古代には世界中で程度の差はあるが普遍的に見られた。古代ギリシアのポリス間紛争では敗れた側の住民で成年男性は殺害され、女性や子供は奴隷にされた。ギリシャやローマの社会は奴隷制を基盤にしたものであったが、ギリシャ世界のポリスはスパルタを除けば奴隷の収奪を主要な目的とした社会組織ではなかった。奴隷交易はデロス島が著名であり、ストラボンの地理書では1日に1万人以上の奴隷を扱うことが出来たと記されている。奴隷は家庭内労働、鉱山、ガレー船員、軍事物資の輸送、神へ捧げる生贄など様々な場面において使用された。スパルタは大量のヘイロタイを農奴として使役した。共和政ローマでは征服地の住民は多くが奴隷として使役されたが、奴隷によるプランテーションが中小自営農家の没落を招いた。大規模な奴隷反乱はスパルタ、ローマでしばしば見られた(メッセニア戦争、奴隷戦争)。古代中国の殷では神への生贄に供するために奴隷が用いられた。日本でも弥生時代に生口と呼ばれる奴隷的身分がすでに存在したとされる。また、日本に限らないが、中華王朝の周辺部族が皇帝に朝貢するときには、生口を貢物として差し出すことも珍しくはなかった。古代のある時期、奴隷が社会の主な労働力となっている体制を奴隷制と呼ぶ。この奴隷制は、唯物史観の発展段階論に於いて、原始共産制以降から発展し封建制へと繋がる段階とされ、この解釈では奴隷は、農業・荷役・家事などの重労働に従事することが多かったとされる。農業革命が達成された中国に於いては北宋以降、日本に於いては江戸時代初期以降、土地の囲い込みによる農奴の小作農化(賃労働化)が進んだ。西欧諸国では17世紀のペスト禍によって奴隷の価格や農奴の価値が上昇するにつれ、国民については厳格な階級制度が緩和され、農奴から小作人への身分転換が進んだ。しかし、国外については、商品購買層ではない人々(他人種)に対し奴隷貿易が続けられた。新大陸においては、移民の賃金労働者が奴隷よりも安価な労働力となり、労働力不足も発生していたため、奴隷解放をして安価な賃金労働者に再編された。1949年に発効した国際連合の人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約や1957年に発効した奴隷制度廃止補足条約などそれに準じる各国の法規によって奴隷制度やトラフィッキングは現在は禁止されている。しかし、工業化の進んでいない発展途上国では、商品経済に飲み込まれながらもその対価が払えない貧困層が絶えず生まれ続け、それを供給源とする事実上の奴隷売買が公然と行われている地域がある。また、先進国・発展途上国の別によらず、暴力等によって拘束して売買し、性産業に従事させる犯罪が後を絶たず、非合法の奴隷とみなされる。世界には今でも2700万人もの奴隷がいると言われている。2014年、過激派組織ISILはコーランの解釈に基づき奴隷制度の復活、運用を国際社会に公表している。古代ギリシャ世界では、奴隷は主に戦いや祭祀の際に捧げる犠牲、農作業、雑用役などの労働に非常に盛んに使用され、多くはないが家内工業における職人もいた。ポリス市民の得た閑暇は公的生活への参加に向けられ、労働は恥辱であることが公然と言明された。ギリシャと異なりローマ人は肉体労働そのものを卑しむ精神伝統はなかったが、報酬として金銭を要求する職業を卑賎なものと見做す習慣があった。そのため高い報酬を受け取るような職種であっても、奴隷が担う場合が多かった。奴隷の境遇は様々であり、後述の通り高待遇の奴隷も存在した。古代ローマは基本的には初期から滅亡まで奴隷制社会であるが、時代による変遷がみられる。共和制時代には小規模自営農が多数を占めていたが、そうした自営農もひとりかふたり程度の奴隷を持つのが普通であった。その時代の奴隷は、後世ほどには悲惨な境遇ではなく、大切な労働力、貧しい農民にとっての「高価な財産」として扱われた。共和政ローマが征服戦争を推し進めるに随って奴隷の獲得機会が増えると共に、奴隷の価格も下がり、奴隷労働者を大量に使役するラティフンディウムが拡大した。そうした「安価な財産」である奴隷の待遇は酷いものであり、様々な記録の中で悲惨さが描かれている。ほか、鉱山においても奴隷は酷使された。ローマは4度にわたって、大規模な奴隷の叛乱を経験している。従来の城郭都市近郊の小規模自営農は経済的に没落する一方でパトリキ(貴族)やエクィテス(富裕層)は大土地所有と奴隷労働により富を蓄積した。一方で、無産階級に零落したローマ市民権を持つローマ人は都市に流入した。ローマでは、農業や鉱山以外でも、数多くの仕事に奴隷あるいは解放奴隷が従事した。