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東急バス瀬田営業所

東急バス瀬田営業所(とうきゅうバスせたえいぎょうしょ)は、同社路線のうち、主に東京都世田谷区西南部の東急田園都市線、大井町線沿線を発着する路線を管轄している営業所である。全路線の運行を東急トランセに委託している。営業所の略号は「S」。車庫の所在地は東京都世田谷区上野毛4-37、事務所・定期券売り場の所在地は東京都世田谷区上野毛4-38-3で、環八通り(東京都道311号環状八号線)に面している。事務所は以前、環八通りを挟んで向かいの瀬田2丁目にあったが、現在は解体されている。瀬田営業所は、1956年(昭和31年)3月16日に戦後初の増設営業所(観光営業所を除く)として開設された営業所である。当営業所の管轄地域の大半は、戦後になってから市街化が始まっているため、路線は1950年代以降に新設されたものが多い。戦前のこの地域はバス路線自体が少なく、玉川電気鉄道が自社の鉄道に沿って渋谷 - 玉川・溝の口方面と駒沢で分岐して等々力方面に至る路線を、目黒蒲田電鉄(目蒲乗合)が駒沢・等々力の2つのゴルフコースへ向かう路線を運行していた程度であった。営業所の開設当初は、主に多摩川沿岸地域から渋谷方面に向かう路線を担当していたが、学校線、砧線(現・二子成城線)、エビス線、弦巻線、上馬線など、世田谷区内を運行する路線が相次いで新設されると、これらを受け持つようになっていった。その後、周辺地域に弦巻、高津、駒沢の各営業所が新設されたことにより路線が移管され、さらに長距離路線の分断が進んだことなどにより、担当路線は世田谷区の西部に集中するようになっていった。2001年3月16日より、東急トランセへの運営委託が行われている。同日より、環八・用賀の2路線、同年5月16日よりコーチ自由が丘線、7月16日より世田谷線、9月16日より玉堤循環・美術館の2路線、11月16日より二子成城・遊園地の2路線、2002年9月16日より大橋営業所からの移管に伴い等々力線を、それぞれ同社瀬田営業所に委託している。また貸切バスも配置されている。2007年6月13日には、同営業所所管路線にPASMOが導入されている。世田谷区の二子玉川駅から、旧東急砧線の一部区間をたどりながら多摩堤通りを進み、小田急線成城学園前駅(南口)へ至る路線。小田急バスとの2社共同運行を行っている。戦前はこの線にほぼ沿う形で、現在のJR南武線の前身である南武鉄道(現・太平洋不動産)が溝の口 - 二子玉川 - 成城学園前というバス路線を有していたとの記録がある。南武鉄道のバス部門は、1940年(昭和15年)に子会社入りした立川自動車運輸(現・立川バス)に統合される。戦後の混乱の中、立川バス溝口営業所は1951年(昭和26年)に川崎市交通局(現・川崎市バス菅生営業所)へ売却され、この時に都内部分の運行は取りやめられた。そして、東急と小田急バスの2社が二子玉川園駅 - 成城学園前駅間の運行を始めることとなった。1956年(昭和31年)4月10日付けで東急単独の砧線として改めて開設。同年6月1日には二子玉川線の一部となり、大田区の国鉄大森駅まで延長された。一方、小田急は同じ頃二子玉川園駅 - 成城学園前駅 - 祖師ヶ谷大蔵駅 - 千歳烏山駅 - 岩崎学生寮という路線の一部として運行していたが、1960年代半ば頃に両社とも路線を分割・短縮し、二子玉川と成城学園前を結ぶ現在の形で共同運行するようになった。沿線には東急グループの五島育英会が運営する東京都市大学付属中学・高校の他、都立世田谷総合高校(旧・都立砧工業高校)、科学技術学園があり、それら学校への通学輸送の役割が重い。また、成城学園前駅から駒澤大学玉川キャンパスへ向かう学生の需要もある。一方、小田急線と東急田園都市線・大井町線の急行停車駅同士を結ぶ鉄道短絡輸送、世田谷区鎌田の地域輸送、小田急沿線から高島屋玉川店、二子玉川ライズへの買い物客、楽天クリムゾンハウスへの通勤輸送、成城地区から二子空港線、二子成田線への接続など多彩な役割を持ち、この地域に欠かせない生活路線となっている。