遠山 友忠(とおやま ともただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国飯羽間城(飯場城)および苗木城の城主。正室は織田信長の姪。美濃国恵那郡の領主遠山友勝の子として生まれた。本家筋の岩村遠山氏から苗木遠山氏に入った遠山直廉が、元亀3年(1572年)5月18日に戦傷死すると、父遠山友勝が織田信長の命でこれを継いで苗木城主となったことから、友忠が飯羽間城主となった。友忠はその後、飯羽間城を長男友信に任せて、自らは明照城(あてらじょう)に移っていたが、父友勝が亡くなったので、明照城を次男友重に任せて、自らは三男(嫡男)友政をつれて苗木城に入った。苗木では領主が友勝・友忠と一年の内に相次いで代わったので、人心が乱れて国人一揆が発生したが、友忠は厳しく鎮圧した。甲斐武田氏・織田氏に両属していた遠山景任(直廉の兄)が同年8月に病死して岩村遠山氏が断絶すると、信長は四男坊丸をその養嗣子として送り込んだことから、元亀3年に武田信玄が西上作戦を開始した際に従属関係の断ち切られた東美濃も攻め込まれ、伊奈郡の秋山虎繁(信友)が侵攻して岩村城を降伏させた。友勝の一族は同族の明知遠山氏や東三河の奥平氏などと協力して秋山と戦ったが敗れている。天正元年(1573年) 、信長は岩村城奪還の軍を起こしたが、撃退された。天正2年(1574年)4月中旬、武田勝頼が東美濃に侵攻、苗木、中津川、今見、阿寺、大井、神篦、妻木、串原等の城砦を陥れ、明知城を包囲した。明知城の友治は籠城。織田信長は兵3万余を率いて救援に向かったが、山県昌景が武田軍6千を率いて鶴岡山の麓を廻りその進路を遮ったため、信長は自重して3里退いて陣を張った。両軍が対峙するまま、明智城は陥落して友治は討ち死にした。『信長公記』ではこのとき飯羽間右衛門尉なる人物が城内で内応したので明智城は落城したとするが、所記に「信次」とある者は友信のことを指していると思われる。また明照城も陥落して次男友重が討ち死にした。同年5月、勝頼はこれ以上は美濃国深くに侵攻せず、転進して遠江高天神城の攻囲に向かった。東美濃は織田信忠の与力河尻秀隆の指揮下に入り、延友信光、小里光明らがこれに属し、遠山友忠や遠山利景もこれに属したと考えられる。天正3年(1575年)、武田勝頼がまた伊那より出撃して奥平信昌の長篠城を攻めて、長篠の戦いで大敗すると、信忠はすぐに秋山が篭る岩村城を攻囲した(岩村城の戦い)。この戦いでは武田方についていた遠山七頭の諸士は悉く自害して果て、織田方についた苗木遠山氏と明知遠山氏を残すのみとなった。天正10年(1582年)2月10日、甲州征伐の契機となった木曾義昌の調略の成功を信忠に取り次いだのは友忠とされ、以後も取次役となり、甲州征伐では木曾勢と共に先鋒を務めて出陣し、友忠・友政親子は鳥居峠の戦いで一番槍の功を挙げて、後日、信長より感状を受けている。他方で、戦後に友信は捕らえられて突き出され、処刑された。同年6月、本能寺の変で信長と団忠正が死ぬと、友忠は遠山氏の本領であった岩村城を奪還すべく義昌と謀って、信長の命であった越後侵攻を中止して北信濃・海津城から帰還する途上の森長可(蘭丸の兄)を殺害しようとしたが失敗。天正11年(1583年)、羽柴秀吉と織田信孝が対立しはじめると、秀吉から美濃金山城主に戻った森長可の指揮下に入るよう命令され、長可からも投降を勧められるが、これらを拒絶。徳川氏の支援を受け、東美濃を制圧しようとする長可と争った。長可は部将幸田孫右衛門をして苗木を攻めさせたが、友忠・友政はこれを要撃して撃退。長可が次に部将大塚次右衛門・林新右衛門をして攻めさせると、友政は木曽川の支流でこれを防ごうとして敗れて、城内に引き下がり、一族・譜代の家臣らと共に出奔した。浜松の徳川家康を頼って落ち延びた。以後は徳川氏の家臣である菅沼定利の預かりとなり、友忠はその後、死去したという。武田勝頼室(龍勝院)である「苗木勘太郎」を『苗木物語中』では友忠とし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いに兵500余騎を率いて織田氏に加勢し、美濃国にて2万石を受けたとしている。ただし「苗木久兵衛」と称された友忠を、苗木勘太郎と同一人物と解釈するのは難しく、同じく織田氏を室としたということで、混同したものと思われる。
出典:wikipedia
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