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大杉勝男

大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 1992年4月30日)は、岡山県勝田郡奈義町出身のプロ野球選手(内野手)。NPBにおける通算本塁打数・通算打点数共に歴代9位(2015年シーズン終了時点)。3兄弟の次男として生まれ、4歳年上の兄に影響されて野球を始めた。その後、兄と父を病で亡くす。白血病で亡くした兄の「兄の姿を甲子園に再現させて下さい」という願いを叶えることと、自身も兄の出場した甲子園に憧れ、野球に本格的に打ち込むようになった。関西高校に入学し、硬式野球部に入部。1年でありながら真っ先にレギュラー捕手となる。しかし経済的負担もあって軟式に転向、甲子園に出場することは叶わなかった。卒業後は、に野球部を新設し、高校の先輩である岡田悦哉が監督となった丸井に入社。都市対抗の東京都予選などで活躍するが、創部2年目のに野球部は休部する。、岡田の勧めもあり東映フライヤーズの入団テストを受ける。テストでは力を発揮できず、球団幹部は獲得に難色を示した。しかし当時の打撃コーチ・藤村富美男が才能を見出し「東映が獲らないなら、私が(藤村の古巣である)阪神に推薦しますが、それでも構いませんか」と監督の水原茂に問い詰めると、「お前がそこまで言うのだから、さぞ凄い打者なんだろう」と水原は大杉の獲得を決意。入団に至った。水原監督は大杉を入団1年目から積極的に起用し、2年目には101試合の出場で打率.269を記録。3年目のはレギュラーに定着し、オールスターゲームにも出場。第3戦で江夏豊から満塁本塁打を放ちMVPを獲得する。同年は全試合に出場して打率.291・27本塁打・81打点の成績を残すが、リーグ最多の107三振を喫した。翌1968年も荒い打撃と三振が目立ち、本塁打は出るものの低打率に苦しむ。転機となったのは同年9月6日のオリオンズ戦、第4打席まで無安打と結果を残せないまま試合は1対1のまま延長戦に突入し、延長11回裏に打席が回ってきた大杉に、打撃コーチの飯島滋弥は「月に向かって打て!」というアドバイスを送った。このアドバイスはアッパースイングで振り遅れが目立った大杉の打撃を端正しようとしたときに出たもので、弾丸ライナーを打つのにちょうど良い位置に月があったため、そのように表現したという。アドバイスを受けた直後の打席では右飛に終わったものの、この言葉で大杉は打撃のコツをつかみ、翌年からリーグを代表する強打者へと成長した。からは三振も減り、6年連続30本塁打、からは3年連続40本塁打を放った。1970年には自己最高となる打率.339・44本塁打・129打点、日本記録となるシーズン15犠飛を記録。同年とには2年連続本塁打王のタイトルを獲得する。1970年とには打点王を獲得し、張本勲との3、4番コンビはOH砲と呼ばれた。1972年5月に月間15本塁打を達成。同年7月11日の対南海ホークス戦で大杉は初回に26号本塁打を放つものの、降雨ノーゲームとなり、幻の本塁打となった。最終的に長池徳二(阪急ブレーブス)に本塁打1本差の2位。打点は野村克也(南海)と同点1位に終わった。、東映が日拓ホームになると同時に長年つけていた背番号「51」を「3」に変えるが不振に陥り、翌に再び「51」に戻すも復調せず、打率.234と成績が低迷。球団の親会社が前年オフに日本ハムに替わり、東映カラーの払拭を目指すフロントは主力選手の大量放出を断行する。大杉も、ヤクルトスワローズへ内田順三と小田義人との交換トレードで移籍した。移籍1年目は荒川博監督の指導が合わず、打率.237と結果を残せなかった。その後に猛練習を重ね、2年目の1976年に打率.300・29本塁打・93打点の好成績を残す。からは広岡達朗が監督に就任し、以降は大杉も東映時代の振り回す打撃から確実性を意識した打撃に変更した。同年は打率.329・31本塁打・104打点を記録した。には開幕から4番打者を務めて打線を引っ張り、チームも開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てた。同年は打率.327・30本塁打・97打点を記録する活躍を見せて球団のリーグ初優勝に貢献。