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片山右京

片山 右京(かたやま うきょう、男性、1963年5月29日 - )は、日本出身のレーシングドライバー、フォーミュラ1ドライバー、登山家、自転車競技選手である。通称「カミカゼ・ウキョウ」。神奈川県相模原市の名誉観光親善大使、白山ジオトレイル名誉顧問を務める。大阪産業大学工学部客員教授。「TeamUKYO」主宰。東京都新宿区の慶應義塾大学病院生まれ、神奈川県相模原市(南区)鵜野森育ち。相模原市立鹿島台小学校に通い、この頃から自転車や登山にいそしむ。中学・高校は、日本大学第三中学・高等学校に進学。陸上部に入部し、長距離選手として活躍。バイクの転倒事故を起こし、大学進学を断念する。日大三高で福王昭仁(読売ジャイアンツ2軍内野守備走塁コーチ)と落語家の立川志らくは同期生。筑波サーキット前のレースガレージで寝泊りしながら、パチンコ店店員、トラック運転手などで費用を準備し、1983年にFJ1600筑波シリーズでデビューを果たす。この年の同シリーズでシリーズチャンピオンに輝き、翌1984年も鈴鹿FJ1600Aクラスでシリーズチャンピオンを果たすなど好成績を残す。1985年には全日本F3選手権にステップアップし、ランキング6位の成績を残す。またこの年の8月にフランスへと渡り、フォーミュラ・ルノースクール(ウィンフィールド・レーシングスクール)を受講し、アラン・プロストの持っていたコースレコードを更新する。首席での卒業のため、本来であればエルフのスカラシップを獲得するところだが、日本でF3の出走経験があったことからスカラシップの対象外とされ、次席のエリック・コマスがスカラシップを獲得した。1986年はフォーミュラ・ルノーのフランス国内選手権に出場し、第3戦マニクールでポールポジションを獲得し2位入賞を果たす。同年シリーズ途中から1987年までチーム・デュケンからフランスF3に参戦。リタイヤを恐れない攻撃的なドライブで注目を集めた。レース中のクラッシュで瀕死の重傷を負い、日本へ「片山右京 死亡」の誤報が流れたこともあった。その恐いもの知らずの走りから「神風(神風特別攻撃隊の意)右京」と呼ばれた。1988年から、日本のトップカテゴリーである全日本F3000選手権に出場。この年は、アパレルメーカーの「BA-TSU」からの資金を元に、自前チームの片山企画から参戦した為、ドライバーとチームマネージャーの二足のわらじを履くこととなり苦戦を強いられたが、シーズンランキング11位の成績を残した。またル・マン24時間レースにフランスのクラージュ・コンペティションから出場した。1989年は、前年の苦労から由良拓也率いる有力チームの1つであるムーンクラフトへ移籍するも、マシンバランスが悪く、戦闘力に欠けるオリジナルシャーシでの参戦であったために結果が出なかった。また同チームより国際F3000選手権にもスポット参戦したが、こちらも同様の理由から低迷した。併せて全日本ツーリングカー選手権にも「出光石油 with Footwork」からエントリーし、村松栄紀とともにホンダ・シビックをドライブした。常に上位争いに顔を出し、第4戦ではクラス優勝を飾った。1990年には名門のヒーローズレーシングへ移籍し実力を開花させ、一躍トップドライバーの仲間入りを果たしシーズンランキング5位となるも、黒旗無視による失格など出入りの激しいレース展開は変わらずであった。なおこの年にF1のブラバム・ヤマハのテストドライバーに抜擢された。1991年には同チームで安定したドライブを見せ、バブル景気の余波を受けて参戦台数が多く上位争いが激しかった中で、着実にポイントを稼ぎライバルであったロス・チーバー、星野一義、小河等、エディ・アーバインらを下して、最終戦の富士スピードウェイにおいてシリーズチャンピオンとなる。ちなみに、この年の8月に日本人初のF1レギュラードライバーである中嶋悟の引退が発表されたため、「今年チャンピオンを取る片山が次のF1最有力」との話が一人歩きし始め、右京へのプレッシャーを高めることとなり本人を苦しめたと言われる。全日本F3000チャンピオンとしての実績が認められ、前年まで日本人2人目のF1レギュラードライバーである鈴木亜久里が在籍していた、ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦した。なお、F1参戦には日本たばこ(当初は「CABIN」、後に「MILD SEVEN」ブランドで右京がF1を引退するまでスポンサーした)によるバックアップも大きく影響している。