2005年(平成17年)5月16日より、二子玉川駅周辺の渋滞による遅延回避のため、平日朝ラッシュ時間帯の二子玉川駅行きが(成城学園前駅行(終日)と同様の)中耕地経由となる措置がとられている。2011年(平成23年)4月1日付で砧農協前停留所は「砧中学校下」に改称された。さらに2012年(平成24年)8月1日、成城学園前駅の降車が西口へと変更された。遊園地線は、二子玉川駅から多摩堤通りを二子成城線とは反対の方向に走り、東急東横線多摩川駅に至る路線である。かつて多摩川沿いにあった2つの遊園地、二子玉川園と多摩川園を結ぶ路線として1955年(昭和30年)に開通した路線で、東急電鉄の寄付によって同年完成した「多摩川パークウェイ」を経由し、初期の段階ではボディに動物の絵を描いた車両が使われるなど、レジャー路線の色彩が濃かったようである。両端の遊園地が消えた同路線ではあるが、現在もレジャー色は少なからず残っている。野毛の桜堤や、河川敷の公園やグラウンド(かつては巨人軍グラウンドがあった)は、日曜などは家族連れやスポーツを楽しむ人たちで賑わう。終点近くには、かつて「タマちゃん」の愛称で親しまれたアザラシが現れた地点がある。東京都市大学世田谷キャンパスへは、この路線を利用すると大学構内へ二番目に近い。路線の運行状況は開通時からあまり変化がないが、担当営業所は変わっている。開通当初は中延営業所の所管だったが、瀬田営業所の開設とともに瀬田が担当し、さらに1962年(昭和37年)4月の日吉営業所開設と同時に日吉へ移管。その後中延に戻り、1981年(昭和56年)6月の中延閉鎖で瀬田に復帰して現在に至る。東急電鉄では社内報『清和』の中で、営業成績が芳しくなかったためにこのような「たらい回し」的所管換えが続いたと当時の様子を記録している。原則として中型ノンステップバスで運行されていたが、現在は中型ロング車や大型車で運行されることも多くなっており、最近のダイヤ改正では増便が行われている。入出庫便は瀬田営業所発着が運転される。2010年6月1日(JST11:00)から、二子玉川駅周辺の道路切替により、二子玉川駅 - 明神池前間の経路が玉川高校経由から東急グループによる再開発地区「二子玉川ライズ」経由へ変更されている。2015年(平成27年)9月5日より土休日のみ小杉駅東口への乗り入れを開始した。小杉駅東口への乗り入れが好評だったため、2016年(平成28年)9月1日のダイヤ改正からは平日の乗り入れも開始した。小杉駅東口への乗り入れ多摩川駅 - 小杉駅東口では丸子橋、新丸子駅付近を経由するがこの区間は無停車となる。また同区間に限り川崎市内運賃(現金210円、IC206円)が適用される。丸子橋を渡る東急バスの一般路線は、1960年代まで存在した川崎営業所の久末線、日吉営業所の神奈川線以来45年ぶりの復活である。美術館線は、コーチ自由が丘線に次ぐ都内2番目の「東急コーチ」(デマンドバス)として、世田谷区の要請を受け開業した路線である。1987年(昭和62年)3月27日に二子玉川園駅 - 美術館の区間から開通し、当初は、玉川病院、NHK技術研究所、大蔵病院前(現・成育医療研究センター前)の3停留所が乗客の要望に応じて運行する迂回ルートとなっていた。これ以前に、美術館線として、玉09:二子玉川園駅 - (無停車) - 美術館、用01:用賀駅 - 美術館の2系統が運行されていたが、東急コーチの開通によりこのうち玉09が廃止となり、その後利用者が少ないことから1988年頃に用01も廃止されたが、1989年(平成元年)4月1日から二子玉川園駅 - 美術館 - 用賀駅に延長されるとともに、関東中央病院が迂回ルートに設定され、玉川病院は基本ルートに変更される形で路線が開設された。しかし全線を通しての利用や美術館を跨いでの利用が少なかったことから、1990年代中盤に美術館を境に系統分割された(迂回ルートは変更なし)。さらに2001年(平成13年)3月1日にデマンドバスとしての機能が廃止されて一般路線化され、従来迂回区間であったNHK技術研究所、成育医療センターおよび関東中央病院には終日乗り入れることとなり、逆に美術館への運行は開館時間(このうち二子玉川発は日曜・休日のみ)に限られることとなった。