セイコーホールディングス株式会社(英称:"Seiko Holdings Corporation")は、東京都中央区に本社を置くセイコーグループの中心会社である。ブランド名はSEIKOの他複数を保有しており、高級・宝飾腕時計としてCREDOR、セカンドラインとしてデフュージョンブランドALBAをはじめ、ALBAの上級ファッションブランドウォッチであるWIRED、ライセンスウォッチブランドアニエスベーなどを展開している。日本初の腕時計、世界初のクオーツウオッチを製品化し、現在も時計関連で著名な企業である。オリンピックなどの世界大会などで公式スポンサー、オフィシャルタイマーとしてたびたび参加している。日本テレビ開局日の1953年(昭和28年)8月28日に前身会社である当時の精工舎が日本最初のテレビCMである正午の時報を放映させた。戦前・戦後から後楽園球場(1937年(昭和12年) - 1987年(昭和62年))、東京ドーム(1988年(昭和63年) - )、明治神宮野球場(1980年(昭和55年) - )と球場のスポンサーになったのを日切りに、スポーツ競技場のタイマーも製作している。創業以来継続的に、スポーツイベントに計時支援を行っている。世界的に計時支援は、共同出資の別会社に自社ブランドの看板をもたせて支援させる方式(スイス時計メーカー出資のスイスタイミング社など)が普及しているが、セイコーはグループ内の部署に支援させて技術開発も行うスタイルを維持している。ちなみに、同社グループの広告・カタログに掲載される時計が示す時刻は、アナログ式が10時8分42秒、デジタル式が10時8分59秒を基準としている。セイコーホールディングスは、セイコーインスツル株式会社(SII)、セイコーエプソン株式会社(EPSON)とともにセイコーグループ中核3社といわれている。中核3社とその子会社が、腕時計事業を中心に協力関係にあり、セイコーグループを構成する。セイコーインスツルとセイコーエプソンは、服部時計店(現セイコーホールディングス)の製造部門であった精工舎を源流とする。両社は、服部家が大株主になっていたが、セイコーホールディングスとの直接の資本関係は薄く、セイコーホールディングスの子会社ではなかった。いわゆる「兄弟企業」であった。セイコーホールディングスは、服部時計店の時代から、腕時計の開発・設計・製造をセイコーインスツル(SII、旧 セイコー電子工業(第二精工舎))とセイコーエプソン(EPSON、旧 諏訪精工舎)とに委託しており、店(販売営業部門)と工場(製造開発部門)という関係だった。セイコーホールディングス株式会社は、2001年(平成13年)から持株会社制に移行しており、各事業は事業子会社が行っている。創業当初は、服部一族による家業経営が行われてきた。セイコー創業者は服部時計店を興した服部金太郎であり、時計製造の精工舎も起業した。長男の玄三が二代目社長で、懐中時計や腕時計を製造する別会社の第二精工舎を発足。二男の正次が三代目社長を務め、四代目社長に玄三の長男の謙太郎、五代目社長に二男の礼次郎が就いた。六代目社長は吉村司郎であり、服部一族以外の人が社長に就いた。七代目は関本昌弘、八代目は井上仲七、九代目は村野晃一である。2006年(平成18年)、電子部品会社・セイコーインスツルの会長兼社長代行を務めていた服部純市(謙太郎の長男)が取締役会の緊急動議で解任された。2010年(平成22年)までに、労働組合の調査などで、名誉会長である礼次郎と取締役の鵜浦が和光本館周辺に新たに店を出す「和光スクエア構想」を単独で進めるために、多額の不動産を取得していたことが発覚する。これを背任として、労組は経営陣に対する株主代表訴訟の手続きに入った。経営側も実態を調査し、社外取締役・原田明夫(元検事総長)が「刑事事件、民事事件の事件になりかねない」と判断、2010年(平成22年)4月30日の取締役会で緊急動議を発動。その場で礼次郎、鵜浦を和光の役職から解任すると同時に、「両氏の専横を止められなかった」として村野晃一をセイコーホールディングス会長兼社長の役職から解任。後任に謙太郎の次男で礼次郎の養子である副社長の服部真二が昇格、村野の解任と自身の新社長就任を自ら発表した。これらについて産経新聞は、「オーナー一族による会社の私物化が、上場企業としての企業統治(ガバナンス)をマヒさせた」と報じた。労働組合「セイコーグループユニオン」に対してパワーハラスメントや左遷人事の訴えがあり、組合長の中村昇造は「退職や鬱病になった被害者は報告されただけで50人を超える」としている。クレドール、ワイアード、アルバ、ソーマを除く製品の文字盤にはSEIKOのロゴが入る。日本最初のラジオCM(時報)は、当時の精工舎の午前7時の時報であった。1951年(昭和26年)9月1日に本放送開始直後の中部日本放送(現・CBCラジオ)で放送された。その内容は、精工舎から中部日本放送に提供された時計の予報音楽(「チンカラコンカラ」というようなリズミカルな音)に続いて通知音が鳴り、「精工舎の時計が、ただ今、7時をお知らせしました」というものだった。日本最初のテレビCMも、当時の精工舎の時報であり、1953年(昭和28年)8月28日に本放送開始当日の日本テレビで放映された。当時の放送関係者の証言によると放送機材の操作に慣れていなかったため、フイルムが裏返しだったので音がまったく出ず、音なしの状態で30秒間放送された(いわゆる放送事故)。当時のフィルムの場合、映像の横に音を再生するためのサウンドトラックがあり、フィルムが逆向きになると音が再生されなかった。なお、時報音はフィルムと関係なく挿入されたため正確に出た。この放送事故については、「3秒で放送中止となった」ということが定説とされていたが、これは間違いである。ちなみに、同日の午後7時の時報は無事に放映され、これが現存する日本最古のテレビCMである。翌日の正午、テレビCM第1号になるはずだった正午の時報も無事に放映された。
出典:wikipedia
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