大林 宣彦(おおばやし のぶひこ、1938年1月9日 - )は、日本の映画監督。撮影所システムで育った映画監督ではないとの理由から本人は「映画作家」と称している。広島県尾道市東土堂町生まれ。尾道北高校卒業、成城大学文芸学部中退。2006年(平成18年)4月から尚美学園大学大学院芸術情報学部情報表現学科名誉教授。2007年(平成19年)4月から倉敷芸術科学大学芸術学部メディア映像学科客員教授。2014年(平成26年)4月から長岡造形大学客員教授。妻は映画プロデューサーの大林恭子。長女の大林千茱萸(ちぐみ)は「映画感想家」と称して執筆活動をする一方で映画製作にも参加しており、その夫は漫画家の森泉岳土。劇作家・演出家の平田オリザは甥にあたる。自主製作映画の先駆者として、CMディレクターとして、映画監督として、日本の映像史を最先端で切り拓いた"映像の魔術師"。父方は尾道で六代、母方も代々続く医家の長男として生まれる。父は福山市金江町の出身で、尾道市医師会長や尾道市教育委員長を歴任。母は茶道裏千家の教授。1歳のとき父が軍医として南方に出征したため、母方の実家、尾道の山の手で幼年期を過ごす。2歳でブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳で35mmフィルムに手描きしてアニメーションを作った。このとき作った『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が制作された。大林の映画作りは、尾道の旧い家の子供部屋の闇の中から、一人こつこつと始まる。少年期は特にアメリカ映画に強い影響を受けた。実家の持ち家の一つに新藤兼人が一時期住んでおり、毎週末通っていた映画館では“新藤おじさん”の隣で活動写真を見ていたこともあった。15歳のときに小津安二郎が『東京物語』を撮影する現場を見学。16歳の夏休みに福永武彦『草の花』を読み、感銘を受ける。いつかショパンのピアノ曲のような映画を作りたいと思い、それは30年後に『さびしんぼう』で実現する。高校時代は手塚治虫に憧れて漫画を描いたほか、ピアノを弾き、演劇活動をやり、同人誌を主宰して小説を書くなど、映画以外にも多彩な分野に芸術的関心を示した。1955年、上京して浪人生活を経て、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学。当時ボードレールに憧れていた大林は、入学試験中にポケットからウイスキーの小瓶を出して飲みながら答案を書いていたところ、試験官の教員から「良き香りがいたしますな」と言われ「先生も一献いかがですか」と勧めると、相手が「頂戴いたしましょう」と応じたため、試験中に試験官と酒を酌み交わすことになったという。大学時代のアパートは東宝撮影所の裏にあった。大学では講義に全く出ず、赤いスカーフを首に巻いて片手に8ミリカメラを持ち、一日中グランドピアノの前でシャンソンを弾きながら、聴きに来る女学生たちを1コマずつ撮っていた。その中の一人で一年後輩の女学生がのちの妻となった。在学中から8mmで作品を発表。1957年、文化祭のために福永武彦の詩集の映画化「青春・雲」発表。初恋を幻想的に描く二作目「絵の中の少女」(1958年)のヒロイン役が妻である。当時はまだ自主製作映画という概念はなかったがその先駆者として、早くから名前を知られた。1960年に大学を中退。当時、8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、大林と京都に住んでいた高林陽一と飯村隆彦の三人しか日本にいなかったという。最初に自主映画を有料で公開しようとしたのはこの3人で、彼等は月刊『小型映画』のコンテスト落選組だったが、この雑誌の編集長は、いつも落選している個性的な応募者を会わせたら面白いのではないかと考えて、編集長の計らいで会った3人はたちまち意気投合した。これが日本の戦後自主制作・自主上映映画の端緒となる。自分たちの作品をもっと人に見てもらおうと画廊で映画を掛けたら反響が大きく、その後新宿アートシアター(ATG)や池袋人世坐など、大きな映画館で掛けるようになったため8ミリから16ミリに転換した。1963年に初の16mm作品、藤野一友との共作『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、高林陽一、金坂健二、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。