但し用22は世田谷美術館での特別展や砧公園でのイベント開催時には増発運行されることがある。玉32は当初、二子玉川駅 - 成育医療センター前 - 美術館の往復運行であったが、2003年9月21日より二子玉川駅→成育医療センター前→美術館→二子玉川駅という循環運転に変わっている。車両は、東急コーチ時代から全長9mクラスの中型車が就役しており、一般路線化されてからも玉31・32系統は、玉川病院付近の起伏が激しく、極めて狭隘な区間を持つことから現在も全長の短めなコーチ車で充当しているが、用21・22系統では近年中型ノンステップ車が充当されている。玉31,32はコーチ車が廃車となり、現在は日野リエッセが中心。等々力線は、渋谷駅と世田谷区南部の等々力を結ぶ路線である。瀬田営業所管轄の路線では、唯一終日渋谷駅へ足を伸ばす。東急田園都市線と大井町線で囲まれ駅から距離のある世田谷区深沢、中町、等々力の地域輸送を担うが、沿線に駒澤大学駒沢キャンパス、東京都市大学等々力キャンパス、日本体育大学世田谷キャンパス、都立園芸高校、東京学芸大学附属世田谷小学校、世田谷中学校など教育機関が多く立地する関係で、二子成城線と同様に通学輸送の役割が重い。「等々力線」の名称からも推測できるように、この路線は等々力周辺(大井町線の北側)で最も早くから走っていた路線であり、1930年(昭和5年)11月16日に玉川電気鉄道が渋谷 - 園芸学校(現・都立園芸高校)前として開通したのが起源である。その後、若干の延長および戦時休止を経て、戦後は1950年(昭和25年)4月6日に渋谷 - 等々力間の東急単独で再開された。開設当初は瀬田営業所がなく、目黒営業所が担当した。その翌年、1951年(昭和26年)5月6日から東京都交通局(都営バス)との相互乗り入れを開始。都営に合わせて102系統という番号が付けられ、神谷町・新橋経由で東京駅八重洲口まで運行した。等々力 - 東京駅間を結ぶ相互乗り入れ路線には他に目黒営業所の自由が丘線があるが、東98が目黒通りの開通によって自由が丘(現、八雲三丁目付近)から延長されて等々力まで至るようになったのは1959年(昭和34年)のことであり、両地点を結ぶ路線としては等々力線のほうが古い。東急バスにおける東京駅へ向けての相互乗り入れ線の新設は、等々力線が最後である。1956年の当営業所の開設と同時に目黒から移管されてきたが、1964年(昭和39年)の駒沢営業所開所時に再移管されて一度は担当から外れた。東京都交通局第3次再建計画に伴う追加の路線再編成を兼ね、駒沢営業所の廃止を約1か月後に控えた1984年(昭和59年)2月16日付けで渋谷駅を境に分断され、都営は東京駅八重洲口 - 渋谷駅前間の東82、東急は渋谷駅 - 等々力間の渋82という2つの路線になった。分断当初、渋谷駅は東口(東急文化会館前)発着であった。都営の東82系統は1990年3月に系統番号が渋88系統となり、その後は東京駅丸の内南口発着への変更、新橋駅までの短縮、はとバス委託に伴う新宿支所への移管を経て現在も運行されている。なお同じ駒沢が開設以来担当してきた環七線も同時に分断され、等々力・環七の両路線は揃って大橋営業所に移管された。都営側は現在は両路線ともはとバス委託である。さらに2002年(平成14年)9月16日の大橋営業所閉鎖に伴い瀬田に再度移管。駒沢開所時以来38年ぶりに元の担当営業所へ復帰した形となり現在に至っている。再移管された直後は大橋営業所からの転属車を含め、全車大型ツーステップバスで運行されていたが、現在は原則として全車大型ノンステップバスで運行されている。利用状況は、路線北側の渋谷駅 - 駒沢大学駅と南側の駒沢大学駅 - 等々力の区間で異なり、前者は並行路線(渋11・12など)があることから終日利用者数は平均的だが、後者は朝夕特に混雑する。また、運行状況によっては、バス停をこの路線が単独で使用できる三軒茶屋で時間調整が行われることがある。等々力には、等々力駅東側の目黒通り陸橋下に等々力線専用の折返所があり、等々力停留所より西側の等々力操車所へは行かず、「等々力」が起終点である。