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鈴木邦男

鈴木 邦男(すずき くにお、1943年8月2日 - )は、日本の政治活動家、政治団体「一水会」元最高顧問、プロレス評論家、予備校講師。「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)共同代表。清美応援団員。「和歌山カレー事件・林真須美さんを支援する会」代表。かつては新右翼の代表的人物とみられていたが、2015年、一水会は「一水会は、これまでのように右翼団体の名を自ら呼称することを止め、社会政治活動家・思想探求者などの名称のもとに国家革新運動を展開します」と宣言している。福島県郡山市生まれ。税務署勤務だった父親の都合で高校生の頃まで東北地方を転々とした。17歳の時、山口二矢が起こした浅沼稲次郎暗殺事件をテレビで目撃、同い年の少年が社会のことを考え、あまつさえ人の命を奪い自決もするということにただならぬ衝撃を受ける。春休みに大日本愛国党を訪ね、総裁の赤尾敏と対面する。1961年仙台市の東北学院榴ヶ岡高等学校卒業。ただし、卒業間際に聖書を読む時間中に読んでいた赤尾好夫の英単語帳を先生にストーブで燃やされたことに怒り、職員室に乗り込んでその先生を殴りその場で退学になる。その後半年間、教会に通って懺悔の生活を送り、翌年の9月、一人だけで卒業を迎えた。1967年、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。学生時代は、生長の家学生会全国総連合(以下生学連)に所属し書記長として活動(母親の影響で小学生の頃より宗教団体生長の家とはかかわっていた)。生学連もその結成に協力した民族派学生組織「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協。後の全国学生協議会連合)の初代委員長を務めた。しかし、当時の書記長だった安東巌らとの対立が原因で一か月という短期間で組織を去り、生長の家からも脱会した。1970年3月、早稲田大学大学院政治学専攻修士課程中退。学生仲間の森田必勝(元日学同活動家。三島由紀夫の主宰する楯の会に入会したため日学同を除名された)の誘いで教育学部に転部したが、左翼運動の退潮と共に自らの運動も敵を失い、大学を中退して仙台の実家に帰り、書店の店員を経て、同年4月、産業経済新聞社に入社。主に産経新聞の販売局や広告局に在籍し、一旦は政治活動から離れていた。しかし昭和45年(1970年)11月25日、三島事件で森田が三島由紀夫と共に自決したことに衝撃を受け、1972年、犬塚博英や四宮正貴、阿部勉ら生学連や学協時代の仲間などを中心に「一水会」を創設し会長に就任。さらに1973年、催事でストリッパーを呼んだことに怒り、当時、六本木にあった防衛庁に乱入する事件を起こして逮捕され、懲戒解雇となる。1981年12月22日、ソ連大使館への暴力行為の容疑で警視庁大崎署から家宅捜索を受けた際、捜査令状を破ったとして公文書毀棄と公務執行妨害の現行犯で逮捕され、23日間の留置生活を送るが、嫌疑不十分で不起訴処分となる。この事件について鈴木自身は「令状の要点をメモしようとしたら警察官に令状をひったくられ、そのせいで破れた」、「“日本民族独立義勇軍”と一水会の関係を疑われたための別件逮捕」と主張している。会長時代の前半は、過激な実力行動で警察に検挙されたこともあるが、後半は、会の政治的な大衆活動からは一定の距離を置き、言論活動に力を注いだ。1999年には一水会代表を退任、顧問となる。代表在任中より河合塾現代文・小論文講師、日本ジャーナリスト専門学校講師等も務めた。河合塾では同じく現代文講師で左翼思想家の牧野剛と「左右討論」などの企画も行った。2015年に一水会顧問も退任し、現在の肩書きは元一水会最高顧問である。しかし講演やトークライブの主催者側がチラシなどに、「元」を書かない場合もある。