カナダGPではレース終盤までポイント圏内走行の健闘を見せる場面もあった(結果はリタイア)が、ラルースチームの戦闘力不足によりノーポイントに終わる。スペインで予選落ち、モナコで予備予選落ちも経験している。1993年に、ヤマハエンジンを得た中堅チームのティレルに移籍した。チームメイトは前年からティレルに在籍していたベテランのアンドレア・デ・チェザリスであった。なお、1990年からブラバム・ヤマハのテストドライバーを務めていた。この年は新車「ティレル・021」の投入が遅れた上、その新車がマシンバランスを欠いた失敗作だったため見るべきところがなかった。なお、開幕から数戦に渡り使用した020Cのモノコックは、1991年に中嶋悟が使用したものそのもので、エンジンも前年のイルモア程度の軽量化は達成していたものの、第4戦でニューマチックバルブが導入されるまでヤマハ側の改良が間に合わず、やはり1991年にスクーデリア・イタリアが搭載したジャッドGV・V10そのものであった。1994年はマシンバランスに優れたニューマシン「ティレル022」を駆り、随所で表彰台獲得はおろか初勝利さえ期待させる速さを見せる。開幕戦ブラジルGPで5位入賞し初ポイントを獲得、その後ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死亡事故が起きたサンマリノGPで5位、イギリスGPでも6位にそれぞれ入賞し、ドイツGPでは予選で当時日本人最高位となる5位を獲得、スタートで2位にジャンプアップし、マシントラブルでリタイアするまで3位をキープするほか、チャート上は残っていないがサンマリノGPでは一時、クリスチャン・フィッティパルディと1位争いをするなど、日本人初のF1優勝の夢を現実的なものにした。しかし、資金不足でテスト回数も制限され開発が思うように進まず、それゆえ信頼性が上がらずにトラブルが多く、入賞したレース以外では途中リタイアという展開が多かった。チームメイトのマーク・ブランデルがスペインGPで3位表彰台を獲得し、自身もドイツGPでの2位走行、ヨーロッパGPではスタート直後のエンジンストールで最後尾まで落ちながら入賞圏内には僅差の7位となるなど、健闘を見せたシーズンとなった。後にこのシーズン印象に残る走りが出来た理由として、実姉が出産時の事故で他界したことと、自らが癌であると診断された事(後に誤診と判明)を挙げている。1995年は「今年の注目ドライバーはウキョウ・カタヤマだ」と、当時フランスのTF1で解説をしていたアラン・プロストに言わしめた。右京はチームに「チームメイトはとにかく速いヤツにしてくれ」とオーダーしていたが、チームメイトにミカ・サロを迎えると、サロの母国のフィンランドの携帯電話メーカー「NOKIA」がメインスポンサーになり、サロが結果を出すにつれてチーム体制がサロ寄りになっていった。また、油圧形式ダンパーのハイドロリンク・サスペンションを独自開発したが開発体制が脆弱で熟成できず、通常のサスペンションへ戻すといった混乱もあり低迷した。ベルギーGPでは雨中でスリックタイヤのまま走行を続け、16番手から4位まで浮上。3位のマシンを7秒速いペースで追い上げたが、セーフティカーが導入されるとタイヤが冷えてしまいクラッシュした。ポルトガルGPではスタート直後の多重接触事故に巻き込まれ、引っくり返ったマシンがコマのように回転するという激しいクラッシュで病院に搬送された。次のヨーロッパGPはドクターストップにより欠場し、復帰後もしばらく後遺症に悩まされた。不調の原因の一端は右京のトレーニング方法に問題があったとの話もある。右京は1994年の戦績を上回るべくシーズン前にハードなトレーニングを行ってきた。無暗に重い負荷を掛け筋力を増強する方法だった。当時の右京は「10kgを10回上げるのと100kgを一回上げるのは同じ」と考えていたらしい。体が一回り大きく見えるほどに筋肉を付けたが、引き替えに敏捷性を奪う結果となった。また筋力が増したことにより酸素の消費量が増え、走り始め早々から酸欠状態に陥り腕が上がらなくなっていたと語っている。F1ドライバーに必要なのは300km走りきる間、同じ動作を正確に繰り返す筋肉であり、筋肉の性質を考慮せずにトレーニングを行ったことは自分の首を絞める結果となった。また、この年からレースエンジニアがサイモン・パーカーからティム・デンシャムになった事で、仕事の進め方の細かい部分での行き違いがありエンジニアとの関係構築に時間が掛かっていた。