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ローマの休日

『ローマの休日』(ローマのきゅうじつ、原題:"Roman Holiday")は、1953年製作のアメリカ映画。ウィリアム・ワイラーが製作・監督。ローマを表敬訪問した某国の王女が滞在先から飛び出し、一人でローマ市内に出て知り合った新聞記者との切ない24時間の恋を描いている。トレビの泉や真実の口など、永遠の都ローマの名だたる観光スポットを登場させていることでも有名である。王女をオードリー・ヘプバーン、新聞記者をグレゴリー・ペックが演じている。この時に新人だったオードリー・ヘプバーンは1953年度のアカデミー賞において、アカデミー最優秀主演女優賞を受賞している。この他に衣裳のイーディス・ヘッドが最優秀衣裳デザイン賞をまた脚本のイアン・マクレラン・ハンターが最優秀原案賞をそれぞれ受賞した。ただしイアン・マクレラン・ハンターの受賞については、この作品はもともとダルトン・トランボが執筆して当時の赤狩りでハリウッドを追われたため、名義を借用したものであった。アカデミー賞選考委員会は1993年にダルトン・トランボへ改めて1953年度最優秀原案賞を贈呈している。監督ウィリアム・ワイラーと脚本ダルトン・トランボが男女の出会いと別れという月並みなテーマを、フレームに映る全ての事実の積み上げと互いの細かい感情のやり取りから普遍的なお伽話にまで昇華させた映画となった。ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の王女アンは、ヨーロッパ各国を表敬訪問中であった。最後の滞在国であるイタリアのローマで、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついにアンはヒステリーを起こしてしまう。その夜、密かに城を抜けだした王女は、直前に打たれていた鎮静剤のせいで無防備にも路傍のベンチでうとうとしはじめる。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーだった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう。眠くて仕方のない王女は詩を朗読して寝てしまう。翌朝になって彼女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをモノにしようと、職業を偽り、友人のカメラマンであるアーヴィングの助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。アンはまず美容院で髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べる。その後ジョーとベスパに二人乗りしてローマ市内を廻り、真実の口を訪れ、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーに参加する。その様子をアーヴィングが次々にスクープ写真を撮っていくうち、永遠の都・ローマで自由と休日を活き活きと満喫するアン王女とジョーの距離は次第に近づいていくのであった。「ローマの休日」の本邦初公開は1954年4月27日(東京地区)であったことになっているが、正確にはそれより6日早く4月21日に長崎県佐世保市の「佐世保富士映画劇場」で先行して公開されている。何故東京より遥か離れた長崎県で最初の公開となったか、その事情は詳らかではない。また4月23日には名古屋市の「名古屋ミリオン座」で封切られて28日間の興行で名古屋地区洋画興行界始まって以来の大入りとなった。また他の地方都市でも東京よりも早く公開されている。ほぼ4週間のロードショーの後に、東京では6月21日から早くも一般公開(いわゆる二番館での上映)している。この一般公開も東京よりも各地方都市の方が早かったようで、ヘップバーン旋風は必ずしも東京から地方へ流れていったのではなく、全国同時現象として1954年春に起こった。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)のAFIアメリカ映画100年シリーズにおいて、2002年にAFIがアメリカ映画の GREATEST LOVE STORY を集めて行った情熱的な映画ベスト100において、「ローマの休日」は「カサブランカ」「風とともに去りぬ」「ウエスト・サイド物語」に次いで第4位で、「めぐり逢い」「追憶」「ドクトルジバゴ」「素晴らしき哉、人生!」