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名和神社

名和神社(なわじんじゃ)は、鳥取県西伯郡大山町(旧名和町)にある神社で、名和長年を祭る。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一社である。社紋は、名和氏の家紋の帆懸船である。名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名を合祀する。名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕に功があり、南北朝時代には南朝について戦った武将である。承応・明暦の頃(1652年 - 1658年)、名和長年の威徳を慕う地元の人々によって、名和邸跡とされる場所に小祠が建立されたのに始まる。延宝5年(1677年)、鳥取藩主となった池田光仲が長年を崇敬し、名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営して遷座し、山王権現を末社として「氏殿権現」と称した。明治初めの関係者の説明によると、神社の再興を志したのは光仲の子綱清で、毎年わずかな祭祀料をあてがった。くだって幕末の藩主池田慶徳が従来の小祠のそばに碑を立て、祀主を任じようと考えたが、果たせぬうちに廃藩になった1873年(明治7年)に県社に列し、「氏殿神社」と改称した。1876年(明治9年)6月22日、鳥取県が、名和氏の功績は楠木氏に比肩するから県社にとどめず国幣社格にしてほしいと内務省に伺を出した。10月には氏殿神社の祀官糟谷末枝が教部省に、11月には池田慶徳が宮内省に、それぞれ別格官幣社にしてほしいと願い出た。そして12月16日に島根県が二人の請願を後押しする伺を教部省に出した。翌1876年(明治10年)の夏、池田慶徳は島根県庁から鳥取に至る道筋で氏殿神社に参拝し、その衰退を目撃した。慶徳はまもなく亡くなり、11月28日に子の輝知が父の遺志を継いで社格を進めることを請願した。このとき既に内務省も別格官幣社に列する方針を固めており、輝知の請願を受けて太政官にその実施を促した。こうして1878年(明治11年)1月10日、氏殿神社の社号を名和神社に改定し、別格官幣社に列することを太政官が決定し、名和長重以下の将士を配祀すべきことを命じた。この年、1878年(明治11年)の5月11日に、宮内省式部寮の式部頭坊城俊政は、名和神社の例祭日は談山神社以下の例により、長年が卒した日を太陽暦に換算して定めるとして、その日を延元元年6月晦日(30日)から紀元(皇紀)1991年8月15日と計算した。21日に例祭日が式部寮の具申通りに決定された。懸案だった老朽社殿の建築のためには島根県と内務省が案を練り、明治11年度から3か年、国から4769円21銭6厘の交付を見込んでの工事許可を1879年(明治12年)1月17日に得た。1881年(明治14年)には外構・玉垣・厠なども国の費用で造ることになった。社殿は1882年(明治15年)に完成し、1883年(明治16年)3月10日に遷座式が執り行われた。式では、勅使として参向した鳥取県令山田信道が、宮内省から下げ渡された新しい鏡を従来の神像にかわる霊代として奉納し、祭文を読誦した。

出典:wikipedia

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