仁孝天皇(にんこうてんのう、寛政12年2月21日(1800年3月16日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))は、第120代天皇(在位:文化14年9月21日(1817年10月31日) - 弘化3年1月26日(1846年2月21日))。諱は恵仁(あやひと)。幼称は寛宮(ゆたのみや)。光格天皇の第六皇子。養母は後桃園天皇の第一皇女、光格中宮の欣子内親王(新清和院)。実母は勧修寺大納言経逸の女、藤原婧子(東京極院)。正妃は関白鷹司政煕の女、藤原繋子(新皇嘉門院)、繋子没後はその妹、藤原祺子(新朔平門院)。文化6年(1809年)3月24日、父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子として立太子された。文化14年(1817年)に即位し、父光格上皇の意をうけて朝儀復興に尽力した。皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏徳大寺実堅に幕府との折衝を命じた。幕府の了承を得てその構想が現実のものとなった矢先、崩御した。宝算47歳であった。崩御の翌年にあたる弘化4年(1847年)、天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立され、孝明天皇から下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と名乗るようになった。1877年(明治10年)明治天皇の命によって設立された皇族・華族教育機関の学習院(現・学校法人学習院および学習院大学)の前身である。陵(みささぎ)は、京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)に治定されている。公式形式は石造九重塔。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
出典:wikipedia
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