駅前には停留所はなく、用賀中町通りと等々力通りの交差点付近に停留所が配置されている。この路線は、世田谷区玉堤と最寄の東急大井町線の駅を結ぶ。地域南北間の交通利便性向上を目的とするが、東京都市大学世田谷キャンパスへは、この路線を利用すると構内に一番近い。最寄のバス停は、東京都市大前または東京都市大東入口である(一方通行運転のため、東京都市大前→東京都市大東入口の順に停車)。玉堤地区は多摩川河畔に位置し、最寄駅の東急大井町線等々力駅、尾山台駅から徒歩でも15分以上はかかる程度の距離がある上途中に国分寺崖線の急坂が存在する。以前は地区南端の多摩堤通りに遊園地線が走るだけでそれも地域住民の移動ニーズに沿ったものではなく、公共交通改善が望まれていたが、1990年代後半になってコミュニティバスとして世田谷区役所が東急に要請。1998年(平成10年)10月16日付で運行を開始した。東急バスが運行し、世田谷区が補助を行う。運賃は一般路線同様の設定とされた。狭隘な道路環境に合わせ、車両は全長7mクラスの小型車両が就役する。当初は三菱ふそう・エアロミディMJワンステップ車だったが、2011年に車椅子リフト付きの日野・リエッセに置き換えられた。車体前面には「タマリバーバス」の愛称が表示され、車体側面やバス停には可愛らしいイラストがシンボルとして描かれている。運行は等々力を基点とした環状運転(一方通行)であり、等々力を通した乗車も可能である。なお、入庫便が存在し、この場合、等々力発の等々力行きとなる(方向幕は系統番号の記載のない「等々力」の表示のみ)。起点停留所名は「等々力(玉川支所前)」で、世田谷区役所玉川総合支所(玉川区民会館)前に専用の停留所を持つ。渋82・等11・等12の「等々力」停留所(用賀中町通り上)とは異なる。また、停留所名称は「等々力(玉川支所前)」であり、「等々力」とは異なる名称となっている。環八線は、線名の通り路線の大部分を環八通りが占める路線である。1971年7月16日に開通し、田園調布駅から千歳船橋(小田急線千歳船橋駅そば)までを走る。使用車両は三菱ふそう・エアロミディナローロングが主体であるが、土曜休日は日野・レインボー中型車も運用される。環八通りが渋滞することが多く、特に休日は大幅に遅延し無ダイヤ状態になることもある。かつては経年車が中心であり、しばしば運用に例外の発生することがあった。世田谷区南西部と東横線横浜方面を渋谷を経由せずに短絡できるルートのため、田園調布駅側の乗り通し客が多い傾向にある。駒沢通りにはかつて、渋谷駅東口発着(渋谷駅東口 - 恵比寿間は渋72・恵比寿駅からは分断前の恵32と同一経路)の渋74系統と、東京駅直通で桜新町打ち切りの駒沢線こと東80系統が運行されており、このうち東80は不動前から弦巻を経て最後は駒沢が担当した。その後、東80系統は恵比寿駅を境に分断され、恵比寿以西が恵33系統として運行される。渋74も渋谷駅と恵比寿駅の間が廃止され、恵比寿駅から用賀・農大前・千歳船橋を経由して祖師ヶ谷大蔵駅を結ぶ路線となった。しかし、駒沢線はエビス線に吸収される形で1981年(昭和56年)に廃止となる。1994年(平成6年)1月17日付で再編成が行われ、用賀駅を境に恵32(恵比寿駅 - 用賀駅)と用01(用賀駅 - 祖師ヶ谷大蔵駅)に分断された。これは駒沢通りでの慢性的な渋滞によって発生する折返便の遅延を減らすことが狙いだった。祖師ヶ谷大蔵駅にバスターミナルが新設されるまでは一つ手前の祖師谷大蔵(祖師ヶ谷折返所→現・山野小学校)で発着していたが、駅前バスターミナルの新設で祖師ヶ谷大蔵駅まで延伸されている。2001年(平成13年)3月1日、瀬田から下馬に移管された。ただし下馬営業所の位置が路線の途中で早朝・最終バス間際に全線通しで運行がしにくいことから、同年3月16日よりその時間帯に限って瀬田担当便が復活。同営業所の用賀線の一部として運行していた。時刻表にも瀬田担当便である記号が記載されていた。2014年6月1日のダイヤ改正により、翌2日の運行から平日のみ恵比寿駅→中町五丁目の深夜バスが設定された。