


文徳天皇(もんとくてんのう、天長4年8月(827年) - 天安2年8月27日(858年10月7日))は、平安時代前期の第55代天皇(在位:嘉祥3年3月19日(850年5月8日) - 天安2年8月27日(858年10月7日))。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。仁明天皇の第一皇子。母は左大臣藤原冬嗣の娘、皇太后順子。承和9年(842年)、承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父藤原良房にも推されて代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の譲位により践祚。こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強めた。文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年の3月に第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産んだ。惟仁親王は11月に、生後8か月で3人の兄を押しのけ立太子した。天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子惟喬親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に大内裏の東部にある東宮雅院や、嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかった。また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。9世紀後半における摂関政治や陣定の成立など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある。やがて天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣源信の諫言で取り止めとなった。かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。通説では死因は脳卒中といわれているが、日本史研究者の彦由一太はあまりの病状の急変から藤原良房による暗殺説を唱えている。六国史の第五として文徳一代の治世を記録した『日本文徳天皇実録』(通称「文徳実録」)が編纂されている。御陵の在所によって別名を「田邑帝」(田村帝)ともいう。陵(みささぎ)は、京都府京都市右京区太秦三尾町にある田邑陵(たむらのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。考古学名は太秦三尾古墳。中世以降、陵の所在地はまったく不明となっており、江戸時代には天皇の杜古墳(京都市西京区御陵塚ノ越町)が候補とされていた。幕末の谷森善臣の比定に従い、現在宮内庁によって京都市右京区太秦三尾町に陵墓が定められているが、これは横穴式石室を持つ古墳時代後期とみられる円墳であり、平安時代の陵墓としては不適当と考えられている。また皇居では宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
出典:wikipedia
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