『次郎長三国志』(じろちょうさんごくし)は、清水次郎長を主人公とする村上元三の長編歴史小説、並びに同作を原作とするマキノ雅弘監督の映画シリーズのタイトルである。本作における「三国」とは駿河国(現在の静岡県中部)、遠江国(現在の静岡県西部)、三河国(現在の愛知県東部)を指す。「海道一の侠客」と謳われた清水次郎長(1820年 - 1893年)については、当人の活躍している当時から、巷間様々な伝承をもって語られていた。次郎長の養子となった山本鉄眉こと天田五郎(1854年 - 1904年)が、次郎長の生前である1884年(明治17年)4月に発表した『東海遊侠伝』等がこれに当たり、そうした虚実入り混じる次郎長像を一つの創作物に纏め上げたのが、二代目広沢虎造の浪曲である。この浪曲では、次郎長を始め大政・小政、森の石松や桶屋の鬼吉、法印大五郎、「次郎長一家」と呼ばれた人物にもスポットが当てられており、特に石松は、次郎長に勝るとも劣らぬ人気キャラクターとなり、最初の映画版で石松を演じた森繁久彌は、同作以降、一躍スター俳優になっていく。この広沢の浪曲や、その他の資料伝説を元に執筆されたのが村上元三の小説『次郎長三国志』である。同作は、『オール讀物』(文藝春秋新社、現在の文藝春秋)誌上に1952年(昭和27年)6月号から1954年(昭和29年)4月号まで連載された。GHQ統治下においてチャンバラが禁制とされていたが、占領終結により解禁となった直後という時代背景もあって、読者の熱狂的な支持を受け、村上の代表作の一つとなった。。同作では、次郎長の出世から、没後に浪曲師神田伯山(三代目、1872年 - 1932年)によって「創作」が生まれるまで、が描かれている。伯山作品をベースにしたのが、前述の二代目広沢虎造の浪曲である。最初の単行本は、『オール讀物』の版元である文藝春秋新社が『次郎長三国志』の題で1953年(昭和28年)に上梓した。同書には、『桶屋の鬼吉』、『關東綱五郞』、『淸水の大政』、『法印大五郞』、『增川の仙右衞門』、『相撲常』、『大野の鶴吉』、『森の石松』、『追分三五郞』、『投げ節お仲』の10章が掲載された。次に同年12月、連載のつづきを『続 次郎長三国志』として同社が上梓した。同書には、『三保の豚松』、『小川の勝五郞』、『森の八五郞』、『形の原斧八』、『小松村七五郞』、『七栗の初五郞』、『小松村お園』の7章、追って翌1954年に発行された『続々 次郎長三国志』には、『淸水の小政』、『二代目お蝶』、『神戶の長吉』、『吉良の仁吉』、『天田五郞』、『神田伯山』の6章がそれぞれ掲載されて、全23章が完結した。次郎長や大政(山本政五郎、1832年 - 1881年)、小政(山本政五郎、1841年 - 1874年)、森の石松(? - 1860年)、桶屋の鬼吉(桶屋吉五郎)、法印大五郎(伊藤甚左衛門、1840年 - 1919年)、増川仙右衛門(1836年 - 1892年)、相撲常(相撲の常吉、1828年 - 1912年)、大野の鶴吉、吉良の仁吉(太田仁吉、1839年 - 1866年)、神戸の長吉(初芝才次郎、1814年 - 1880年)らは、実在の人物であるが、追分三五郞らは架空の人物であるといわれている。初出以来の国立国会図書館蔵書等による一覧である。1950年代の作品、東宝版は全作モノクロ作品である。『次郎長三国志』が『オール讀物』に連載されていた当時、田崎潤が桶屋の鬼吉を演じるために自ら東宝に企画を売り込んだのが映画化の契機である。この企画は本木荘二郎プロデューサーによって正式に採用され、既に「次郎長もの」の映画を手掛けた経験のあったマキノ雅弘が監督となった。主演の次郎長には東宝社長の小林一三からの指名で小堀明男が選ばれ、法印大五郎役の田中春男、そして石松役の森繁久彌は田崎と同じく自ら志願しての出演となった。東宝版の第一部を撮影中、マキノは別の映画の応援と共同監督を行った。その映画とは新東宝の『ハワイの夜』で、本作の主役はのちに東映版の次郎長を演じることになる鶴田浩二であった。『ハワイの夜』は『第二部』と同じ日に公開された。