同改正により、恵比寿駅 - 守屋図書館の区間便が土曜日に1便だけ復活した。出庫時には五本木発、入庫時には恵比寿駅からは守屋図書館止まり・瀬田営業所行き(瀬田担当便のみ)、用賀駅からは三谷止まりが運転された。2016年(平成28年)3月1日、瀬田担当便を含め下馬から瀬田に全便再移管され、15年ぶりにエビス線が瀬田担当に戻った。用賀線は、用賀駅から農大前、千歳船橋を経由して祖師ヶ谷大蔵駅を結ぶ路線である。1994年1月17日の路線再編成で、恵比寿駅 - 用賀駅 - 祖師ヶ谷大蔵駅間を運行していたエビス線が分割され、用賀駅より西側が本路線に継承された。東側はエビス線・恵32のまま瀬田営業所が担当していたが、2001年3月の東急トランセ委託化に際し、下馬営業所に移管された。ただしその後まもなく、早朝・夜間に限って恵32のごく少数の便を瀬田営業所が受け持つようになり、この便は用賀線の一系統扱いとなっていた。一部は入庫として瀬田営業所行が運転された(瀬田担当便のみ)。2016年(平成28年)3月1日、恵32が瀬田担当便を含め下馬から瀬田に15年ぶりに全便再移管されたことにより、恵32の瀬田担当便が用賀線から分離された。かつて同番の用01(用賀駅 - 美術館)が短期間存在したが、単なる重複付番である(美術館線の項で後述)。世田谷線は、等々力操車所から玉川警察署、駒沢通り、用賀中町通り、世田谷通りを経由し、成城学園前駅(南口)までを結ぶ路線である。平日のみ、用賀駅〜成城学園前駅間を折り返し系統の用06が運行されている。他に瀬田営業所~用賀駅間の出入庫便も本路線の時刻表に含まれている。この路線は昭和30年代後半の開通で、かつては田園調布駅を起点に運行されていた(系統番号は園03)が、1994年(平成6年)1月17日の路線再編成で上町線(園02)との重複区間が多かった田園調布駅 - 九品仏駅 - 尾山台駅 - 等々力間が廃止された。1995年(平成7年)7月17日に折り返し便の用06系統が新設された。短縮された区間のうち、園03の単独運行区間であった奥沢七丁目 - 等々力間は、現在、等01(タマリバーバス)が走っている(奥沢七丁目に相当する停留所は「等々力五丁目」であるが、信号を挟んで数十メートルの至近距離にある)。原則として、ノンステップバス(中型ナロー車)で運行されているが、朝方は中型車の運用もある。夕方以降、大型車が入ることもある。2011年3月1日に多摩01系統が下馬営業所から移管された。またこの時のダイヤ改正で渋33系統が減便され平日朝のみの運転になり、1往復を瀬田が担当するようになった。この路線は基本は中型車だが、リエッセなど小型車も運用につくことがある。また、雪が谷線の名は1989年4月1日に品90系統が廃止されて以来約22年ぶりの復活となる。渋33系統はかつて渋谷駅から下丸子駅、池上駅を経由して大森駅(大森操車所)まで運行していた路線が前身。1981年6月に渋33系統と森10系統(大森操車所 - 田園調布駅。1993年11月廃止)に分割、渋33系統は丸子橋までの運行となったが、1989年に多摩川駅まで延長されている。当初は淡島営業所の担当だったが、1999年に下馬営業所に移管されていた。宇奈根線は二子玉川駅方面と従来は連絡バス路線のなかった喜多見・宇奈根地区のコミュニティバスとして2007年(平成19年)4月9日に開業した。仮称は喜多見・宇奈根地区コミュニティバス。宇奈根地区には和泉多摩川駅、狛江駅南口方面と連絡する小田急バス狛12系統があり、宇奈根線は南方向の二子玉川駅を指向する路線として設定されたものである。宇奈根一丁目バス停近くに、小田急・狛12系統の起終点であるの宇奈根バス停が位置している。2013年10月1日のダイヤ改正では日中の便に限り小田急バス喜多見住宅折返所に近い喜多見公園まで足を伸ばす玉04系統が新設された。扱いは一般のバス路線と同じであり、この形式で世田谷区内において東急バスが運行するコミュニティバスとしては等01(タマリバーバス)に続くものである(前述)。