高林が『砂』で、飯村が『ONAN』など揃って受賞したことで、マスコミが実験映画運動に関心を持ち出し、草月が海外の実験映画を上映したりした。『尾道』(1960年)、『中山道』(1961年)、『喰べた人』(1963年)、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』(1964年)、『遥かなるあこがれギロチン・恋の旅』(1968年)や、日本のカルト映画の草分け『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』(1966年)などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ。『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』は、全国五分の三の大学で上映された。また1965年に初めてCMロケでアメリカに渡った際に、ロスとサンフランシスコで「ジャパニーズ・アンダーグラウンド・ムービー」というフェスティバルがあり『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』が一本立て上映されていたという。1965年、飯村隆彦、石崎浩一郎、佐藤重臣、ドナルド・リチーらと〈フィルム・アンデパンダン〉を結成。1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「60秒フィルムフェスティバル」を企画。このイベントで上映された『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』をたまたま観ていた電通のプロデューサーに誘われ、1960年代からは草創期のテレビコマーシャル(CM)にCMディレクターとして本格的に関わる。電通からの誘い文句は「これから言うことで、僕を殴らないで下さい、コマーシャルをやってみませんか」だった。当時まだまだCMは"おトイレタイム"といわれ、映画監督にCM製作を依頼するとけんもほろろ、「俺に物売りをやれというのか」と蹴飛ばされたという時代。このため電通のプロデューサーと傾きかけた映画界のカメラマンとが組んでCMを撮っていた。CMディレクターを専門にやろうという人はまだいなかった。実際は先のイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人だったという。まだ広告はアートでなかった時代で、電通と大林でスポンサーのところに行くと出入りの写真屋さんの扱いで、こんなことでは未来がないと考えた電通らが、CMに演出家をつけてみたらどうだろう、演出家ならスポンサーと対等に物が言える、と抜擢されたのが大林のCMディレクターとしてのスタートだった。当時はまだコマーシャルに対するモノづくりのフォーマットが全然なく、演出は全部任せてもらえた。高度経済成長期の始まり、テレビの普及で企業が広告費をどんどん計上し始めた時代でもあり、特撮もどんどんでき自由に撮らせてもらえた。大林にとってCMはスポンサーつきの個人映画、映像実験室ともいえ、非常に楽しいものだったという。大林の手がけたCMは、日本で初めてハリウッドスターを起用し、あまりのヒットに社名を変更したチャールズ・ブロンソンの「マンダム」、本作は男性に香りを着けさせようという、これまでの日本にない新しいライフ・スタイルの導入・定着に貢献した。この他、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「ホンダ・ロードパル」のソフィア・ローレン、「カネカ・フォンテーヌ」「ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「フォンテーヌ」のCMソングにはフランシス・レイを起用した。「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スター、「AGF・マキシムコーヒー」のカーク・ダグラス、マンダム・フーズフーのデヴィッド・ニーヴン、キャサリン・ヘプバーン、アイススケートのジャネット・リン(カルピス)などの起用で、今日に続く海外スター起用のCMの先駆けとなった。海外スターの起用、海外ロケ、映画のような特撮の導入などは、それまでの日本のCMにない画期的なものであった。