こうして二作あわせて製作された、シリーズ第一作『次郎長三國志 次郎長賣出す』、ならびに第二作『次郎長三国志 次郎長初旅』は1952年12月から1953年1月にかけて、年末・正月映画として封切られた。原作者の村上自身が脚色を務めた(松浦健郎との合筆)他、広沢虎造も出演を果たしている。チーフ助監督には岡本喜八郎(のちの岡本喜八)が付いた。この作品は小堀の初主演作であり低予算の作品であったが、興行的な成功を収めシリーズ化が決定する。矢継ぎ早に続編が製作され、キャストにも三保の豚松役に加東大介、投げ節お仲役に久慈あさみ、お園役の越路吹雪など豪華な顔触が並ぶようになった。豚松役の加東大介は黒澤明監督の『七人の侍』に出演するよう東宝側から強制され、第五部で途中降板した。加東降板に際して、東宝はマキノに「"ブタマツコロセ"」という電報を送った。マキノはこれに対し「"コロシヤマキノ"」と名乗って返電したが、実際に送った文面は岡本喜八が書き改めたという。しかし余りにも短期間に製作が行われたことにより、映画のストーリーが当時まだ連載中だった原作を追い越し、映画はオリジナルの作品となっていく。また加東大介の途中降板(後述)や第八部の改題(マキノは石松を主役に据えるため「石松開眼」の題を提案したが、東宝サイドから『海道一の暴れん坊』という題を強制された)、さらに村上への原作料の滞納など、東宝サイドの意向と現場サイドの意向に齟齬を来たすようになり、マキノの製作意欲も低下していく。『鴛鴦歌合戦』(1939年)などで「早撮りの名人」と謳われたマキノであるが、殺人的なスケジュールを強制する上に何かと注文の多い東宝サイドに嫌気がさしたと言われている。マキノは第八部を最終回のつもりで作り完成直後に解散式まで行われたが、東宝が次回作の公開日を決めポスターも作ってしまったため、一週間ほどで第九部を作ったという。結局、次郎長最大の見せ場である『荒神山』を前後篇に分けて完結篇として製作される予定であったが、前半の『第九部 荒神山』を最後に『第十部 荒神山後篇』が製作されないまま、シリーズは未完となった。『第十部 荒神山後篇』は予告編が撮影されており、本編も多少なりとも撮影されたのでは、とも言われている。マキノは「撮影だけはした」とインタビューで述べている。『第十部』に出演した岡田茉莉子は、自身の出番は全て撮り終えており映画は完成されたものだと思っていたという。『第九部』の最後に『第十部』の特報があり、封切り当時にこれを観た山根貞男と山田宏一は、「第十部を観た記憶がある」と、しばらく後まで思い込んでいた。未完に終わった『第十部』のシナリオは既に完成しており、脚本家は『七人の侍』などの橋本忍であった。『第九部』公開当時の『キネマ旬報』記事では、『第九部』の脚本も橋本忍と記載されており、KINENOTEの『第九部』における記述も同様である。ただし『第九部』の脚本についての本篇クレジットは、橋本の名はなく、マキノ雅弘とある。シリーズ全作がこれまで一般に市販されるソフト化は行われたことがなく、僅かに会員制のキネマ倶楽部で発売されたのみである。しかし濫造気味ながら完成度の高い内容への評価は高く、また同時期(1955年)の『夫婦善哉』と合わせて森繁の出世作となった。2011年、スタジオジブリの鈴木敏夫が、あるコンサート会場で偶然居合わせた漫画家の尾田栄一郎と次郎長の話になる。「ジブリ汗まみれ」で鈴木は東宝の高井社長(当時)にDVD化を直訴し、尾田もそれに便乗した。DVD化の条件として「DVDのジャケットイラストは尾田栄一郎が手掛けること」が挙げられ、尾田は恐縮しながらもそれを承諾。箱の題字は鈴木が担当した。結果、DVD-BOX発売が決定、全三集のDVD-BOXが同年10月から順次発売された。このDVD-BOXは、尾田栄一郎描き下ろしイラストと劇場公開時ポスターとのリバーシブルジャケットとなっている。公開当時は批評界から評価されなかったが、映画批評家であり『キネマ旬報』編集長であった白井佳夫は、この東宝版を、日本映画の最高峰に位置すると評した。『日本大百科全書』(小学館)には、同作の項目があり、同作を「マキノの最高傑作である」と位置づける。1960年代の作品である。