守山区(もりやまく)は、名古屋市を構成する行政区16区のうちのひとつ。 名古屋の北東部に位置し、東濃や木曽などの山間部に最も近いため、緑豊かな自然が残る。政令指定都市である名古屋市内にあって、比較的安価で広めの敷地を確保しやすいことや、自然豊かな環境であることが注目を集め、区内、ほぼ全域で宅地開発が盛んになり、人口が増加し続けている。区の東西を横断するように名古屋鉄道瀬戸線が、南北を縦断するようにゆとりーとラインが走る。また、区の西側をJR中央線が通る。市内の区で唯一地下鉄が通っていない。縄文海進によって、現在の名古屋市全域がほぼ海底にあった時代に、この地域は海岸沿いにあったため、太古から人が居住していたと考えられており、古代から数多くの古墳が残されている。中世は山田郡に属していたが、長く善光寺街道と瀬戸街道沿いに集落が点在する農村であった。守山の表記は近世にいたるまで統一されておらず、森山と表記することもあった。戦国時代には、守山城、小幡城、龍泉寺城などの城が存在し、小牧・長久手の戦いなどの舞台となった。守山城は、松平清康の森山(守山)崩れで知られている。明治に入ると、現在の守山区の地域は、東春日井郡に属することとなった。1889年(明治22年)には、町村制の施行と同時に行なわれた合併により、高間村、二城村、小幡村、大森村の4村が発足した。そのころ、小幡ヶ原に名古屋鎮台の演習場が開設され、その後、1897年(明治30年)には、旧日本陸軍の駐屯地(現在の陸上自衛隊守山駐屯地)が誘致されると、宅地化が始まり、瀬戸線開通も加わって、旧守山町の区域に当たる瀬戸街道沿道の宅地化が進んだ。1906年(明治39年)には、高間村、二城村、小幡村、大森村の合併により守山町が、一時分立していた志段村と上志段味村の再合併により志段味村が発足した。大正から昭和初期にかけては、宅地化の進展とともに、名古屋側の矢田川左岸に大規模な軍需工場が数多くあったことから、守山側の矢田川右岸には、機械部品の下請工場や工場従業員向けの住宅などが点在するようになった。小幡ヶ原には、名古屋飛行機学校の飛行場が存在した。戦後は、守山町の瀬戸街道沿道を中心として、住宅開発が続き、名古屋のベッドタウン化が進行した。自治体としては、長く守山町と志段味村が並立していたが、町村合併促進の政策に従い、まず、守山町が志段味村を編入し、市制を施行して守山市となった。隣接する旭町(現・尾張旭市)との合併も検討されたが、1963年(昭和38年)には、守山市が名古屋市に編入合併され(名守合併)、名古屋市守山区となった。これとは対照的に、旧志段味村の区域に当たる守山区北部の志段味地区および吉根地区は鉄道もなく、幹線道路整備が遅れ気味であったなど、都市基盤の整備が遅れていたことから、宅地化は進まず、農地と山林が広がっていた。しかし、2001年(平成13年)ゆとりーとラインが開通とともに、竜泉寺街道の拡幅や土地区画整理などの大型開発が進み、大型ショッピングセンターが進出するなど、宅地化が始まった。区の西部を中心に製造施設等が点在する。名古屋市16区のうち、唯一地下鉄が通っていない。通行に際しては名古屋IC(名東区)を利用する。<南北の道路><東西の道路>詳しい地名については名古屋市の地名#守山区を参照。
出典:wikipedia
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