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ラッツ&スター

ラッツ&スター(RATS & STAR)は、日本の音楽バンド。かつてはシャネルズ(CHANELS、後にSHANELSに変更)のバンド名で活動していた。4人のボーカルが顔を黒く塗り、ドゥーワップを歌っていた。長らく活動を休止しているが、正式な解散はしていない。顔を黒く塗っていたのは上記の4人である。1975年9月、鈴木が高校時代の仲間の田代、中学の時に同級生だった佐藤・久保木らとともにシャネルズを結成。この他に結成当初から在籍していたのは新保と高橋で、主に大森近辺出身のメンバーが集まり、自分達の仕事と並行して演奏活動をスタートさせた。バンド名は、憧れのグループであったアメリカのオールディーズバンド「シャ・ナ・ナ(Sha na na)」とドゥーワップグループ「ザ・チャンネルズ(The Channels)」からとって名付けたもので、バンド名の通り当初は「シャ・ナ・ナ」のコピーバンドとして主に活動しており、顔も黒く塗っておらず衣装もTシャツにスカジャンというスタイルであった。1976年にはTBSのテレビ番組『ぎんざNOW!』に出演。その後一部メンバーの脱退が続いたが、その入れ替わりに鈴木の幼なじみである桑野と、中学時代は高橋と同級生だった須川が加入する。1977年、当時最高峰のアマチュア・バンドコンテスト『EastWest'77』(主催・ヤマハ)に出場し、決勝大会まで進出して入賞を飾る。同コンテスト決勝大会には、サザンオールスターズ(入賞)、カシオペア(優秀グループ)が出場していてプロへの足掛かりを作っている。また大瀧詠一とこのころ関係を持ち始め、同年大瀧がプロデュースしたアルバム『LET'S ONDO AGAIN』には鈴木がソロを取り佐藤がコーラスを担当した曲と、メンバー全員で参加した曲の2曲が収録された。なお、名義はそれぞれ竜ヶ崎宇童とモンスターとなっている。『EastWest'77』でサザンオールスターズを始めとする他のバンドに圧倒されたメンバーは、シャネルズをもっと強く印象づけられるものが何かないか探していた。そんな時、田代が深夜にテレビで放送されていた東宝映画『三匹の狸』(1966年)を観ている時に小沢昭一が演じていた黒塗りパンチパーマの詐欺師にヒントを得て、黒塗りの顔でステージに立ってみることを発案する。話し合った結果、目立つようにメインボーカルの4人だけが顔を黒く塗ることに決め、衣装も黒い顔に似合うものを探して、キャバレーの呼び込みが着ていた制服であるど派手なタキシードを安く仕入れた。そして、鈴木の父が持っていた黒人音楽のレコードやジャケットを見て、衣装に合う振り付けを考え出した。こうして『EastWest'78』にはレコードデビュー後のスタイルに近い形で出演し、その後の曲のレパートリーも本格的なドゥーワップが中心となっていった。ただ、当時しばらくはドゥーワップがなかなか世間で認められず苦労するも、山下達郎には早くから認められていた。その後新宿のライブハウス「ルイード」で定期的に行っていたライブが次第に評判を得始め、アマチュアバンドの中では一、二を争う人気グループとなっていく。このころ脱退したメンバーと入れ替わりに横浜のアマチュアバンド「ダックテールズ」のリーダーだった山崎がメンバー入りし、更にその後サイドギター担当が抜けた後釜に葛飾区柴又出身の出雲が加入してデビュー後のメンバーが揃う。レコードデビュー前にもテレビ出演を果たしており、例えば、東京12チャンネル(現:テレビ東京)の「独占!おとなの時間」では中途から数回出演し、「SH-BOOM」などのドゥーワップを披露している。1980年2月にメンバー10人でレコードデビュー。デビュー曲「ランナウェイ」がミリオンセラーを記録する大ヒット。顔を黒塗りすることで、ブラックミュージックの雰囲気を出したことが話題となり、お茶の間でも一躍人気グループとなる。また、「『ドゥ・ワップ』ってなんだろう?」と音楽雑誌でも取り上げられるなど、日本にドゥーワップ・ブームを巻き起こす。黒塗りメイクにはデビュー当時まで白髪染めを、以後は濃い色のファンデーションを塗っている(当時は靴墨を塗っているという説が一般的であったが、靴墨はファンがやっていたため自分たちも靴墨と言っただけで、靴墨は臭くてとても塗れないでしょうという趣旨のコメントを後に桑野が述べている)。なお、デビュー後もしばらくの間は、メンバー全員がそれまでの仕事を続けていた。同年、ロサンゼルスの名門ライブハウス「WHISKEY A GO GO」に出演を果たした。