「ある愛の詩」より上位となった。また同じAFIが2008年に行ったロマンティック・コメディ映画の部門でも第4位(トップは「街の灯」)となっている。本作の脚本家であるダルトン・トランボが、この可愛い王女の独創的な物語を書き上げたのは、1940年代の半ば頃で、この脚本を当時の映画製作会社リバティ社が映画化権を取得したが、取得に当って映画監督のフランク・キャプラが大きな役割を果たしている。1948年にリバティ社がパラマウント社に買収された後に、フランク・キャプラを監督にして製作に入ることになった。しかしこの時にキャプラがエリザベス・テイラーとケーリー・グラントでの配役を提示したが、製作費で会社側と折り合えず、結局キャプラは降りてしまった。その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めにウィリアム・ワイラーが、この脚本を知りローマでの撮影を条件に強い関心を示して、ウィリアム・ワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった。製作時にアメリカ本国ではマッカーシー上院議員らによる「赤狩り」と呼ばれる非米活動調査委員会での共産主義者排斥運動が行われ、映画産業でもハリウッド・テンと呼ばれた人物たちがパージされ、本作の脚本家であるダルトン・トランボもその一人であったため友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターが本作の脚本にその名前をクレジットした。ウィリアム・ワイラーがローマへ携えた草稿はトランボの脚本をハンターが手直ししたものであった。ワイラーはイギリスの作家ジョン・ディントンを雇い、その草稿に磨きをかけて製作中に新たなシーンを書き加えさせた。そのため、1953年に映画が公開された時に画面に出された脚本家のクレジットはハンターとディントンが共有した。撮影地については、この1950年代に入ってから、ハリウッドを離れてヨーロッパなどで撮影するケースが増えて、本作の舞台がローマであったことから、ワイラー監督は最初から撮影場所を現地ローマとして、スタジオをチネチッタ撮影所にする決定をした。これは、製作費が低く抑えられたために、人件費が安く、また当時イタリア映画も好調で優秀なスタッフが揃っており、人材面での不安が無く。、またアメリカの観客がヨーロッパの文化を受容しやすかった点なども海外ロケの要因にある。イタリア側も映画産業に対し協力的であった。これは観光産業が目的で、本作で紹介される名所はスペイン広場、パンテオン、コロッセオ、真実の口など枚挙に暇がない。またヨーロッパの工業製品としてスクーターのベスパ、小型車のフィアットを登場させている。何より大きな影響を持ったのは、ファッションモードが世界へ発信された点にある。繊維産業により外貨を稼ぎたかった欧米のメッセージは大きな反響を呼び、ヘプバーンも「ヘプバーンと言えばジバンシィ」とされるほど、映画のみならずファッション革命のヒロインに成長していく。日本でもヘプバーン・サンダルなどの名前が残っている。この作品の撮影に入ったのは1952年の夏であったが、ところがこの年の夏はローマにとって20世紀で最も暑い夏の一つとして記録されるほどの「地獄の夏」であった。出演者はメイクが流れ落ち、頻繁にメイクアップをしていた。街は湿気でサウナに変わったと言われている。この作品で最初にヒロイン候補に挙がっていたのはエリザベス・テイラーであった。しかし、監督のフランク・キャプラが高額の製作費を要求したため、スタジオはキャプラを降板させ、代わりにウィリアム・ワイラーに白羽の矢が立った。ヒロイン候補にはジーン・シモンズの名前も挙がっていたが、ワイラーは「主役はスターである必要はない。アメリカ訛りのない、王女の風格のある女性が欲しい」として主役を自由にキャスティングできることを条件に、監督を引き受けた。そしてヒロイン探しに頭を悩ませて、ロンドンに行き、何人かの志願者に会っている。この時、オードリー・ヘプバーンはまだロンドンにいてワイラーに会っていた。この後にワイラーはパラマウント社ロンドン支社のミーランドにオードリーの写真と報告書をニューヨークに送らせている。1951年7月の頃であった。当時、オードリーは映画界では無名に近い存在で、体型も女優としては痩せすぎであったが、その彼女をロンドンのパインウッド撮影所に呼んでスクリーンテストを受けさせ、そのフィルムを見たワイラーがヒロインに抜擢することを決めた。