彼等は奴隷所有者である主人の判断によっては、労働内容にみあう技能教育をされることがあったと考えられている。また、ローマでは哲学や詩、歴史学などに熟達した多くのギリシア人奴隷が家庭教師として、他にも医術や算術(会計術)を身に付けた奴隷が医術師や会計役として重宝され高額で売買された。また官僚制が発達する以前においては、政治家が個人として所有する奴隷が、官僚的役割を担った。こういった高い教育を受けた知的労働に携わる奴隷は「高価な財産」として、非常に高待遇を受けていた。家庭教師は生徒(つまり主人の子弟)にちょっとした体罰を加える事もあったし、また属州総督が所有する奴隷は、属州民から見れば支配者階級の末端であった。商業を侮蔑し農業にたちかえる事を主張した大カトーも、能力のある奴隷を見いだして教育を受けさせ、高値で転売する事に限っては、利殖として認めている。奴隷はしばしば虐待の対象となり、アウグストゥス時代の富豪(ローマ騎士)Publius Vedius Pollioは怒りにまかせ自分の奴隷を池に投げ込み、魚のエサにしたとの話がある。一方で、老年まで勤め上げた奴隷を奴隷身分から解放する主人もいた。時代が下がるとともに奴隷の境遇も改善され、帝政期の特に2世紀以降になると奴隷虐待の風潮に対して、いくつかの奴隷保護法が制定された。コンスタンティヌス帝の319年の勅令においては主人は主人権を乱用し故意に奴隷を殺したときは主人を殺人罪に問うべしとした。これらは主に2世紀以降に出されたが、パクス・ロマーナにより戦争や略奪による奴隷の供給量が減少したことが影響している。従って、上記の奴隷の待遇緩和に先んじて、所有者が奴隷を解放する人数に制限が加えられてもいる(アウグストゥス帝)。これによりラティフンディウムの制度は崩壊し、コロナートゥスに移行していった。幸運に恵まれて奴隷身分から解放奴隷身分になる者もおり、解放奴隷の子供の代になればローマ市民権を獲得する可能性が得られた、中にはペルティナクスのように皇帝になった者もいる。また債権者は返済不能となった債務者自身を奴隷として売却し貸付金を回収することが認められており、自由身分を喪失して奴隷となる者もいた。またローマには捨て子の習慣があり、拾われた捨て子は奴隷となった。中世西北ヨーロッパでは羊毛、皮革、毛皮、蜜蝋程度しか、オリエントや東ローマに対して輸出できるものがなかったため、何世紀にもわたり奴隷は西北ヨーロッパからビザンツやアジアへの主要な輸出商品の一つであった。ヴェネツィア(特に年少のうちに去勢されたイタリア半島内の奴隷は、イベリア、ビザンツ、イスラム世界で重宝された)、フィレンツェ、トスカーナ地方の富の蓄積は奴隷売買によるところが大きかった。また北アフリカやアンダルス・北イタリア・諸騎士団の海賊は、しばしば南欧の住民や地中海沿岸の敵対する勢力の住民を襲って拉致し、奴隷として売っていた。これは西ヨーロッパと隣接する東ローマ社会では宮廷から生産労働まで大量の奴隷の需要があり、またイスラム社会においては奴隷を必要とする社会でありながら、自由民を奴隷階級に落す事が禁じられ戦争捕虜や売買によって外部から供給を受けるしか方法が無かったからである。西ヨーロッパの内部においては、上述の通り古代末期においてラティフンディウムの崩壊により奴隷の使用は少なくなる一方、コロナートゥスの進展により農奴と呼ばれる労働・居住の自由を持たない奴隷的な小作人が数多く存在した。16世紀から19世紀にかけて、アフリカ諸地域から輸出された黒人奴隷(奴隷貿易)は、主に南北アメリカ大陸で、プランテーション農業などの経済活動に、無償で従事させられた。航海時代にはキリスト教は、長い議論を経た上で「黒人は人間で無い」との結論に達している。北米においては最初先住民族のインディアンの奴隷化が試みられたが、彼らは社会の発展段階がまだ氏族社会の段階にあり、定住した勤労には不適で、農耕労働は強制力をもってしても強いることは出来なかった。奴隷貿易に参加した国はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの5ヶ国である。奴隷商人は、ヨーロッパから安物のビー玉、火器(銃器)、木綿製品を積載してアフリカ・ギニア湾岸に到り、黒人奴隷と交換し、奴隷をブラジルや西インド諸島で売り飛ばした。次にその金で土地の砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどの亜熱帯農産物を積み、ヨーロッパに帰ってくるのである。奴隷貿易で最盛期を迎えるのは18世紀である。