途中通過車両の重量に制限のある水道道路を経由するため、下馬営業所から移籍した小型のCNGノンステップバス2台と川崎営業所から移籍した小型ノンステップバス2台(ともにエアロミディME)が専用で運用されるが、稀に日野・リエッセでの運用がある。喜多見小学校バス停案内放送に続き「時間調整のため、少々停車する場合がございます」と流れ、東名高速道路高架下に設けられた同バス停にてダイヤ調整をすることがある。2009年3月1日改正のダイヤによれば、平日朝5本は遅延防止と遠近分離のために鎌田→二子玉川間が中耕地経由となり、世田谷総合高校・二子玉川以外が通過となっている。開設当初は二子玉川のみの停車であったが、その後世田谷総合高校にも停車するようになり、現在に至る。"本路線については東急コーチにも詳しい説明あり。"コーチ自由が丘線は、目黒区の自由が丘駅を起点とし、世田谷区の深沢方面へと運行する路線である。駒大深沢キャンパス前を終点とする自01・自02系統と、東京医療センターを終点とする後発の自11・自12系統からなる。沿線は早くから開けた住宅街であるが、マンションなどの住宅建設がなお進んでおり、利用客は増加傾向にある。特に自02系統の朝の自由が丘駅行は混雑が激しく、積み残しが出たり、前扉から乗車できなかった乗客が例外的に中扉(降車口)から乗車したりする光景が見られる。日曜・祝日の午後3時から午後6時まで歩行者天国のため自由が丘駅前のロータリーおよび付近一帯は封鎖され、自由が丘駅に代えて自由が丘駅入口停留所での発着となる。自由が丘駅入口到着後は一度田園調布駅まで回送して折り返し、再び自由が丘駅入口から自01駒大深沢キャンパス行きもしくは自12東京医療センター行きとして営業運転に入る。閑静な住宅街として知られる世田谷区深沢は、近くに鉄道駅がなく、バス路線も渋谷や恵比寿など都心側のターミナルを結ぶものが主であった。道路渋滞の悪化により、こうした長い距離を走る路線が敬遠されるなか、バスの復権を目指した新たなサービスとしてデマンドバスの運行が検討され、その第1号路線として1975年(昭和50年)12月24日に開通したのが東急コーチのコーチ自由が丘線である。デマンドバスは、通常ルートのほかに乗客の要望に応じて運行する迂回ルートを持ち、迂回区間では停留所に設けられたコールボタンによってバスを呼び出すことができる。コーチ自由が丘線は当初、自由が丘駅 - 駒沢(当時の駒沢営業所。現・駒沢公園西口)の往復線として開業し、深沢一丁目、深沢六丁目に迂回ルート、フリー降車区間が設定されていた。当初は駒沢営業所が担当していたが、廃止に伴い1984年3月に弦巻営業所へ移管、さらに1999年9月1日付で瀬田営業所の担当となった。その後、迂回区間の運行頻度が上がったことなどを理由に、2000年(平成12年)10月1日限りでデマンド運行は終了した。これにより、深沢一丁目の迂回区間は時間帯に応じての運行、深沢六丁目はループ線に変更され駒沢四丁目行として運行されるようになった。しかし、まもなく運行上の問題が発生したことから、同年11月27日にダイヤ改正が行われ、駒沢四丁目停留所の廃止や停留所名変更などが行われた。2001年(平成13年)5月16日には、赤いレトロ調の色彩をまとった専用のノンステップバスが導入され、携帯電話でバスの位置が把握できるバスナビゲーションシステムも稼動した。2002年(平成14年)10月16日には、東京医療センター関連の再編が行われ、自02(自由が丘駅 - エーダンモール深沢 - 東京医療センター:系統番号は当時)が開通した。また、2004年(平成16年)5月16日のダイヤ改正では、町会との協議により深沢一丁目の迂回区間運行時間短縮などが実施された。2006年(平成18年)12月18日のダイヤ改正では再び運行時間帯を広げ、運行系統や系統番号の変更などが実施された。現在の基本的な運行形態は、次の通りである。等々力七丁目 - 深沢一丁目と、日体大裏→駒大深沢キャンパス前は自由に降りることのできる「フリー降車区間」である。日体大裏→駒大深沢キャンパス前はループ状経路となっており、終点で乗り継ぐことなく一回の運賃で自由が丘駅(あるいは瀬田営業所)まで乗車可能である。