この時、緊張気味にフィルムに収まっていた彼女がテスト終了を告げられて、破顔した時の笑顔がとびきり良くて魅了されたと後に語っている。グレゴリー・ペックも彼女の才能を認め、新人であるにもかかわらず自分と同等のクレジットを与えることに同意した。しかし、彼女にはそれ以前に声がかかってブロードウェイで上演される『ジジ』の主役に抜擢されており、この直後に船でニューヨークに向かった。そしてブロードウェイでおよそ6か月の公演が続き、「ローマの休日」の撮影に入ったのは主演に決まってから8か月後の1952年6月であった。ワイラーの演出は非常に凝っており、同じシーンの撮影に何回も繰り返すことで有名であった。スタジオでの撮影ではワイラーの要求が多すぎて、何度もテイクを繰り返すことが多い。ところがこの作品ではローマ市内での屋外ロケが多く、制約が多すぎて、カットをわずかな回数に限定せざるを得なかった。これはオードリーにとっては幸運であった。しかし市内の観光名所や公共施設で撮影するので、騒音対策、交通整理、パパラッチ問題に悩まされて、移動のたびに見物するファンの群れにも対応せざるを得ず、熱い夏で大変な作業を要したと言われている。ペックとワイラーは新人ヘプバーンの女優としての力量を引き出すために腐心した。真実の口のシーンの撮影では、二人は一計を案じ、本番で真実の口に手を突っ込んだペックは、本当に手を噛みちぎられたように演じた。ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せた。この自然な演技は、二人を十分満足させるものであり、1テイクでOKがでた。ローマ市内を二人がスクーターで走る場面は、この映画の代表的なシーンになったが、このスクーターで市内の幾つかを回る場面はわずか3分のシーンであるのに撮影には6日間を要した。しかしグレゴリー・ペックの運転するスクーターの後ろで横すわりで首にスカーフを巻いたヘプバーンの姿は1950年代を象徴するイメージとして記憶されて映画の伝説になった。映画の中盤に、アン王女が市内に出て美容院で髪を短く切り、尾行してきた新聞記者ジョー・ブラッドレーがスペイン広場で「偶然の再会」を装って2人が語り合う場面がある。時間にして2分にも満たないが、その時に階段下から撮ったカットで、後景に教会の鐘楼の下の時計が映っていた。カットのたびに時計の針が大きく動いており、このカットが何時何分に撮影されたかが分かり、広場の撮影に3時間以上も要していたことが分かる。まずアン王女が広場の階段の端に座っている時にジョーが声をかける最初のカットでは針は午前8時10分で、9秒後に同じアングルでジョーがアンの横に座ろうとしたカットでは9時15分を指し、ジョーがアンの横に座った後にアップしたカットでは11時25分、そして一緒に市内観光に行こうと合意して立ち上がったカットでは10時20分を指している。同じ位置から撮影するので、この場面の最初と最後のカットをまず撮って2時間以上を要し、2人が横並びに座って会話する場面を階段下からと階段上からの2方向から撮影したので後方の時計が11時25分を指す時刻まで撮影していたことになる。しかしデジタルリマスターされた時に、この時計の針は修整されて、今では確認することは困難である。かつて「ローマの休日」を語る時に必ず映画ファンの間で話題になったスペイン広場の時計であった。本作は作品中(オープニングタイトル、エンドロールなど)に著作権表記がなかったため、公開当時のアメリカ合衆国の法律(方式主義)により権利放棄とみなされ、パブリックドメインとなった。また日本においては、1953年の作品は2003年(平成15年)12月31日をもって著作権の保護期間が終了したものと考えられたことから、2004年(平成16年)以降、幾つかの会社から格安DVDとしてリリースされた。パラマウント社は日本では著作権が存続しているとして販売差し止めと損害賠償を求めて争っていたが、2007年(平成19年)12月18日、最高裁により著作権は消滅しているとの確定判決が下された。この判決により、日本でもこの映画はパブリックドメインとして扱われることになる(詳細は1953年問題を参照)。1987年にはアメリカでリメイク版のテレビ映画『新・ローマの休日』がキャサリン・オクセンバーグをヒロインにして公開された。日本でも映画製作50周年を記念した2003年にデジタル・ニューマスター版のスペシャルDVDが販売された。

出典:wikipedia

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