阪急との日本シリーズでは第7戦、6回裏に足立光宏からレフトポール際に本塁打を放った。この判定を巡って阪急の監督の上田利治が猛抗議。1時間19分も試合が中断するも、判定は覆らなかった。抗議されたことに怒った大杉は、次の8回裏2アウトで迎えた第4打席で山田久志から文句なしの本塁打を放ち、チームは日本一となった。この2打席連続本塁打で大杉は第2戦・第5戦の本塁打と合わせて長嶋茂雄のシリーズ4本塁打の記録に並び、同じく長嶋のシリーズ記録であった9打点を更新する10打点を残し、シリーズMVPを獲得した。には打率.343を記録するも、首位打者には及ばなかった。6月3日、史上初の両リーグ1000安打を達成。両リーグ200本塁打の記録もあと1本まで迫っていたが(通算本塁打はパ・リーグで287本、セ・リーグで199本)、持病の不整脈が悪化し、夫人が入院生活を送っていたこともあり、同年限りでの現役引退を表明した。引退試合の挨拶で「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」という言葉を残した。また引退会見の席では「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」という句を詠んでいる。引退後はからまでフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者を務め、に横浜大洋ホエールズの一軍打撃コーチに就任した。、ガンに侵されていることが判明し、退団。1992年4月30日、肝臓ガンで死去。47歳没。名球会会員最初の物故者となった。1997年、野球殿堂入りした。現役時代はファンサービスに積極的で、本塁打を打った後に観客に向けて投げキッスをするなどのパフォーマンスを行っていた。また、愛妻家であり、生前書いていた日記のほとんどは夫人にあてたもので、スランプに陥れば妻も世間から責められるからと奮起したり、ヤクルトが初優勝した時は他の選手と違い、真っ先に夫人の待つ家に帰ったりしている。グラウンド上では喧嘩っ早く、乱闘では相手選手に殴りかかることが度々あった。1970年の西鉄戦では、西鉄の攻撃時、西鉄の二塁走者のカール・ボレスが左中間のフライでタッチアップした際に2塁のベースカバーに入った大杉がボレスと接触した。この接触が余りにも激しかったため、大杉は激怒し、ボレスに掴み掛った。ボレスも応戦して大杉に殴りにかかったが、大杉は回避して逆に右拳でボレスを殴り、昏倒させている。 また1978年の巨人戦、両軍入り乱れての乱闘の際には、当時の巨人の監督である長嶋茂雄にも殴り掛かって一発加えている。大杉自身は乱闘の際に興奮しすぎて、長嶋に殴り掛かったことは覚えていないという。元同僚で巨人の張本勲が大杉の乱闘を止めないといけない程であった。持論は「挨拶の出来ない奴は伸びない」であり、「挨拶の出来ない奴は大抵、2流か3流で終わる」と指摘している。同僚の張本勲は、新人の頃の打者としての大杉について、「頭と手足がやたらデカく脚が遅い。そのクセやたら軽いバットを振り回している。 首脳陣や選手たちは『コイツはダメだ』と諦めていたが、よく見ると、バッティングが物凄いことに気づいた。 高い位置にボールが来たときは、無理のないアッパースイング。腰の位置にボールが来たときは、自然なレベルスイングで捌き、低い位置に来たときは、腰を落として綺麗に払ってゆく。しかもバットのトップ位置が変わらない。これには仰天した」、「初めて大杉のバッティングを見たときに、非凡なものを感じた。ボールの飛び方というか伸び方が非常に良い。ライナー性がグンと勢い良く伸びる。 何故かと思って、6年目の私は、新人の大杉のバッティングを良く観察した。 すると、バットの出方が投手で言うとスリークォーターの出方で、コース・高低に関わらず、その出方は変わらない。コイツはとんでもないバッターだと感じた。この非凡さは、落合博満を初めて見たときに感じたものと同じだった。」と語っており、「私と大杉はライバルと言ってよい。互いに切磋琢磨し打撃論を交わし、時には喧嘩にもなった。私が当時(1970年)の最高打率を残せたのも、大杉がいたからこそ。私達はお互いを尊敬しつつ認め合った」と述懐している。

出典:wikipedia

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