千代田(ちよだ)は、大日本帝国海軍の千歳型水上機母艦の2番艦。後に航空母艦へと改造された。千代田は江戸城、現在の皇居の美称で、艦名は明治初期の千代田形、明治中期の巡洋艦千代田に続いて3代目となる。戦後は海上自衛隊の潜水艦救難母艦「ちよだ」に引き継がれた。千代田は1938年(昭和13年)に水上機母艦として竣工した。千代田の場合、水上機母艦としての役割に加えて甲標的(特殊潜航艇)母艦としても使用できるように設計・建造された。艦内に合計12隻の甲標的を搭載可能であり、その場合でも12機の水上機を搭載可能になっていた。また、航行中に艦尾両舷の滑り台より甲標的を発進できるという構造となっていた。ミッドウェー海戦で4隻の正規空母を失った帝国海軍は、空母不足を解消するため千代田を空母に改装することを1942年(昭和17年)6月30日に決定した。空母への改造は1943年(昭和18年)2月1日より開始され、約10ヶ月の期間を要したが同年12月1日に完成した。空母改造後は第三航空戦隊に所属し船団護衛に従事、1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦にも参加した。しかし1944年(昭和19年)10月25日、千代田は姉妹艦の千歳とともにレイテ沖海戦でアメリカ海軍機動部隊の艦載機による攻撃で航行不能になり艦隊から落伍、米第38任務部隊から分派され追撃してきたデュポーズ隊に捕捉されてしまい、重巡洋艦ウィチタ(USS Wichita, CA-45) 以下の巡洋艦隊の攻撃を受けて最後の止めを刺され、16時40分左に転覆した後沈没した。艦長城英一郎大佐以下総員が未帰還となった。水上機母艦時の詳細は千歳型水上機母艦#艦型を参照。1940年5月より甲標的母艦に改造された。詳細は千歳型水上機母艦#甲標的母艦を参照。艦内の格納庫を甲標的用に改装し甲標的12基を搭載、艦尾にスリップを設け、そこから発進できるようにした。また艦橋トップに甲標的指揮塔を増設した。搭載機は12機に減少、射出機も2基となり、補給用重油も1,000トンに減少した。航空母艦時の詳細は千歳型航空母艦#艦型を参照。マストはメインマスト、無線マスト共に3脚トラス構造、メインマストのトップはV字形状をしていて、同型艦千歳との違いを見せている。最終時の兵装は、あ号作戦後には25mm単装機銃30挺を装備とされる。13号電探1基もあ号作戦後に装備、右舷2本目のマストに設置した。計画は九五式水上偵察機24機、補用4機であったが、中国進出時には九四式水上偵察機も合わせて9機搭載といわれる。1940年4月撮影と推定される写真でも九五式水上偵察機と九四式二号水上偵察機の搭載が確認できる。1942年には零式水上偵察機を搭載、尾翼マーキングは同年7月から12月まで「V1」で文字色は白だった。計画は零式戦闘機21機(うち7機を露天繋止)、九七式艦上攻撃機9機であった。レイテ沖海戦時には戦闘機、戦闘爆撃機として零式戦闘機を搭載、攻撃機は九七式艦上攻撃機だった。尾翼マーキングは1944年春で3航戦2番艦であり「32」(2は小文字)、マリアナ沖海戦からは航空隊名の「653」を使用、レイテ沖海戦時には垂直尾翼上端に「3」も記入された。文字色はいずれも白。
出典:wikipedia
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