当時はまだ日本映画がアメリカと合作するなんて考えられもしなかった時代、「CMならハリウッドスターを使えるぞ」という"アメリカ映画ごっこ"のようなもの、企業のお金を使った大林個人の夢の実現であったという。CM撮影での初の渡米は1966年、電通社長の指示で大林を含めたスタッフ4人で行ったという。チャールズ・ブロンソンのマンダム起用の経緯は、当時の丹頂の社長が、若き大林に仕事を任せるにあたり、大林夫婦を食事に招待したおり、ごく自然に夫人にサラダを取り分ける大林に感銘を受け、「この人物ならわが社の広告を任せていい」と決心したといわれ、トップの心を掴んだ大林は思い通りに仕事を進め、「どうして売れないブロンソンなど使うのだ」と渋るハリウッドのエージェントの反対を押し切り、チャールズ・ブロンソンでCMを完成させたといわれる。オイルショック前の1970年初頭はほとんど海外ロケで、1年のうち10ヶ月以上海外生活だった。日本のCMでは、東陶機器(TOTO)のホーローバスのCMで高沢順子に言わせて流行語になった「お魚になったワ・タ・シ」は、コピーライターという職業が無い時代に大林が考えたコピーである。NEC「オフィスプロセッサ」「夢にわがままです」では黒澤明 からCM演出を指名され黒澤に初めてサングラスを外させた。この他、山口百恵・三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、遠藤周作の「日立ヘアカーラ」、山村聰の「トヨタ・クラウン」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウン・ワンサカ娘」、長門裕之・南田洋子の「カルピス」など10年間で製作したテレビCMは2000本を越え国際CM賞も受賞。テレビCMを新しい映像表現として確立、画期的な映像表現で、日本のテレビCMを飛躍的に進化させた。アメリカでのCM撮影の際に、アンダーグラウンド映画のスタッフと親しくなり、『イージー・ライダー』の編集にも大林は関わっているという。2013年、小林亜星らと共に全日本シーエム放送連盟(ACC)第3回「クリエイターズ殿堂」入り。当時はメイド・イン・ジャパンは粗悪品の代表と言われた時代、自分で試してみて、責任を持って勧められるものだけを担当したいと、毛染めのCMをやるのにその商品を使って茶髪になった。「日本で最初に茶髪にしたのは私」と述べている。また、自身も九州電力のCMに出演したことがある。同じくCM作家でもあり、映画評論家でもある石上三登志とは盟友関係となり、石上はその後の大林映画に多数ゲスト出演している。1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。7人の少女が生き物のような"家"に食べられてしまうというホラー・ファンタジーを、ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた。その影響で映画への道を目指した人材も少なくない。子供向けでなく、初めて若者に向けた特撮映画としても特筆される。1990年代に流行した「美少女ホラー」と直接的にはリンクしないとはいえ、その"祖"と評価もされる。本作は2009年頃から欧米で再発見されてコアな人気を集めているという。近年ではアメリカニューヨーク近代美術館(MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された。ニューヨークの単館系の劇場でもよく上映されるという。また従来、監督は助監督を経験してからなるものであったが、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身という新たな流れを生み出した。日本映画の斜陽によって1977年の新人監督の登用は、ピンク映画以外では大林一人だった。大林が商業映画デビューしたこの年が一つのターニングポイントとなりこの流れから自主映画出身者として大森一樹、森田芳光、CM出身者として市川準らが出た。市川は「芸大を受験し続けていたけど、どうしても駄目で。僕も予備校の仲間とミニフィルムを作ったりしていた。当時は大林さんが自主制作で注目されていた。そこから美大入学ではなく、CM制作会社に入るという選択をした」と述べている。大林が35ミリ劇場用映画に進出したことで、日本映画界は大きく活性化したといえる。