栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 ‐ 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)として知られる。戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年(大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。当時のエリート陸軍軍人の主流である陸軍幼年学校卒ではない一般中学を経ての入校であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季が、その他に田中隆吉、影佐禎昭らがいた。1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科:騎兵、席次:125番)、騎兵第15連隊附見習士官となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵学校を経て中尉。1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、大尉。同年11月29日に卒業(第35期)、成績優等(次席)により御賜の軍刀を授与されている。同年12月、同姓の栗林義井と結婚。その後、太郎・洋子・たか子の一男二女をもうける。孫に衆議院議員の新藤義孝がいる。騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年(昭和2年)、アメリカに駐在武官(大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に少佐に昇進、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米のカナダに駐在武官(公使館附)として駐在した。フランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」であり、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であった。1933年(昭和8年)8月、中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、大佐に昇進し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わっている。1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に昇進し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦目前の1941年(昭和16年)9月19日、緒戦の南方作戦においてイギリス領香港の攻略を任務とする第23軍参謀長に就任した栗林は作戦立案や指導にあたり、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて陸軍は18日間でイギリス軍を撃破し香港を制圧した。1943年(昭和18年)6月10日、中将。同日、第23軍参謀長から留守近衛第2師団長に就任。1944年(昭和19年)4月6日、師団厨房で起きた失火による火災事故の責任をとり師団長を辞し、東部軍司令部附となる。1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面の防衛担当であり父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。兵団司令部を設備の整った従来の父島から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮を執る。敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。また、島民はアメリカ軍上陸以前に本土や父島に避難(強制疎開)させた。翌1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、応戦砲撃を行った(日本)海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し全滅するなど誤算もあったものの、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は10時過ぎに一斉攻撃を開始する。その夜、前線からの報告を調べたアメリカ海兵隊のホーランド・スミス中将は栗林の兵が無謀な突撃をまったく行なわないことに驚き、取材の記者たちにこう語った。「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えるものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部と陸大時代の兵学教官であった蓮沼蕃大将に対し打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結・#訣別の電文)。翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨により陸軍大将へ昇進。平時とは異なる戦時昇進ではあるが、53歳という年齢は日本陸海軍中最年少の大将である(栗林の大将任官は訣別電報を受けての進級ではあるものの、死後進級のいわゆる特進では無い)。同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の指令を送った。17日当日および以降は総攻撃の機会が訪れなかったため、以来時機を窺っていた栗林は26日、約400名の将兵とともに、自ら指揮を取りアメリカ陸軍航空軍野営地に対し夜襲を敢行し、戦死したと推定されている。。墓所は長野市松代の明徳寺だが、遺骨は無い。戦後1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと軍参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005年(平成17年)に硫黄島における栗林に焦点をあてた梯久美子の著書『散るぞ悲しき』の刊行に続いて、翌2006年(平成18年)、映画『硫黄島からの手紙』が公開され、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られるようになった。栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。アメリカ合衆国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際「栗林将軍()」と、栗林忠道の名前を挙げる人物が多い。戦闘自体は敗北に終わったものの、僅か22km²(東京都北区程度の面積)に過ぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力、および絶対的な制海権・制空権を持ち、予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、最後まで将兵や兵士の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1ヶ月半も硫黄島を防衛した指揮力は、アメリカ合衆国では高く評価されている。従来、日本軍の島嶼防衛における「水際作戦」という方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築したうえで、不用意なバンザイ突撃による玉砕を厳禁し、部下に徹底抗戦を指示した。その結果、アメリカ軍の死傷者総数が、日本軍守備隊のそれを上回るという成果を上げ、またM4 シャーマン中戦車やLVT等を多数撃破・擱坐させるといった「物的損害を与えること」にも成功し、のちにアメリカ軍元帥をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。
出典:wikipedia
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