同年7月、3月16日にメンバーのうち久保木・桑野・新保・山崎・須川の5人が群馬県高崎市での公演中に宿泊先の埼玉県本庄市の旅館で、興行主が呼び寄せた同市内の未成年女子2名(いずれも当時16歳)とわいせつな行為をしていたことが発覚。5人は青少年保護育成条例違反の疑いで書類送検され、シャネルズも半年間謹慎することになる。翌年、2月1日発売の3rdシングル「街角トワイライト」で、オリコンチャート第1位を記録し復活を果たす。「WHISKEY A GO GO」にも前年に引き続いて出演した。1982年1月、一旦それまでの活動を休止し、全員が昼間は旋盤工などの仕事をして、夜に集まって練習をするという生活に戻った。2ヶ月後に復帰し、この時に「CHANELS」のスペルを「SHANELS」と変えている。フランスの高級ブランド・シャネル(CHANEL)からの物言いがあったと言われているが、鈴木はスペルを改めた理由として「CHANELS」だと海外ではチャネルズと読まれてしまうためと述べている。以後、シャネルズ時代の音源などが発売された時は、ジャケットなどの「CHANELS」の表記は全て「SHANELS」と変えられている。1983年、『サヨナラ・シャネルズ・フェアー』開催に伴いシャネルズとしての活動を終了させ、ラッツ&スターに改名。ラッツ&スターとしてのデビュー曲「め組のひと」が80万枚を売り上げる。バンド名を変更した理由はあまり明言されることがなく、ドゥーワップにとらわれないグループを目指すためと説明されることもあるが、スペル改名後もシャネルからのクレームが続いたためと言われることが多く、同業である化粧品会社(資生堂)のCMソングを担当することになったためという説もある。バンド名の「RATS & STAR」は「ドブネズミ達と星」を意味し、逆から読んでも「RATS & STAR」となる。下町育ちのドブネズミ達がDoo-Wapを歌うとRATSがひっくり返りSTARになったというのが本義。シャネルズ時代の1981年には『ラッツ&スター』というタイトルの本を刊行している。また、この年の7月24日には『ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. '83』に出演し、大瀧詠一、サザンオールスターズと競演する。最後は『蛍の光』、『上を向いて歩こう』をセッション。その後、ピアノの山崎とベースの高橋が脱退して8人体制になる。1984年3月、フジテレビ系で週4回放送の5分間のバラエティ番組『まんがチョップ'84』に大森笑劇研究会の名義でレギュラー出演し、コントを披露した。同年11月からは文化放送のラジオ番組『RATS ENTERTAINMENT'85』がスタートした。1985年、東京・赤坂の日枝神社でメンバー5人が合同結婚式を行い、話題を呼ぶ。結婚式当日は花嫁を引き連れてフジテレビ系『夜のヒットスタジオDELUXE』の第1回目に出演。後に須川が抜けて7人体制になるが、その後メンバーは一人一人が個人で活動していくようになる。田代と桑野はバラエティの世界を主な活動の場とするようになり、鈴木は1986年にソロ歌手としてデビューした。1987年、鈴木の実の姉である鈴木聖美の歌手デビューをサポート。「鈴木聖美 with Rats&Star」としてリリースしたデュエット曲「ロンリーチャップリン」がヒットし、後にカラオケのデュエットソングの定番となった。「鈴木聖美 with Rats&Star」としての楽曲発売は同年11月のシングル「TAXI」が最後となり、以後は新曲をリリースすることもなく活動休止状態になる。しかし年越しライブ「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」への出演など単発的な活動は行っており、1989年に発売されたゲームソフト「田代まさしのプリンセスがいっぱい」ではラッツ&スターのメンバー全員がゲーム内に登場するなどしていた。90年代に入るとそのような機会もほとんどなくなっていったが、1992年7月15日にはフジテレビ系番組『SOUND ARENA』に緑のスーツを着て出演し、メドレーを披露している。 ネズミ年の1996年にメンバーが再集結し、期間限定で活動を再開する。ラッツ&スターとしては11年振りとなるシングルである大瀧詠一プロデュースの「夢で逢えたら」をリリースし、ライオン株式会社の歯磨き「クリスタ」のCMソングに起用された。その後全国ツアーを敢行し、同年、同曲で『NHK紅白歌合戦』に初出場する。1996年の再集結以降、桑野自身が日本テレビ系の音楽番組『THE夜もヒッパレ』でグループの活動再開を明言していたが、田代の一連の不祥事により話が立ち消えになったようである。