他に先達として自主映画仲間の高林陽一らが存在するものの、自己プロダクション+ATGという経路であり、いきなりメジャーの東宝映画でデビューというのは画期的であった。当時は映画会社の外部の人間が撮影所で映画を撮るということは、まず有り得ない事態だった。企画としては1975年に東宝の会議を通っていたが撮影所の助監督経験のない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちが猛反対し、その後2年の間、塩漬けにされた。CMの仕事で東宝撮影所に出入りしていたこともあってメディアを巧みに動員した大林自身の自己プロモートに加え、当時東宝営業部長(のち社長、会長)だった松岡功と、東宝撮影所のボス的立場にあったベテラン岡本喜八監督の口添えが大きかったといわれる。松岡は大林に「恐るべき無内容」「しかしこれをわたしたちが考える良い脚本に直したら映画がつまらなくなる、よってこのまま撮ってくれ」とつけ加えたといわれる。1976年6月には準備稿台本が完成し製作についての報道もされたが製作開始とはならず。大林は作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のような事を始めた。オーディションで選んだ平均年齢当時18歳の7人のアイドルに水着を着させて大磯ロングビーチでキャンペーンをやるなど、プロモーションに2年を要して様々なイベントを仕掛け、その後の"アイドル映画"の方向性を作った。ニッポン放送「オールナイトニッポン」枠で生放送されたラジオドラマ『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった。更にラジオドラマに続き、コミック化、ノベライズ化など、大林が主導して「メディアミックス」を仕掛けていき、これらが功を奏して知名度が上がって話題となり、東宝も企画を進めざるを得なくなってようやく本体の映画化が決まった。大林は『HOUSE』のイラスト入りの大きな名刺を作り、会う人ごとに渡していたが、角川春樹もそれを見て「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けており、これも先駆と評価される。しかしながら「あれは正規の映画ではない」と公言する人も多く、映画マニアからは酷く叩かれもした。『リング』、『呪怨』などのプロデューサー・一瀬隆重は「『HOUSE』を観たときには(いい意味で)こんなヘンテコ極まりない映画が、東宝の配給で全国公開された事実に大きく勇気づけられた」「当時の日本映画は産業としてまるで活力を感じさせない状態、もしかしたら、自分にもチャンスがあるかも、古い日本映画も変わるかもしれない、と感じた」と影響を受けた映画の1本として挙げている。大林が『HOUSE』を撮った頃は撮影所外のCFディレクターであるというだけでいぶかしがられたが、今や日本映画は撮影所の伝統からきっぱり切れた、CMやコミックスの影響が濃い自主映画やテレビから生まれた才能の輩出によって支えられている。大林が『HOUSE』以降も、継続して作品を発表し、それらが大ヒットしたり、高く評価されることで広く認められ、撮影所の製作システムが事実上崩壊し、いつの間にか大林のやり方が主流になっていったともいえる。『HOUSE』で同年、ブルーリボン賞新人賞を受賞。1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作として多くの熱狂的な支持を集めロケ地巡りのファンを増やした。"尾道三部作"という言葉は大林映画のファンが作った言葉である。これらは、才気が奔出するあまりに一部評論家からは「お子様ランチ」「おもちゃ箱」と酷評されることもあった初期作品に比べると、落ち着きと詩情を湛えて評価も高く、映画作家としてひとつの頂点を築くこととなった。また、これらの映画作りには、地元尾道を中心とした多くの賛同者の協力があり、近年全国的に拡がるフィルム・コミッションの先駆としても評価されている。『転校生』の試写を見た尾道の関係者が「あんなに協力したのに、いい所を撮ってない」などと、最初は尾道の人たちの中にも「町の汚いところばかりを映して」とか「これじゃ観光客が来なくなる。上映をやめてくれないか」と言う人もいたが、映画を観て逆に観光客が来るようになった。『さびしんぼう』公開時のインタビューで「"いつか見た風景"が、テクニック上のテーマ」と話している。『転校生』の成功は、大林の名前と尾道の名を映画史に刻んだ。