このことは、同じく2015年にある経緯から一水会が右翼の看板を下ろしたことと同様に、鈴木邦男の活動が単なる言葉の上でのものではないことを象徴している。一水会結成当初の鈴木は、井上ひさし宅に脅迫電話を入れたところ、逆に“君は愛国者だというが、ならば天皇全員の名を言えるか、私は出来るぞ”と全125代を暗誦されるなどして「返り討ち」に遭い、奇縁ができたというエピソードがある。一方、構成員が自決をも辞さぬ態度を示した東アジア反日武装戦線に「戦前の血盟団のようだ。先を越された」と衝撃を受け、右翼系の『やまと新聞』に『〈狼〉たちと右翼武闘派』という連載を始める。それが左翼系の三一書房社長の目にとまり、『腹腹時計と<狼>-<狼>恐怖を利用する権力』として出版され、「右翼武闘派が新左翼を評価した」と注目された。また、「左右を弁別せざる」として竹中労、牧田吉明、塩見孝也ら左翼、アナキストとも交流し、たとえ反対陣営に対しても、学べること、共闘できることを模索した(これは戦前の右翼運動の老壮会や猷存社に学んだというが、かなり形態は異なっている)。また、1985年前後には『朝日ジャーナル』(部数減少で1992年廃刊)に真面目な政治論文を度々執筆し、これに刺激されて多くの人々が一水会の運動へ参画した。この後次第に鈴木の文章は現在に近い形へと変化していく。平成になる頃から、かつてテロを公然と肯定していた鈴木は、テロ否定論者に変わり、「極右や極左に言論活動の場を与えればテロはなくなる」と主張した。冷戦終結後は、「宿敵・左翼の崩壊を危惧する」、「左右の超越を訴える」など既成右翼とは違った主張を展開している。現在では、左翼組織と付き合い、左翼団体の賛同人まで務めているため、左翼思想に転向したと言われ「似非右翼」「右翼の皮を被った左翼」などの批判もある(一水会代表辞任の一因でもある)。鈴木自身も2008年、今の自分は「右翼度30%、左翼度70%」で「四捨五入したら完全な左翼」であるのに、いつまでも右翼と言われると述べている。このことを、2015年に出演したロフトラジオで平野悠に訊かれると、「証言・昭和維新運動」を執筆する際に取材した、血盟団に参加した小沼正の「日本精神は左翼である」という言葉を引用している。選択的夫婦別姓制度に関しては、「左右関係ない問題として議論するべき」と述べる。2015年4月に執行された東京都清瀬市議会議員選挙では、立候補した元赤軍派議長で現在は駐車場の管理員である塩見孝也の応援演説をした。平野悠、雨宮処凛、西東京市議会議員の森てるおなどが駆けつけたが、惜しくも落選。辻元清美応援団の一人。応援団には菅伸子、崔洋一、辛淑玉、湯浅誠、石坂啓も参加している。左翼系マスコミの紙面に、主張が取り上げられる機会が多い。また、JR東日本の主流・最大労働組合JR東労組の松崎明とも親交があるなど左翼の友人が多い。2012年東京都知事選挙では「宇都宮けんじさんキックオフ集会」に参加するなど前日弁連会長の宇都宮健児を積極的に支援した(落選)。元社会党議員の上田哲等各党現職・元職議に人脈がある。改憲には批判的であり、「僕は今の憲法は押しつけ憲法、占領憲法だと思ってますけど、自由のない自主憲法よりは、自由のある占領憲法のほうがずっといい」と述べている。堀辺正史から「骨法」を学んだ経験や格闘家の前田日明・佐山聡・須藤元気らと親交がある。2006年から2009年の3年間で88名の逮捕者を出す法政大学の学生運動について「この問題は日本人全員が考えなければいけない問題」と発言、左翼運動の主団体である法政大学文化連盟には賛同人として名を連ねている。2010年に日本で公開された映画『ザ・コーヴ』の公式ホームページ上に「勇気のある映画だ。この映画を見て、イルカ漁のことを初めて知った。 日本人の多くが全く知らないのに、「日本の伝統・文化だ」と言われても困る。」との意見を寄せている。月刊『創』にコラム「言論の覚悟」を連載中。イメージフォーラム前での抗議行動にひとりで乗り込み、対話を試みた鈴木は、西村修平に殴られ流血する。