行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。父高志才智、母蜂田古爾比売の長子として、河内国(後に和泉国)大鳥郡に生まれる。生家は後に行基によって家原寺に改められた場所で現在の大阪府堺市西区家原寺町にあった。河内国大鳥郡(757年に和泉国へ分立、現在の大阪府堺市西区家原寺町)に生まれる。682年(天武天皇11年)に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。704年(大宝4年)に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名である。天平2年(730年)9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしているとされた(続日本紀)。民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われ、これら寺の外での活動を禁じた僧尼令に違反するとされ、養老元年4月23日詔をもって糾弾されて弾圧を受けた。行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみで、狙っていたと見られる。行基の指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと、行基の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断したことから、731年(天平3年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。736年(天平8年)に、インド出身の僧・菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道璿とともに来日した。彼らは九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。天平10年(738年)に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた。(日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されている。)行基は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされる。日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基が開基したとされる寺院なども多く存在するが、『続日本紀』で40余処、興融寺の鎌倉時代中期の顕彰碑では49院といわれる多くが不明であり、小規模な拠点だったと見られる。三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、多くの行基の事業は権力側にとっても好ましいものとなる。やがて聖武天皇の方から接近して、行基は740年(天平12年)から聖武天皇に依頼され大仏建立に協力する。741年(天平13年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、745年(天平17年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた(続日本紀)。「行基転向論」として民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説があるが、既に権力側の政策とも近づいており、さらに行基の民衆に対する影響力を利用したと考えられている。大仏造営中の749年(天平21年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が納められ多宝塔を立て墓所とした。また、喜光寺(菅原寺)から往生院までの道則を行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山とも呼ばれている。また、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも言われている。行基が迎えた菩提僊那は後の752年、聖武天皇(749年に退位し当時は、太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。行基は畿内を中心とした各地で布教活動を行っていたことから、近畿地方を中心として各地に有縁の地とされる土地が存在している。生家跡は知恵の文殊菩薩を本尊とすることから合格祈願で有名な家原寺となっている。大阪府高石市高師浜3丁目付近で生まれたという説もあり、「行基生誕の地」の石碑が建てられている。その石碑には、「行基に連なる大工集団が千歯扱きを考案した、その大工集団は徳川末期まで京都御所の御用大工となった、高度な大工技術を駆使して高石地区の住宅建設を請け負っていた」と刻まれている。なお、これらの功績により、この付近が「匠」と呼ばれており、行基生誕伝承のある地に建てられた自治会館が「匠会館(八区会館)」と呼ばれている。近鉄奈良駅前には、1969年の同駅地下化の際に広場が作られ、大塩正人窯元7代目作の赤膚焼の行基像が噴水に設置する形で建立された。広場は「行基広場」と呼ばれ、奈良ではよく知られた待ち合わせ場所として定着している。この赤膚焼の行基像は後に心ない者の手によって破壊され一時スペアの同型像が立てられた後に7代目が再焼し再建されたがその像も自然劣化し、現在は1995年に奈良市内の彫刻家が製作したブロンズの像が建っている。なお、奈良市が所有していた同型像は霊山寺 (奈良市)と九品寺 (御所市)に寄贈された。大阪府岸和田市の八木だんじり祭では、久米田寺開山堂(行基堂)前に周辺地区のだんじりが集結する。これは、久米田寺の前に位置する久米田池を行基が掘削指導し、田畑の開墾や周辺住民の生活向上へ寄与し、その他の遺徳を顕彰する「行基参り」と呼ばれている。兵庫県伊丹市の昆陽池公園の園内施設には行基の胸像と顕彰碑が設置されており、昆陽池の南南東1キロほどの場所に行基の開基した昆陽寺がある。市内には行基町(ぎょうぎちょう)という地名がある。※この他にも全国各地に寺伝や諸書に行基を開基(創建)とする寺院が数多くある。但しこれらの中には役行者や空海と同様に開基された伝承の寺院も複数含まれると推測される。摂津から播磨にかけて、五つの港(摂播五泊)を整備したとされている。日本全国には行基が発見したとされる温泉が数多くある。但し、これらの中には開湯伝説を作った際に名前を使用されただけの温泉もあるとされる。他にも仁西、豊臣秀吉らとともに「有馬の三恩人」と語り継がれている。又、有馬温泉や湯河原温泉などにも行基にまつわる伝承が残っている。(長福寺考古資料館、1984年)(岐阜県、1975年)(学研マーケティング、1990年)
出典:wikipedia
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