近年のインタビューでは「町の人が汚いと思う、昔ながらの変わらない尾道の風景が、外の人には懐かしく見えたんじゃないでしょうか」と話している。田舎町の息の詰まった古臭さを呪う人たちの多かった時代に於いて、日本にまだ、こんなきれいな地方都市の佇まいが残っていたか、と映画を通して再認識させたという点での功績も大きい。出身地とは謂えども、これ程一人の映画作家が、長年に亘り一つの街に愛情を注ぎ、何本もの作品を世に送り続けている事例は世界でも他に例が無いといわれる。三つの映画を撮った原動力は「ふるさとが壊されることを守るための戦いだった」と述べている。本広克行がオール香川ロケした2006年の『UDON』は、「古里に恩返しするために讃岐三部作を撮りなさい」という大林のアドバイスがあったという。なお、大林作品で尾道ロケを行った作品は、この三作以外にも多数存在するが、この三部作は、脚本をすべて剣持亘が執筆していること、中高生を主人公にしたSFファンタジーであることなど、他の共通項も多い。大林はこれまで主に、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行い、「アイドル映画の第一人者」とも称される。特に1970年代〜1980年代に手掛けた作品は「70年代アイドル映画」「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される。2015年2月に、ももいろクローバーZ主演・本広克行監督の『幕が上がる』と新垣結衣主演・三木孝浩監督の『くちびるに歌を』が公開された際に、「アイドル映画」「アイドル&女優が輝く映画」などと特集が組まれたが、大林はその先駆者として各メディアでフィーチャーされた。本広は『幕が上がる』は「大林さんの映画を真似ているところが多い」と話している。『日経エンタテインメント!』2015年3月号の特集「アイドル&女優が輝く映画」では、その系譜の始まりに1981年の『ねらわれた学園』が据えられた。同作は、大作路線を続けた角川春樹が一転、若者向け「アイドル映画」を手掛けた第1弾で、1979年の『金田一耕助の冒険』で意気投合した角川と大林は「誰もやらないような映画を作ってやろう」という目論見から薬師丸ひろ子主演で本作を企画した。また角川から大林に「薬師丸ひろ子をアイドルにしてしてやってくれませんか」との依頼があり本作で薬師丸はアイドルとしての地位を確立させた。このため『ねらわれた学園』は「アイドル映画」時代の開幕を告げる作品と評される。同作はSFのジャンルに入れられるが、アイドルが恐怖に巻き込まれるスリリングな展開と独特の陰のある映像は、その後の「アイドル・ホラー」に大きな影響を与えたとも評され、その嚆矢ともいわれる。1983年、角川から「尾道で原田知世の映画を撮って下さい」と託された筒井康隆原作のジュブナイル『時をかける少女』では、合成やコマ落としなどの映像テクニックを最大限に駆使して幻想的な作品世界を描出、のちに定着する"映像の魔術師"、"大林ワールド"といった代名詞はここから始まった。この時期に日本テレビ「火曜サスペンス劇場」向けに円谷プロで撮った「麗猫伝説」は、アングラ映画すれすれの映画詩ふうな作品であり、これを常識を破ってテレビ用に製作できたあたりに当時の大林ブランドの強さと絶好調の自信が示されている。1984年、原田知世主演で撮った『天国にいちばん近い島』は映画は酷評されたが、それまであまり知られていなかったニューカレドニアブームを起こした。1980年代の日本映画は、大林宣彦と相米慎二の時代とも評される。女優を手加減なしに自身の追求する映像を撮ったこれらは「アイドル映画」の皮をかぶった「作家映画」と見る向きもある。2014年に『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』を著した中川右介は「盟友関係にあった角川春樹と大林宣彦の二人が、70年代後半から80年代にかけての日本映画界を牽引していたという図式が明確に把握できた。そこであの本では『角川春樹』を主人公とし、副主人公に『大林宣彦』を置いた」、「あの時代個人名で『〇〇映画』と呼ばれていた監督は『大林映画』だけだったのではないか」と述べている。長い自主映画製作キャリアから培ったスキルは撮影、編集、演技のみならず作曲や演奏にも及び、監督デビューよりも2年早く高林陽一監督の『本陣殺人事件』で音楽監督をつとめている(自作での音楽監督兼任はそれほど多くない)。