自01・自02は基本的にほぼ全便が自由が丘駅 - 駒大深沢キャンパス前を運転するが、若干ながら瀬田営業所発着の便、東深沢中学校止まりの便もある。自01・自02の一部の便は深沢六丁目でサービスプロパイダ(乗務員)の交代を実施する。瀬田営業所から深沢六丁目までは距離があるため営業所の自転車で移動する。雪が谷線は、品川駅から五反田駅を経由し、中原街道を一直線に走って丸子橋に至る路線であった。1927年に池上電気鉄道が池上線の未通区間の連絡をかねて開通した、五反田駅 - 中延間の乗合自動車路線を起源とする古い路線であり、戦時休止を経て1947年(昭和22年)6月25日からは、都営バスとの相互乗り入れにより東京駅乗車口(現・南口) - 品川駅 - 五反田駅 - 洗足坂上間を運行するようになった。その後、雪が谷、丸子橋へと延長するなど、池上電鉄のバス車庫を引き継いだ中延営業所の主幹路線として発展してきた(後に東90の系統番号が与えられた)。しかし、東京都交通局第2次再建計画に伴う追加の路線再編成により1979年(昭和54年)12月17日付で五反田駅を境に分断。反10:五反田駅 - 丸子橋、品90:品川駅 - 丸子橋の2つの系統に短縮された。さらに、1981年(昭和56年)6月23日付けで担当していた中延営業所の廃止により瀬田営業所へ移管されるが、都心直通の魅力を失っていた本系統は並行して走る東急池上線に乗客が急速に流れ、東急バス全体でも有数の不採算路線へと一気に転落。この結果1984年(昭和59年)2月15日限りで折り返し便の反10が運行を終了、さらに1989年(平成元年)3月31日限りで品90も運行を取りやめ、全線が廃止となった。品川駅から先の区間は都営単独の東90系統となって存続したが、1990年(平成2年)6月30日限りで廃止され、五反田駅 - 品川駅間の反90甲系統を経て現在は五反田駅と泉岳寺前の間だけが、都営バスの反96系統として残っている。瀬田への移管直後は回送で出入りしていたが、二子玉川線の免許維持を兼ねて後に路線運行化された。冷房車は殆ど運用されなかった。1967年(昭和42年)12月10日の都電第1次撤去と同時に、その3か月前に開通したばかりの首都高速道路3号渋谷線を使った都心と郊外を結ぶ新しい通勤手段として、都営バス主導で企画され開設。駒沢・弦巻両営業所とともに都営との共同運行に参加した。1977年(昭和52年)に東急新玉川線(現・田園都市線)が開業したのをきっかけに乗客が鉄道へと転移し、交通局第2次再建計画に伴う追加の路線再編成により1979年(昭和54年)11月22日限りで廃止。「高速○○線」という路線名称は、現在は深夜急行バス(高速青葉台線、高速新横浜線など)が使用している。玉07系統と同じく多摩堤通りを進み、砧農協前(現・砧中学校下)で成城学園前駅方面とは反対に左折。弦巻営業所の調布線と同じルートで狛江町(現・狛江市)、調布市方面へ向かっていた。小田急と共同運行していたが、1975年(昭和50年)7月31日限りで東急が撤退。小田急バス単独となり、その後調布市側の起終点が調布駅南口に変更され現在に至る。二子玉川線は、大森駅から環七・中原街道・環八と経由して二子玉川園駅に至る路線で、最盛期には現在の二子成城線のルートを経て成城まで直通していた(前述)。石川台から田園調布付近までをショートカットし、この間が独自区間となっており、大森付近では馬込循環同様のループ運行となっていた。この独自区間は本系統の廃止後も、雪が谷線(旧)の出入庫ルートとして同系統の廃止まで残された。この路線のうち、世田谷区内のルートの一部は、戦前の目蒲乗合(目黒蒲田電鉄)による田園調布駅 - 等々力駅 - 等々力ゴルフコース線と重複している。戦後は、1950年代に入り、大森駅 - 等々力、大森駅 - 瀬田の路線が相次いで開通したのち、1956年から大森駅 - 二子玉川 - 成城学園前駅の運行となった。1960年代に二子玉川園駅を境に分割され、当系統と現在も存続する二子成城線玉07系統となった後、中延営業所閉鎖に伴う路線再編成により1981年(昭和56年)5月25日限りで廃止された。