しかし、それ以降も桑野は「解散したわけではなく、もし活動を再開するのであれば再結成ではなく再集結である」と述べている。2006年4月19日に、鈴木・佐藤・桑野の3人が、ゴスペラーズのメンバー(村上てつや、酒井雄二)とのコラボレーションで「ゴスペラッツ」としてアルバムをリリースした。2008年7月、京浜急行電鉄は主要駅の電車到着案内メロディに使用する楽曲を一般から募集したが、京急蒲田駅ではラッツ&スターの鈴木・桑野が大田区出身であり、グループを代表する楽曲であることを理由として「夢で逢えたら」が起用され、12月11日から使用が開始された。2009年2月、田代が自らのブログで鈴木・佐藤と会食し、鈴木が田代にラッツの30周年については困難な見解を示しつつも、互いに「ラッツは宝物だ」ということを確認しあい、「お前が真面目にやって宝物を磨いて俺たちの前に出すなら、俺もそれを出すよ」と語ったことを明かした。翌3月、鈴木は新アルバム『Still Gold』の発表記念イベントで「再び、田代さんと歌う可能性はあるのか」との質問を受け、「彼も自分をもっと磨いてほしい。そうしたら、オレも磨いたStill Gold(黄金の輝き)を彼の前に出したいと思います」と答えた。2009年9月2日、Blu-spec CDにて、1996年発売のベストアルバム『BACK TO THE BASIC〜The Very Best of RATS&STAR〜』が鈴木雅之の"Martini"シリーズ『Martini Blend』とともに再発された。2009年、下北沢のソウルバー「エクセロ」が25周年記念イベントを行った際に、田代も含めたラッツ&スターのメンバーが出演。ひさしぶりにラッツ&スターのメンバーが顔をそろえた。ステージでは「スタンドバイミー」を披露した(田代のブログより)。2010年2月25日、デビュー30周年を記念して、オリジナル・アルバム(9枚)・初のB面集・レアトラック集の計11枚のCDとPV集+秘蔵映像のDVD1枚、その他豪華特典付きで、初のBOX『The Complete 〜History of RATS & STAR〜』が完全生産限定で発売。デビュー曲の『ランナウェイ』は湯川れい子が作詞を、井上大輔が作曲を担当し、後もこの二人によって多くのヒット曲が作られた。特に井上はラッツ&スター時代を含めてほとんどのシングル曲において作曲を行っている。また、作詞家の売野雅勇が初めて詩を提供したのが麻生麗二名義によるシャネルズの『星屑のダンス・ホール』という曲で、後に『め組のひと』『今夜はフィジカル』『グラマーGuy』など多くの楽曲の作詞を担当した。アルバム収録曲の大半や「憧れのスレンダー・ガール」などの一部のシングル曲は田代が作詞を、鈴木が作曲を担当している。田代と鈴木の二人は小泉今日子やシブがき隊に楽曲を提供したこともある。その他には村松邦男もグループの編曲に深く携わっている。リードボーカルは基本的に鈴木が務めていたが、アルバムには田代がリードを取る曲が収録されていることが多く、その他にも佐藤・久保木・桑野・新保がそれぞれリードボーカルを担当する楽曲も存在する。デビュー前から交流のある大瀧詠一は、当グループのデビュー曲用に『スパイスソング』と言う曲を書いており、ハウス食品「ペッパー」のCMソングとして使われる予定であったが、結局は使われなかった(ゴスペラッツのアルバムに収録された『星空のサーカス〜ナイアガラへ愛をこめて編〜』は、この曲と『星空のサーカス』のメドレーである)。大瀧による同曲のデモバージョンは、アルバム『NIAGARA CM SPECIAL 3rd Issue 30th Anniversary Edition』に収められた。シングル発売された『Tシャツに口紅』とそのB面曲『星空のサーカス』の作曲や、先述の2曲が収録されたアルバム『SOUL VACATION』のプロデュース、彼が作詞・作曲した『夢で逢えたら』をラッツがカバーした(オリジナルは吉田美奈子)シングル製作時のスーパーバイザーでもあった。※すべてのシングルは、現在廃盤。※「鈴木聖美 with Rats&Star」名義は、鈴木聖美 with Rats&Starを参照。※形態の欄に*印があるアルバムは、1995年に『CD選書』として発売されている。(**印は初CD化)※「鈴木聖美 with Rats&Star」名義は、鈴木聖美 with Rats&Starを参照。

出典:wikipedia

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