その際、隣にいた公安刑事がティッシュを渡した。この模様は海外でも報道された。鈴木邦男と西村修平は以降、何度もデモや講演会などで顔を合わせている。2013年、「2013年反韓デモ」を厳しく批判。自身のブログでもデモ隊に抗議する市民に混じって声を上げる姿が確認されている。3月14日に排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会に参加した際には「映像を見て非常に悲しくなりました。(彼らに掲げられている)日の丸の旗が可哀想だと思いました。日の丸は日本の優しさ、大和の国の寛容さを表すもの。それが排外主義的なものに使われている。日の丸が泣いていました。血の涙を流していました」と語った。現在、河合塾が主催する左右討論会の常連でもある。恋愛については、学生・青年時代は政治運動に忙殺され、異性交遊の機会が乏しかったことを後悔の念を込めて語っている(一時、活動の都合で教育学部に属していたことがあり、周囲に女学生が多かった)。赤報隊事件との関係を疑われ、当局から家宅捜索も受けた(#来歴)。直接関与は否定しながらも、真犯人の情報を握る旨を匂わせ、沈黙を守り続けている(事件に絡み、2002年3月、放火被害に遭った経験もある)。また、真犯人を庇っているとの指摘を元公安警察からされた際には、不敵にも「鋭い読み」と評している。ペルー日本大使館占拠事件の際、大使館を占拠した犯人たちが、突入したペルー当局によって射殺された際、TBSのインタビューに答えてこれを「虐殺」と呼び、批判された。また、北朝鮮に渡ったよど号グループに好意的である事についても批判がある。また既存の左派勢力でさえも北朝鮮支持を公言出来なくなったあとも金正日政権への支持を表明し、渡朝を繰り返し経済制裁に反対、北朝鮮拉致事件の被害者は北朝鮮に返すべき等と公言し強い批判を浴びる。イラク日本人人質事件の際は、「一水会現代表の木村三浩がイラク国内にパイプを持っているから事件解決に貢献した」とし、高く評価と同時に産経新聞を批判した。さらに、日本政府や、人質にされた3人と拘束された2人(うち、片方は一水会在籍歴あり)に苦言を呈してもいる。アムネスティ・インターナショナル日本のサイトにおいて死刑廃止を主張する。死刑廃止が日本文化であり日本精神であるとしている。「和歌山カレー事件・林真須美さんを支援する会」前代表の三浦和義の獄中死に伴い、代表を務める。村井秀夫刺殺事件直後、実行犯の徐裕行について「純粋に国を憂う人間が、国民に変わって”やってやる”と思い、こんなことをやってしまったのでは?徐容疑者はある意味でオウム=サリンとテレビにマインドコントロールされていたのでは。オウム、村井氏は非常にかわいそうだ」「組織な背景はないと思う」と持論を展開し、漫画家の小林よしのりから鈴木の主張と徐の供述に矛盾があると批判を受けた。その後鈴木は出所した実行犯と親交を結び、2013年に上祐史浩と共著で「終わらないオウム」(鹿砦社)を出版。再び「事件の背後関係はない」と主張している。なお、徐は20代の頃に朝鮮総連に出入りしている。2013年には、ロケット団の三浦昌朗とコンビを組み、「ニカラグア・ライト レフト」として漫才に挑戦した。もちろん鈴木邦男がライトである。月30冊の読書ノルマを掲げており、一年で400冊ほどの本を毎年読んでいる。「失敗の愛国心」では、「よりみちパン!セ」シリーズの巻末恒例の谷川俊太郎の「死んだらどこに行きますか?」の質問に、「死んだら本になる」と答えている。2010年より、毎年、誕生日に近い土曜か日曜に、阿佐ヶ谷ロフトAにて「鈴木邦男生誕100年祭」が開かれ、多種多様なゲストと観客があつまり、和やかに鈴木の誕生日を祝う。言論者の覚悟として、本の巻末には必ず、自宅の住所と電話番号が明記されている。

出典:wikipedia

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