宮川 長春(みやがわ ちょうしゅん、天和2年〈1682年〉 - 宝暦2年11月13日〈1752年12月18日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。宮川派の祖。宝永年間(1704-11年)から寛延年間(1748-51年)頃活躍、先行する菱川師宣や懐月堂派に学び、豊潤、優麗な美人画で一家を成した。尾張(愛知県)宮川村の出身(美濃説もあり)。俗称は長左衛門。始め菱川姓を名乗る時期もあったようである。春旭堂と号した。はじめ狩野派や土佐派に学んだといわれる。作中の樹木などの背景描写に江戸狩野派的な要素が見られ、稲荷橋狩野家の狩野春湖元珍に学んだとも推測される。しかしそれに飽きたらず菱川師宣に私叔し、懐月堂派の立美人図の影響を受け、流麗な描線と上質な絵の具を用いた丁寧な彩色による艶麗で気品ある肉筆美人風俗画で大成し、宮川長春を名乗った。長春の作品には制作年代を確かめられる作品が殆どなく、署名もほぼ一定しており、その作風の変遷を追うのは困難である。しかし、「歳旦の遊女と禿図」(個人蔵)の元箱の箱書きに、享保7年(1722年)4月家老の砧佐島津家の家老・島津久浜が薩摩藩5代目藩主・島津継豊から拝領した旨が記されており、長春画の受容層の一端が分かる。また、同作では既に長春様式が完成していることから、この頃には画風を確立していたと考えられる。寛延3年(1750年、一説に翌年の宝暦元年)表絵師稲荷橋狩野家当主の狩野春賀に招かれ、宮川一門を率いて日光東照宮の彩色修理を手伝ったのも、その事を例証する逸話であろう。ところがこの時春賀はその報酬を着服して支払わず、翌年の12月29日長春は催促に訪れた春賀邸で暴行を受けてしまう。長春はこの時、打擲されて荒縄に縛られごみ溜めに棄てられたといわれる。長春の息子長助は、報復のため門弟と共に春賀宅を夜襲、春賀を殺害した他、その家人を2名ないし4名を殺傷した。この事件は喧嘩両成敗となり、稲荷橋狩野家は断絶、春賀の子春朝は八丈島に遠島となった。宮川派は、長春が間もなく亡くなった事からその身代りとして、高弟の一笑が伊豆新島に配流、長助は死罪に処せられたとも自殺したとも伝えられる。享年71。多くの門弟を育てており、弟子として宮川長亀(長助と同一人物説あり)、宮川一笑、宮川春水、宮川正幸、宮川安信、宮川春信、勝重、二葉らがおり、宮川派を形成した。さらに春水の弟子から勝川派の祖、勝川春章を輩出した。長春の門人たちは何れも肉筆画のみを描いたが、安信のみは版画を手がけており漆絵を残している。門弟も長春の定型図様を学んだことは間違いないが、懐月堂派と異なり師の図様をそのままではなく、必ず変形させて用いていることが特色である。一品制作の肉筆画で遊女、遊里風景、庶民風俗などを描いた作品が多く、春画にも優品を残している。現存作品数は、おそらく200点ほどになると推測される。国外にある日本美術を一定数以上所蔵する美術館には、しばしば長春の作品が見受けられ、外国人にも人気があったことが伺える。浮世絵師の多くは版画と肉筆画の双方を制作したが、宮川長春は肉筆画専門の絵師で、生涯版画には手を染めなかった。同時代の絵師と比べ、最も多く高価な絵絹の作品が残っていることから、長春の支持者はやや富裕な町人か武家だったと考えられる。長春には蚊帳から顔を出してた蚊帳美人図や、遊女が腰かけている腰掛美人図など、定型的に用いられる図様が多い事で知られている。「美人立姿図」も長春の得意とした豊満な女性の一人立ちの画像で、弓なりに身を反らし、しかも垂直性の安定感を失わない堂々たる姿態が感動的な作品である。その眉と目が平行に前方を見据える顔の表情はきりっとしていて清々しい。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。