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藤田航空機八丈富士墜落事故

藤田航空機八丈富士墜落事故(ふじたこうくうきはちじょうふじついらくじこ)は、1963年8月17日に発生した航空事故である。この年は航空事故が多発していたが、同事故が最悪の犠牲者数となった。また捜索が長引いたことが後で批判された。1963年8月17日、藤田航空(同年11月1日、全日空に吸収合併)のデハビランドヘロン(イギリス製レシプロ4発機、登録記号:JA6155)が東京都八丈島空港を羽田空港へ向け離陸し管制塔へ離陸報告直後、消息を絶った。当日は東京浅草の旅行会一行41名の団体客がおり、さらに定期便として運航されるはずのヘロンより大型のフレンドシップが定期点検中で使用できなかったため、当時東亜航空に貸し出されていたJA6155を返却させ、団体客らはチャーター同然のヘロン3機で東京へ帰った。事故当日、八丈島は濃霧に覆われ視界が悪かった。午後2時24分、操縦乗員2名、客室乗務員1名、旅行会の主催者(当時62歳)ら乗客16名、計19名を載せた1番機(消息を絶ったJA6155機)が離陸、続いて2番機、3番機が離陸したが、後続2機が羽田に到着し予定の午後3時39分を過ぎても1番機が到着せず、3時間分の搭載燃料が枯渇する午後4時半、遭難が確実となり大規模な捜索が始まった。また同日、沖縄本島と久米島を結ぶ定期旅客船「みどり丸」が那覇沖で横波を受けて転覆沈没する惨事が発生していた。ガソリン油膜が付近海域に漂流していたため、1番機は予定されていた航路下の海域で遭難と考え、海上保安庁巡視艇、藤田航空同僚機、全日空のビーチクラフト、航空自衛隊、在日米軍機が捜索したが、一向に発見できなかった。そこで19日になり警視庁は八丈島の山地を捜索したが打ち切った。20日午前8時55分、藤田航空同僚機で事故当日2番機機長だったパイロットが、空港から10km離れた八丈富士8合目の雑木林に、激突していたJA6155機を発見した。警察官や消防団などが墜落現場にかけつけたが生存者はなく、事故機は尾翼を残し焼け落ちていた。操縦乗員2名と1名は機外、ほかの16名は客室でそれぞれ発見されたが、遺体は焼損が激しかった。八丈島空港の通常出発方法では南西方向へ離陸し左旋回するはずが、1番機は右旋回したことを2番機の機長が証言した。また事故機の機長(当時44歳)は藤田航空の訓練所長兼飛行課長代理を務めるベテランパイロットで、操縦ミスが事故原因とは考えにくかった。そのため当初、事故機の右旋回は機長がショートカットして早く羽田に向かおうとしていたからではないかと考えられていたが、実際にはエンジンが不調を起こし、空港に戻ろうとしたことが主因と見られるものの、事故原因は確定しなかった。また捜索に関し、事故当日に山で炭焼きをしていた人から「衝撃音があった」という通報情報が捜索本部に伝わっていなかった点、捜索した航空会社、海上保安庁、航空自衛隊などの連携がなかった点、空港周辺を捜索しなかった点が批判された。

出典:wikipedia

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