谷山市(たにやまし)は、かつて鹿児島県中部に存在した市。1965年時点の人口は42,683人、面積は97.65Km。1889年の町村制施行に伴い谿山郡谷山村として発足し、1924年に町制施行し鹿児島郡谷山町となり、1957年に谷山町が単独で市制施行し谷山市となったが、1967年4月29日に鹿児島市と新設合併し、新制鹿児島市となり消滅した。旧鹿児島市の南方に隣接し、東経130度26分から130度32分、北緯31度27分から31度26分の間に位置していた。北に鹿児島市、松元町、西に吹上町、金峰町、南に川辺町、知覧町、喜入町、なお指宿市とも近接し、東は鹿児島湾に面し海を隔て桜島、大隅半島と相対し、海岸線は鹿児島港と連なり、旧鹿児島市と共に鹿児島県九州部分のほぼ中央に位置している。谷山市の気候は温暖で多雨の太平洋側気候を呈しており、年平均気温は18.3℃であり寒暖の差が少ない。五ケ別府町や錫山台地では霜が強く、11月中旬から3月の下旬にかけて霜が降りる。以下は谷山市に所在していた日本専売公社鹿児島たばこ試験場付近の気候である。1889年の町村制施行の際に谷山村を構成した江戸期の村はそれぞれ大字となり、上福元、下福元、塩屋、和田、中、山田、五ケ別府、平川の8大字から構成された。これらの大字は1957年の市制施行時に町となり、1967年の鹿児島市合併時の谷山市は上福元町、下福元町、塩屋町(鹿児島市合併時に谷山塩屋町に改称)、和田町、中町(鹿児島市合併時に中山町に改称)、山田町、五ケ別府町、平川町の8町から構成されていた。それらは現在の鹿児島市魚見町、小原町、上福元町、希望ケ丘町、皇徳寺台、五ケ別府町、小松原、桜ケ丘、自由ケ丘、清和、中山、中山町、東開町、東谷山、星ヶ峯、山田町、卸本町、錦江台、慈眼寺町、下福元町、谷山港、谷山中央、七ツ島、南栄、西谷山、平川町、和田、坂之上、光山がそれに当たる。谷山市の区域は江戸期には谷山郷(外城)の区域であり、薩摩国谿山郡に属していた。谷山郷には上福元村、下福元村、中村、平川村、和田村、五ケ別府村、宇宿村、山田村、塩屋村の9村が属しており、「三国名勝図会」や「薩摩国郷村石附帳」によると伊佐智佐郷と山田郷が合併し谷山郷として成立したとされる。谷山郷は薩摩藩の直轄領であった。谷山郷の地頭仮屋は上福元村に置かれ、地頭及び年寄、横目、書役、郡見廻などが執務を行っていた。明治4年には廃藩置県が行われ、谷山郷の区域は鹿児島県に属した。また、宇宿村(現在の鹿児島市宇宿)が谷山郷から鹿児島郡鹿児島近在のうちに所属が変更となった1889年(明治22年)に町村制が施行され、薩摩国谿山郡谷山郷の区域をもって谷山村が設置された。同年12月31日の市区町村現住人口では谷山村の人口は24,248名であり、当時の全国の市町村では神奈川県横須賀町に次いで50番目、村としては大阪府西成郡難波村(現在の大阪市の一部)に次いで2番目に人口が多い村であり、日本全国の三大村の一つと称されていた。1897年(明治30年)4月1日に(明治29年法律第55号)が施行され、谿山郡は鹿児島郡及び北大隅郡(桜島の全域)と合併し鹿児島郡となった。1924年(大正13年)に谷山村が町制施行し、鹿児島郡谷山町となり、1957年(昭和32年)に市制施行し谷山市となった。1967年(昭和42年)に鹿児島市と新設合併し、新制の鹿児島市となったのに伴い、自治体としての谷山市は消滅した。歴代の谷山村長、町長、市長を記載する。表記は『谷山市史』の記述に基づく。1948年(昭和23年)に自治体警察としての谷山町警察が設置されたが、1954年(昭和29年)の新警察法発布に伴い、鹿児島県警察に統合された。統合後は谷山町(後に谷山市)の区域を管轄とする谷山警察署(現在の鹿児島南警察署)が設置された。以下の人口遷移表は『谷山市史』398頁の記述に基づく。なお、1920年の谷山村の人口は全国の市町村順位で129位であり、山口県の県庁所在地である山口町(現在の山口市、132位)より上位に位置していた。鹿児島県内では鹿児島市(14位)、頴娃村(123位)に次いで3位であった(「1920年時点の人口上位都市」を参照)。
出典:wikipedia
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