現在は瀬田営業所 - 瀬田 - 二子玉川駅間が二子成城線玉07系統の出入庫便として残されている。田園調布駅から駒沢大学駅前まで渋11と同じルートを通り、真中(現、駒沢大学駅前)交差点より国道246号に入り駒沢交差点を左折、駒沢公園通りを通り、深沢不動交差点から駒沢通りを経て、国立第二病院(現、東京医療センター)へと抜けるルートを辿り、再び行きと同じルートで田園調布駅まで戻る路線。グランド線の途中打ち切りといえる路線で、1時間あたり1 - 2本が渋谷駅までの全線通し系統に混じって運転され、駒沢大学駅前到着時には車内アナウンスで「この車は三軒茶屋、渋谷駅には参りません」と言っていた。1982年(昭和57年)6月15日限りでグランド線に統合され廃止。1956年(昭和31年)11月15日、田園調布駅まで延長されたときに目黒営業所から移管。他の路線と違いワンロマ車を集中配備したり、1990年代後半には導入初期だったノンステップバスを投入するなど差別化した。淡島営業所の幹線だった渋谷線を東急トランセ管理委託とした際に、当時まだ直営だった淡島営業所の規模を維持するため、1999年(平成11年)9月1日付で淡島へ移管された。その後、淡島も東急トランセに切り替わり、2003年7月16日付で管理委託路線となって現在に至る。2008年2月中に試験運行が開始されその後正式に運行が開始された。なおこの路線は無料であり、また高速道路を経由するため当営業所に配置されている貸切観光バスの車両で運用されていた。その後、同年10月に新羽営業所に移管の後、2015年(平成27年)3月31日限りで廃止となった。かつては淡島と同様に三菱自動車工業(現・三菱ふそうトラック・バス)が事実上の指定メーカーとなっていたが、現在は日野車が加わっている。かつてはUD車も平行して導入されていた時期もある。一般塗装車の他にコーチ塗装車も在籍する。都内営業所でありながら、僅かにワンステップバスやツーステップバスが配置されている。大型車、中型ロング車と中型車、小型車が存在し、小型車の一部は狭隘道路走行のため無線機を装備する。例外として、1986年度にはワンロマ車のいすゞ・キュービックP-LV214Kが11台導入され、グランド線渋11系統に集中的に投入されていたほか、いすゞ車はほぼ同時期に荏原営業所から中型車が2台転入し、遊園地線玉11系統に投入されていた時期がある。大型車は三菱ふそう車と日野車で、ふそう車はエアロスターとエアロスターS(UDトラックス・スペースランナーRAのOEM供給車)、日野車はブルーリボンIIが在籍する。2012年8月に廃車となったS1881号車は東急バスの一般路線車で最後まで残ったエアロスターツーステップ車であった。現在はほとんどがノンステップ車であるが、2012年9月にエアロスターワンステップ車のNJ→S692号車が虹が丘営業所から1台転入している。また、S685号車は車体再生の際、青葉台営業所のAO1130号車と同じ路線バス先代塗装に塗り替えられた。中型ロング車は全て三菱ふそう製のノンステップ車で、三菱ふそう・エアロミディMKが在籍する。中型車と小型車は三菱ふそう・エアロミディMEや、日野・レインボー、レインボーⅡ、リエッセ、ポンチョを中心に配置されている。2013年にはいすゞ・エルガミオが弦巻営業所から1台転入して活躍していたが短期間で廃車されている。このうち1200・1300番台のレインボーⅡはコーチ自由が丘線専用車として、赤色の車体塗装となっている。レインボーⅡのコーチ塗装車は2012年9月から導入され、2013年からは200番台のレインボーの置き換えが開始された。三菱ふそう製小型車のうち、2014年8月に廃車となったS398とS399の2台は、東急バス全体でも唯一となるCNG車であった。日野・リエッセはリフト付きツーステップ車、その他の車両はノンステップ車である。過去にはUDトラックスの車両が大型・中型ともに弦巻から転属してきたことがあるが、いずれも経年車であり短期間で廃車となった。

出典:wikipedia

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