マキノは自身も語っている通り、自作のリメイク作品が顕著に多い監督であるが、この「次郎長三国志」も映画会社を変えてリメイクが行われた。1963年から今度は東映で製作されることになった。1963年という年は、時代劇中心だった東映が鶴田浩二を中心とする仁侠映画会社への移行を本格化させた年である。1960年に鶴田と共に東映入りしていた俊藤浩滋はプロデューサー見習いをしていたが、1964年の「次郎長三国志 第三部」、「大笑い殿さま道中」より名前がクレジットされるようになる。こちらも第一部から第三部までは短期間に製作され、全四作で完結している。しかし最終作の終わり方はストーリーに改変が加えられており、続編を作ろうと思えば作れるような結末となっている。続編が作られなかった理由は、東映が時代劇映画からの撤退が規定路線だったことが理由か、マキノのモチベーションによるものかは不明である。撮影中、マキノは同時に仁侠映画の代表シリーズ「日本侠客伝」シリーズも撮影していた。藤山寛美がマキノ作品に初出演を果たし、その演技力がマキノに高く評価された。しかし藤山は逆に「マキノ監督は自分に何も教えてくれない」と僻んだという。東宝版で初めて「法印大五郎」役を演じた田中春男は、東宝専属俳優であったが、日活での『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』(監督マキノ雅弘、1955年2月18日公開)でも「法印大五郎」役で出演している。「大五郎役は自分しか出来ない」と自認しており、その意気込みと実際の演技力を買われてほぼ全ての次郎長映画で同じ役を演じている。1912年(明治45年)3月25日生まれの田中は、東映版第1作公開時すでに満51歳であり、次郎長役の鶴田が満38歳、大政役の大木実が満39歳、綱五郎役の松方弘樹が満21歳、鬼吉役の山城新伍が満24歳、石松役の長門裕之が満29歳といった清水一家の中で、突出した実年齢であった。重鎮・小川の武一を演じた近衛十四郎(公開時満47歳)よりも実年齢が上であった。「『法印はわしがやる』と言ってきかないんですよね」とマキノはのちに述懐いしている。この東映版は全作カラー作品である。キネマ倶楽部を含めて一度もVHSソフト化されたことがなかったが、2008年にDVDで全作品がリリースされた。鶴田浩二と共にデビュー間もない藤純子(富司純子)や松方弘樹、里見浩太郎ら後年のヤクザ映画や時代劇に欠かせないスターとなる若手が出演していることなど、やはり日本映画史上において重要な作品群である。キャストの一部に変更があるのは、本シリーズがあまりにもタイトなスケジュールで撮影されたため、他作品とバッティングした俳優が止む無く交代したことによる。こうした傾向は当時の東映のシリーズ作品にはしばしば見られ、例えば『仁義なき戦い』シリーズではさらに顕著な交代劇が見られる。2008年の作品である。マキノ雅弘の甥で東映版にも出演した津川雅彦が、「マキノ雅彦」名義で監督した。2007年10月より撮影開始、2008年9月20日に角川映画の配給で公開された。「大政」を演じた岸部一徳の父・岸部徳之助は、マキノ雅弘の旧制中学時代の親友である。一徳の弟・岸部四郎は1975年の連続テレビ映画『マチャアキの森の石松』で「法印大五郎」を演じている。「追分政五郎」こと「小政」は、従来の「追分三五郎」と「小政」とを合体させたキャラクターであり、1本に映画の時間内に両者を登場させたかったために苦肉の策の設定変更であった。連続ドラマとしてNET(現・テレビ朝日)が2度製作・本放映した。新春時代劇スペシャルとして同じくテレビ朝日が2度製作・本放映した。テレビ東京の正月時代劇「12時間超ワイドドラマ」として2度製作・本放映した。作によって途中で死ぬ仲間が出ており、展開がいろいろ変わってくる。マキノ雅弘はこれ以外にも多数の「次郎長もの」映画を手掛けており、「次郎長ものの神様」と呼ばれた。マキノが手掛けた次郎長関連作品は以下の通りである(「マキノ正博」名義含む)。
出典:wikipedia
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