推計では16世紀は90万人、17世紀は300万人、18世紀は700万人、19世紀は約400万人が奴隷として売買されたといわれている。概算1500万人と言われているが、多数の奴隷船の一次記録の調査により、大西洋横断中の死亡率は13%程度であると想定され、近年では最大でも1100万人程度と推定されている。ただし、アフリカにおいて、ヨーロッパの奴隷貿易業者の手に渡るまでの期間の死者、即ち現地アフリカの勢力が奴隷狩り遠征その他の手段によってかき集めてから、ヨーロッパの業者に売られるまでの期間にどれだけの死者が出ていたかは調べられていない。 アメリカ大陸において民主主義の進展により市民が自由を得て、かつ君主もいなくなる一方で、人種差別と相まって奴隷の境遇が悲惨なものとなり、北アメリカでは奴隷は子孫に至るまで奴隷身分として固定されてしまい(one-drop rule「黒人の血が一滴の血でも混ざれば白人とはみなさない」)、自由民と奴隷の格差が非常に顕著になったのである。南アメリカにおいては、混血児に対する扱いは北アメリカより寛大で、父親が認知すれば相続権も与えられた。一方でアメリカ大陸では日本人や中国人などの黄色人種系、あるいは白人の人々が奴隷として売買されていたが、彼らの奴隷として境遇は契約書に記された期間限定のものであり(ただし何らかの理由をつけて期間延長がされる事があった)黒人奴隷ほど厳しいものではなかった。なぜ近代社会に入って奴隷制が容認されたのかという理由は、福音や旧約聖書に奴隷制度を容認すると解せる記述があることが根拠とされ(当然、聖書の記述は古代社会であるにもかかわらず)、これを文字通り近代社会に当て嵌めうるとの解釈を強引に行ったからである。これに対し殆どの教会や牧師もこのこじつけの論理を黙認した。アメリカ合衆国では、南北戦争の時代にリンカーン大統領(→奴隷解放宣言)によって、奴隷制度が廃止されたが、大半の黒人は1971年まで、「選挙権はあるが投票権がない」状態だったなど、政治的な権利の制限は長く続いた(公民権運動、外部リンク参照)。19世紀における奴隷解放運動の活動家にはフレデリック・ダグラスなどがいた。 なお、中世・近世のように西ヨーロッパから東欧や西アジアへ奴隷が輸出されるような状況は、17世紀の人口減少による奴隷価格の高騰や西欧社会が再び奴隷を使用する社会となるにつれ減少していくが、北アフリカの海賊(バルバリア海賊)がヨーロッパ人を拉致して奴隷として売る状況は、1830年のフランスによるアルジェリア征服まで続いた。逆に、キリスト教徒海賊がギリシャやイスラム世界から拉致した奴隷を購入する事例もあった。基本的にアジアの農耕社会の奴隷が持つ一般民との差異は労働に関する制約がほとんどで農奴に近いといえる、もちろん賎民であり蔑視の対象ではあったものの、欧州圏とは異なり奴隷の殺害を罪に問う社会が多かった。また、身分の固定も強固なものではなく、奴隷身分からの脱出も欧州世界の奴隷ほど困難ではなかった。インドのカースト制を代表とする身分制度のうち、シュードラやダーサを奴隷と訳すこともあるが、所有・売買の対象という意味では奴隷の定義から外れる。他のカーストの下に置かれたことから奴隷の名を宛てる者もいる。時代による変遷があるため、ギリシャ人やローマ人が記録を残した時代のものは、家内奴隷で待遇もそれほど劣悪ではなく、ギリシャ人やローマ人の目に奴隷と映らなかったようである(要出典)。古代中国に於いては商(殷)は戦争奴隷を労働力・軍事力の基盤として、また葬礼や祭祀における犠牲として、非常に盛んに利用していた。商(殷)までは奴隷制社会であったことは定説となっているが、いつまでが奴隷制時代であったかは諸説あり、奴隷制から封建制に変革されたとされる周の易姓革命、ないしは、商(殷)程ではないにせよ実質的には奴隷が生産力の主力となっていた春秋時代までが奴隷制時代と考えられる範疇として議論されている。いずれにせよ、中原とは文化の異なる民族(夷蛮戎狄)との戦争で捕虜とした奴隷が過酷な労役に就かされたと考えられている。後漢末・魏晋南北朝以来の貴族制下では、律令により賎民に区分された雑戸官戸や奴婢などの農奴と奴隷が政府や勢家の下に多く存在していた。宋王朝以降は官奴婢が禁止されたが、私奴隷は清王朝の時代まで少数ながら存在した。基本的には罪を犯した者が奴隷身分へ落とされ、欧州でいう所の農奴や官営工場の職人として強制的に労働へ就かされた。前漢の衛青は奴隷の身分から大将軍まで上り詰めた。