小室浅間神社(おむろせんげんじんじゃ)は、山梨県富士吉田市にある神社。旧社格は郷社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある浅間神社の一社。旧称下宮浅間神社。「冨士山下宮小室浅間神社」とも称するほか、地元では「下浅間(しもせんげん)」とも呼ばれる。社伝によれば、延暦12年(793年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の際、現鎮座地より富士山を遙拝して戦勝を祈願し、戦勝後の大同2年(807年)、神恩に感謝して社殿を造営したのに始まるという。上吉田・下吉田・松山の三郷の総鎮守とされ、中世には武田家が祈願所として崇敬した。明治に入り氏子地域であった上吉田を北口本宮冨士浅間神社に割譲し、それまでの「下宮浅間神社」から現在の「小室浅間神社」に改称した。元々「小室浅間神社」とは、富士山二合目にある山宮の名称であった。富士吉田市内には北口本宮冨士浅間神社が上吉田に、この小室浅間神社が下吉田にあるため、北口本宮の呼称「上宮」に対して当神社を「下宮」と呼称しているとの誤解を招きやすい。当神社は本来は単に「宮」と呼称されていたが、上吉田の諏訪ノ森にある諏訪神社境内に新たに祀られた北口浅間神社をはじめ、各村々で浅間大神を祀り始めたため区別する必要から「下宮浅間」と呼称され始めた。富士山二合目にある小室浅間神社、もしくは富士山そのものを「上宮」としている。ただ、一般的には北口浅間を「上浅間」小室浅間神社を「下浅間」と呼ぶことが定着しているため、上記の誤解を招く元となっている。2004年の新潟中越地震の数日後、本殿前の大鳥居が倒れる事故が起こった。当地でも、余波で微弱な地震が起きたが関係があるかは不明である。倒壊前後には、付近に人通りはほぼ無く、けが人は出なかったが、その後数年間は復旧されなかった。2010年7月、神体の着衣を替える「御更衣祭」の附帯事業として大鳥居の再建が実現した。例祭は9月19日に行われ、流鏑馬神事が有名である。地元では「うまっとばかし」(馬をとばす(甲州弁)=馬を走らせる(標準語))と呼ばれる。境内では流鏑馬に使う神馬が飼育されている。この馬は日本中央競馬会から奉納されたものである。かつては、富士山二合目鎮座の冨士御室浅間神社の近くにあった騮ヶ馬場で行われ、勝山(富士河口湖町)地区と共に奉納されていた。しかし、村間の争いが激しくなっていったため、享禄3年(1530年)に武田氏の家臣である板垣信賢の達により、各々の村で奉納されるようになった。現在の馬場は明治からと伝えられている。この例祭は一般的に知られる流鏑馬と異なり、農耕信仰及び土地の人々に密接した変わった流鏑馬神事で、富士吉田市無形民俗文化財に指定されている。「切火」と呼ばれる一週間に渡る潔斎と世襲の「占人」が馬の足跡によって吉凶を占う「馬蹄占」が特徴的である。流鏑馬祭りが終わると、各町内に神職を招き「馬蹄占」の結果をもとに「お日待ち・秋葉講」と呼ばれる祭事を行う。各家庭では、その後に神職から紙垂を1枚戴き、火事や争い事がなく無事に過ごせるよう祈願する。平成19年(2007年)9月18日の宵祭りに、担ぎ手が不足し途絶えていた富士山神輿が半世紀ぶりに復活した。60年に一度の例祭では、祭神(木花咲耶姫命)の神体の着衣を替える「御更衣祭」が行われる。20世紀には昭和25年(1950年)、平成22年(2010年)9月19日深夜2時に実施され、次回は2070年である。「御更衣祭」の時以外に神体を目にすると、必ず良くないことが起きると伝えられている。例祭は稚児行列を行い、富士吉田市下吉田幸町にある天神社でお祓いを行い北口本宮冨士浅間神社に赴く。山梨県では当社をはじめ富士北麓地域や八ヶ岳山麓地域において筒粥神事が残されている。小室浅間神社の筒粥祭は、1月14日夜から翌日未明にかけて行われる神事。これにより年間の五穀豊穣・天候・養蚕・富士山登拝者数を占い、特に富士参詣者の多寡を占う点が特徴とされる。結果は筒粥占標として公表される。また、筒粥神事の後には囲炉裏から釜を外し、燠(おき)の上で「カツノキ」と呼ばれるヌルデの樹で作られた駒を乗せ、その焼き具合で天候を占う「テリフリ占い」も行われる。こちらの結果も晴雨占標として公表される。小室浅間神社の筒粥神事は戦国時代の富士北麓地域の年代記である『勝山記』にも「ツゝカイ」として記録されており、戦国段階で占う14種の農作物とともに、ほぼ現在と一致する神事であったと考えられている。筒粥神事には世襲の「占人」一族があり、神社の主な祭儀が占い神事で、それぞれに世襲の一族が代々奉仕していることが大変珍しい。
出典:wikipedia
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