出演作品はそれほど多くないが、発声のきちんとしたプロ級演技は『俗物図鑑』(内藤誠監督)などで垣間見ることができる。「同じことは二度としない」と公言している通り、大林のフィルモグラフィは1作ごとに異なる実験が行われている。『瞳の中の訪問者』(1977年)は、手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』最初の実写化であるが、『HOUSE』以上に趣味性を前面に押し出し、漫画そのものを実写で描こうとして、原作そのままのメイクで宍戸錠を登場させるなどで、「こんな人間がどこにいる!」と手塚を憤慨させたといわれる。「尾道新三部作」の『ふたり』はNHK初のハイビジョンドラマとして製作したものを再編集して劇場公開した。「アイドル映画」などを挟みながら、一転して純文学に挑んだ福永武彦原作の『廃市』(1984年)、本作は大林自身「超ローバジェット映画」と表現している、寓話性を強調するため、台詞を棒読みさせたり、フラットな構図を採用したり、誇張したメーキャップを施したりするなどで、モノクロ版とカラー版の二種類を製作し同時に劇場公開した『野ゆき山ゆき海べゆき』(1986年)、1988年の各映画賞を独占した大人のファンタジー『異人たちとの夏』、演出、撮影、録音の大胆な実験を試みた『北京的西瓜』(1989年)。本作は天安門事件の影響で中国ロケが中止になった抗議に意図的に37秒間の空白を挿入した。『北京的西瓜』で試みた実験をさらに推し進め、複数の16mmカメラを手持ちで回し、リハーサル無し、NG無し、メイクも照明も最低限で一気呵成に撮り上げたフィルムを異常なハイテンションで編集した青春映画の傑作『青春デンデケデケデケ』(1992年)、タブー視されていた水との合成にあえて挑み、全編の9割をハイビジョン合成するなど、当時の最先端技術を導入した『水の旅人 -侍KIDS-』(1993年)、吉永小百合に「あなたのシワが撮りたい」と口説いて、吉永がノーメイクに近いナチュラルメイクで挑んだ、型破りの"小百合映画"『女ざかり』(1994年)。本作は1時間56分の本編をスーパー16mmカメラを多用し、1000カットに及ぶ短いカット繋ぎで構成した。宮部みゆきの小説世界を100名以上の俳優全員にノーメークで演じさせて完璧に映像化した『理由』(2004年)など、映画界に新風を吹き込む野心作を連打した。2013年に手掛けたAKB48の長尺のミュージック・ビデオ「So long !」は物議を醸した。1993年に自身が初めて俳優として出演した月9ドラマ「あの日に帰りたい」では、主演の工藤静香と菊池桃子のフィルムの制作も行った。2000年代に入ると尾道を舞台にした映画は無くなり、代わって、大分や長野、新潟、北海道芦別など、その町の伝統や歴史を題材にした映画を製作している。大林はこれを「ふるさと映画」と称している。近年は各地に講演で招かれたり、コメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌やネットインタビューなども多い。2004年(平成16年)春の褒章に於いて紫綬褒章を受章。2009年(平成21年)秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという。2013年12月27日 朝日新聞デジタルに 「特定秘密保護法が成立した6日、僕は怖くて一日中震えていました。いまの空気は戦争が始まる時に近いのです」とのコメントを寄せる。2016年、第18回極東映画祭(イタリア)にて、マルベリー賞(生涯功労賞)を受賞。大林宣彦が、出身地尾道市を舞台に撮影した映画の代表作として認知されている3つの映画作品のこと。後に、同じように尾道を舞台にした作品が同じく3つ作られたため、これを「新尾道三部作」と称すこともある。転校生や時をかける少女の頃はまだ尾道三部作と呼ばれておらず、続くさびしんぼうが撮られたことで、これらの3本が尾道三部作と言われるようになった。大林作品にはテレビで製作された作品を後に劇場版として公開する、または劇場公開に先行してテレビで放送する、というケースが多く見られる。
『理由』はWOWOWで放送、劇場公開の後、さらに日本テレビで「日テレヴァージョン」が放送された。
出典:wikipedia
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