(中国の奴隷制参照)朝鮮では丙子の役で、清朝軍が李氏朝鮮を制圧した戦い際に、清朝軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京(瀋陽)の奴隷市場で売られた。タイの歴史上では、タートと呼ばれる自由を拘束された身分があった。そのほとんどが、未切足タートと呼ばれる、少額の負債を負った者が債権者に労働などで負債を返済する形式の者であり、すべてがいわゆる奴隷的な身分というわけではなかった。しかし、一部には切足タートと呼ばれる多額の負債を負って奴隷身分となった者や、捕虜タートと言われる奴隷があり、これらは自由身分への復帰が非常に困難とされた。チャクリー王朝に入ってからラーマ1世によってこの切足タートや捕虜タートにも自由身分へ回復する事が制度的に可能になった。のちに、ラーマ5世のチャクリー改革によってタートの制度は廃止された。匈奴やスキタイ,柔然,突厥,ウイグル,遼,モンゴルなどの遊牧民が主体を構成する社会では、戦争捕虜,犯罪者,征服した部族の奴隷的使役,南の農耕地域から拉致した奴隷が多数居たことが確認されるなど、類似した奴隷制社会の形態が見られる。その他の遊牧民による国家も同様と考えられるが、史料に乏しく実態はよく解っていない。一説には、すでに縄文時代において奴隷制が存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国の女王・卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、魏王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。古墳時代に入ると、ヤマト王権によって部民制(べみんせい)が敷かれ、子代部(こしろのべ)、名代部(なしろのべ)、部曲(かきべ)などの私有民もしくは官有民が設けられた。部民制は、飛鳥時代の大化の改新によって、中国の唐帝国を模した律令制が導入されるまで続いた。日本の律令制度では、人口のおよそ5%弱が五色の賤とされ、いずれも官有または私有の財産とされた。そのうち、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は売買の対象とされた。この2つの奴婢身分は、公地公民の律令制度の解体と、荘園の拡大に伴い、平安時代前期から中期にかけて事実上消滅していった。907年の延喜格で正式に廃止されたとされる。五色の賎は、良民との結婚などに制限があったが、良民と同等または3分の1の口分田が班給されており、古代中国などと同じく、現代人が想像する奴隷とはやや異なる存在であった。平安時代後期に、日本が中世へと移行すると、社会秩序の崩壊にしたがって人身売買が増加し、「勾引」(こういん)や「子取り」と称する略取も横行した。また、貨幣経済の発展に伴って、人身を担保とする融資も行われた。こうして、様々な事情で自由を失った人々が下人となり、主人に所有され、売買の対象になった。有名な『安寿と厨子王(山椒大夫)』の物語は、この時代を舞台としている。このように、中世には人身売買が産業として定着し、略取した人間を売る行為は「人売り」、仲買人は「人商人」(ひとあきびと)や「売買仲人」と呼ばれた。また、奴隷が主人から逃亡することは財産権の侵害と見なされ、これも「人勾引」と称された。自力救済の時代である中世日本では、人身売買は民衆にとって餓死を免れるセーフティーネットとしての面も持つ行為であった。身売りすることで近い将来に餓死する事だけは避けえたからである。鎌倉時代に寛喜の飢饉と呼ばれる飢饉が発生した際に多くの人々が自身や妻子を身売りして社会問題となった。そのため、鎌倉幕府は1239年になって人身売買の禁止を命じるとともに、例外として飢饉の際の人身売買とそれに伴う奴隷の発生は黙認する態度を示した(『吾妻鏡』延応元年4月13日・5月1日条)。その後、元帝国と高麗の連合軍が壱岐・対馬と九州北部に侵攻し(元寇)、文永の役では、捕らえられた日本人の婦女子およそ200人が、高麗王に奴隷として献上された。国内においては、鎌倉幕府や朝廷は、人身売買や勾引行為に対して、顔面に焼印を押す拷問刑を課したこともあった。しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴隷の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で奴隷狩りを行った。惣村社会では境界紛争の解決にしばしば下手人として奴隷を利用した。いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」(乱妨取り)と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は、主にポルトガル商人を通して東南アジアなど世界中に輸出された。関白の豊臣秀吉は、バテレン追放令でこれを禁じた。他には、ヤスケという名のアフリカ系奴隷が、戦国大名の織田信長に宣教師から献上され、武士の身分を与えられ家来として仕えたとの記録が残っている。江戸時代に勾引は死罪とされ、奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。また、前借金による児童や青少年の年季奉公も広く行われた。これらは明治維新による近代化の後も形を変えて残った。1872年のマリア・ルーズ号事件をきっかけに、時の司法卿・江藤新平によって、芸娼妓解放令が太政官布告として発せられ、このような人身売買は法的には禁じられた。また、それより以前の1870年には、外国人への児童の売却を禁ずる太政官弁官布告が出された。明治時代、島原・天草を中心とする地域から、日本女性の日本国外への「輸出」が大規模に発生した(からゆきさん)。この公娼、私娼の問題は、近代化を進める日本社会において、階級対立の象徴として影を落とした。二・二六事件は青年将校が、部下の兵士が国家に対し兵役義務を果していながら彼らの姉妹が貧しさゆえに遊郭に売られていく矛盾への憤りがその一因となっている。朝鮮では男の奴隷を奴、女の奴隷を婢と呼び、併せて奴婢(ノビ)という。朝鮮における奴婢の歴史は、中国の征服者・箕子が興した箕子朝鮮の時代より始まるとされる。箕子は朝鮮を治めるにあたり、厳しい刑法犯禁八条を制定した。その際に刑罰として敷かれた制度が奴婢制であった。人間は自らの労働によって生計を営まねばならない。仮に誰かが詐欺や暴力で他人の財産を横取りしたなら、論理的にも道徳的にもその者は被害者の所有物となるべきとの論理にもとづいて、窃盗犯はすべて被害者の奴婢になるという刑罰が作られた。莫大な保釈金を払って奴婢の身分から脱することはできても市民としての信用は回復されることがなかった。姦通罪も奴婢法によって罰せられた。この場合罪人は国の奴婢となり、王は彼を思いのまま高級官吏に下賜(かし)したりした。この制度は紀元前193年までほぼ千年以上続いたが、当時の箕子朝鮮の最後の王・箕準(キジュン)が燕人の衛満によって追放され廃止された。半島の南方に追われて馬韓(バカン)という王国を建てた箕準は、そこで奴婢制をそのままに踏襲した。その後数百年間この制度は存続と廃止をくりかえしたが、918年、朝鮮半島が高麗王朝によって統一された再び一般化することになった。奴婢の数は急速に膨れあがったが、彼らへの待遇は劣悪で、残忍とさえ見なせるものだった。1198年、万積らが公私奴婢を集めて蜂起を画策したものの事前に発覚し、結果として300人を越す奴婢らが首に石を結びつけたまま礼成江(イェソンガン、高麗の都・開京(開城)郊外を流れる川)に放りこまれて処刑された。李氏朝鮮の1592年、豊臣秀吉の軍が朝鮮半島に攻め込んだ(文禄・慶長の役)。この折、奴婢らが混乱に乗じて戸籍の消滅を図り景福宮に放火したため、王宮は漢陽陥落以前に焼失している。7年にもわたる戦乱で多くの男子が犠牲になったため、朝廷では奴婢のうち男性をその身分から解き放った(しかし、実際は従来どおり男の奴婢もいた)。1894年の甲午改革で法的には撤廃されたが。1905年の段階でも多数の女が奴婢の身分に囚われていた。彼女らはほとんどの場合、罪を犯した親戚の男の身がわりとして自主的に奴婢となったか、あるいはその身分を相続した者たちであった。朝鮮には「白丁」と呼ばれるもうひとつの賤民階級があり、奴婢とは区別されていた。彼らは倫理的保護の対象外として社会からきびしく差別・侮蔑される対象であり化外の民であった。朝鮮で実質的に奴隷制度が廃止されたのは日韓併合の時代であり、1910年に朝鮮総督府が奴隷の身分を明記していた旧戸籍を廃止し、すべての国民に姓を定めた新戸籍制度を導入した。ハチやアリなどの社会性昆虫にも、人間の奴隷制と似た社会的行動をとるものがある。サムライアリは強力な軍隊(兵隊アリ)を持つが、労働力(働きアリ)はなく、自分では女王蟻や幼虫の世話も、巣作りや餌集めもできない。そこでクロヤマアリの巣を襲撃し、蛹や働きアリを強奪して自分の巣に運び、巣を支える奴隷として死ぬまで労働させるのである。書籍論文

出典:wikipedia

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