1996年は前年のチームの成績が良くないのと、広告面での成果が予想以上に悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退してチームは資金難になる(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)。また1996年の右京の契約がチームとなかなか合意できない間にシャーシ(ティレル024)の開発が進んでしまい、既にチームと契約済みであったミカ・サロの体型に合わせてコクピット形状が決められてしまう。その為、右京には大きすぎるコクピットになってしまい、対策としてシートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。トップチームへの移籍を見越してチームと95年の単年契約を結んだ事が結果的に仇となった。その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切り角にズレが生じてしまう事になった。(右京はこの現象を「手アンダー」と呼んでいた)右京用のシャーシが製作されたシーズン中盤までこの現象に悩まされる事になる。この様に辛いシーズンを送る事になり、ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした「奇策」まで飛び出した。1997年はミナルディに移籍。当時チームオーナーとなっていたベネトンのフラビオ・ブリアトーレに、チーム立て直しのためのリーダー的存在感を期待されての起用であった(来シーズンザウバーや、アロウズと契約間近だったが、どちらも移籍すればナンバー2扱いだったことがネックとなり、合意には至らなかった)。しかし、マシンの性能が決定的に劣ることもあり目立った成績は残せず、右京自身も闘志が薄れ、守りの姿勢を嫌い、「後進にシートを譲りたい」との理由で、この年限りでF1を引退した。引退の決断に関しては、「この年がデビューシーズンとなったチームメイトのヤルノ・トゥルーリの急激な成長に対し、自分にはすでに伸びシロが無くなっていたことを認識させられたからであった」と後に語っている。その後、1998年からはトヨタよりル・マン24時間耐久レースにワークス参戦し、特にトヨタTS020 GT-ONEを駆った1999年の同レースは、優勝車BMW V12 LMRを終盤にファステストラップの連続で追い詰め、結局タイヤバーストで惜しくも2位に甘んじたものの、その鬼神のごとき走りは内外のレース関係者に深い印象を残した。しかも、バースト時の速度は約204mph(=328km/h)であったが、二車線しか無い公道区間にも関わらずスピンすることなく体勢を立て直すなど、まさに「カミカゼ・ウキョウ」の健在とその実力が未だトップレベルにあることを証明するレースとなった。その後は、同じく関係の深いトヨタ系チームから全日本GT選手権や、ダカールラリー、アジアクロスカントリーラリーなどにも参戦している。他にも、F1現役時代から、FJ1600やフォーミュラ・トヨタなどのジュニアフォーミュラや、F3を中心に活動するレーシングチーム「ル・ボーセ・モータースポーツ」を運営している。また、2007年11月からスタートしたスピードカー・シリーズにも参戦していた。2011年はグッドスマイルレーシングとStudieが運営するチームにTeamUKYOが参加、スポーティングディレクターに就任した。2012年も継続してスポーティングディレクターを務めると共に、チームが2台体制になったのに伴い4号車の監督を兼務している。2014年からはグッドスマイルレーシングがエントラントとなり体制変更を受けてチーム監督に就任した。F1現役当時から登山を趣味としており、キリマンジャロなどに登頂。F1引退後は登山をライフワークと位置づけ活動。2001年にはチョ・オユー登頂に成功。2002年にはエベレスト登頂にチャレンジしたが、失敗した。2006年にはマナスルの登頂に成功した。2007年にはガッシャーブルムII峰に遠征。天候不順により登頂を断念した。この遠征中に、竹内洋岳を含むドイツ隊の5人が雪崩に巻き込まれる事故が発生。酸素ボンベの提供などの救援活動に従事している。2009年12月17日、南極大陸のヴィンソン・マシフ登頂に挑戦するための訓練として、自身が経営する片山プランニングの社員2名と共に富士登山中に遭難した。片山本人は翌18日に自力で下山する途中、静岡県警山岳救助隊員に発見、保護された。翌19日の正午過ぎ6合目付近で男性2人の遺体が発見され、行方不明となっていた社員2名と確認された。同日に記者会見が行われ、片山の事務所は同月25日から予定していた南極行きの中止を発表。片山自身も以降の登山活動を自粛していたが、警察の捜査終了後、翌年3月24日より再開した。これを受けて日本山岳協会の理事長尾形好雄は「冬の富士山で一番怖いのは突風であり、風によって滑落、転倒するのが冬富士の遭難の典型」と指摘している。また、「無理はせず、強い風が吹けば引き返すのが当たり前」と発言している。最近では自転車関連の事業も手がけており、ロードレースに選手として参加。2006年のシマノもてぎレース2時間エンデューロ2人クラスで初めてながら4位に入る健闘を見せる。2008年のエタップ・デュ・ツールでも日本人最高位で完走を果たした。他にオリジナルマウンテンバイクの開発や、今中大介のインターマックスとも提携している。さらに2005年からは女子自転車競技チーム「チーム・エレファント」の監督も務めた。2009年より活動を開始した宇都宮ブリッツェンにもドライバー・スタッフ(当初はメンタル・アドバイザー)として参加。2010年のジャパンカップ・クリテリウムにおいて、宇都宮ブリッツェンの選手としてデビューする。2011年は「宇都宮ブリッツェン・TeamUKYO」のチーム名義でJBCF(実業団)Jエリートツアーに参戦した。2012年には宇都宮ブリッツェンを離れ、新たにTeamUKYOとして国際自転車競技連合(UCI)登録のコンチネンタルチームを設立、自ら監督を務める傍ら右京自身も「TeamUKYO Reve」(Reveはフランス語で「夢」の意)のチーム名義で引き続きJエリートツアーに参戦している(クラスターはエリートツアー最上位のE1)。現役時代には子供番組「ウゴウゴルーガ」にゲスト出演。F1引退後はフジテレビのF1中継番組「F1グランプリ」に解説者のひとりとして出演し、熱い語り口を聞かせている。また、am/pmなどのテレビCMや様々なバラエティ番組、ドラマ『水戸黄門』に出演するなど、タレントとしての活動も行っている。自身をメインパーソナリティーとする、ラジオやテレビのレギュラー番組も持っている。前述の富士山登山中の遭難事故により、2009年12月18日より全てのTV・ラジオ番組の出演を無期限で休止していたが、翌年3月23日に復帰することを発表した。現在は引き続きF1中継の解説者を務め、2014年9月より開幕するFIAフォーミュラE選手権のテレビ朝日のテレビ中継の解説者を務める。キャリア初期は資金に苦しみ、主戦場であった筑波サーキット近辺の自動車工場で住み込みでアルバイトをしながらレースに明け暮れる日々だった(住み込みならば部屋代がかからず、レース資金も稼げ、お下がりのパーツを手に入れることができるため)。主戦場が鈴鹿サーキットになった時には、白子の浜辺にブルーシートを設け野営し、トレーニングを兼ねランニングをしながらサーキットへ行きレースをしていた。ドライビングの悪い癖を直し、サーキットの走行時間を増やしたいという理由から、現役レーサーとしては珍しくドライビングコーチについて練習していた。ティレル在籍中の1994年に、ベネトンへの移籍話が持ち上がったことがあり、後年のインタビューでは詳しい経緯を語っている。それによると、ベネトンのフラビオ・ブリアトーレから紙とペンを突きつけられ、「ここに今すぐサインをしろ。これで来年からは我々の仲間だ」と迫られたという。右京は逡巡したが、応援してくれている人々やメインスポンサーである日本たばこ産業の意向を確認しなければと思い、「ちょっと待ってくれ。」と即答を拒んだ。直後に会ったミハエル・シューマッハに「よう!来年からよろしく!」と肩を叩かれ、「それが、まだサインしていないんだ」と答えると、「なぜだ!?こんなチャンス悩む必要があるのか?」と驚かれたという。「今から考えれば、あの時迷わずにサインをしていたら、運命は違っていただろうね。まぐれで1、2度くらいは優勝できていたかもしれない」と無念さをにじませている。ファンから漢字のサインを頼まれ、「どうせ『片山右京』と書いたところで、分からないだろうから」と、面白がって『広東風炒飯』『餃子四個』などと書いたことがある。またティレル在籍中には、マーク・ブランデルとでたらめな言葉で会話して「マークが日本語をしゃべってる!」と周囲を驚かせるいたずらをしばしば行っていた。

出典:wikipedia

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